異形種々雑話10「小豆と小鬼」
しょきしょき。
軽快な音が、夕暮れ時の川原に響く。
草原を覆う景色は、昼の白さから夕日を映して橙に変わった。そんな叙情的な景色には似つかわしくない、軽やかで、本来聞こえるはずのない不穏な音だ。
しょきしょき、しょき。
ざざっと、水に半分浸けたざるの中で、あずきが泳いだ。
「なあ、おれにもやらせて」
目を輝かせて言うのは、赤い髪をした十歳くらいの着物姿の子供。頭には、ささやかに二本の角が生えている。にかっ、と人懐こく笑った口元から、鋭い八重歯が覗いた。
鬼の子は、川に手を入れた。
「冷たくないの?」
しょき、しょき。
「なあ、なあ」
しょきしょきしょきしょき。
「なあなあなあなあ」
ざっ。
あずきの音が止み、代わりに、はあっと深いため息の音。
「お前…隣の山にいる小鬼だろ。俺のことは、知ってるよな?」
「うん。最近小豆を洗うじいちゃんが川に出るって、大天狗が言ってた」
はああ、と、小豆洗いはもう一度深いため息をつく。
子供とも老人ともつかないような、小柄で痩せた体を伸ばして、妖怪は先ほどまで洗っていた小豆を、ざるごと川縁に置いた。
「いいか?俺は妖怪だ。小豆を洗ったり人を取って食ったり、とにかくちょっと怖い妖怪なんだ。お前も鬼なら、わかるだろ?」
んー、と、小鬼は首を傾げる。
「わかんない。俺、小豆も洗ったことないし、人取って食ったことも無いもん。お前、人食いのわりに痩せてるけど、どうやって食ってんの?」
「鬼なのに…人は食わないのか」
やや呆れたように小豆洗いは言い、自分より1尺ほど背の高い小鬼に向かって、やや芝居がかった調子で説明を始めた。
小豆洗いは、川によく現れる。
川の近くを通りかかった人間は、このなんとも言えない歌の節回しと、よく見えない姿に興味をひかれ、ふらふらと引き寄せられた挙げ句に川に落ちてしまう。
「…らしいんだよ、俺たち小豆洗いは、な」
最後の、なんとも曖昧で切なそうな語り口を聞いて、鬼は小豆洗いの顔を覗きこむ。
「らしいって、なんだよ」
「いや、俺も人取って食ったことないんだ…新参ものなんだよ、悪いか」
へえ、と鬼が面白そうに笑った。
「じゃあ、ご飯はまだなのか?」
「…そういえばな。小豆を洗っていて、忘れていた」
「その小豆は?どこから出したんだ?」
「気づいたら持ってたんだ」
「準備がいいな。ざるも?」
「そうだな…多分」
小鬼は思わず笑った。不安そうな妖怪の表情が、なんとも可笑しい。
「あ、良いこと思い付いた!」
なんだ?と訝しげに見る小豆洗いの顔は、不自然な皺が刻まれていて、人相は決して良くない。
しかし、そんなことは全く気にしない小鬼は、無造作にこの小柄な妖怪の手を引いた。
「天狗んちに行こう!その小豆持って」
え?何のことだ?と、呆気に取られている小豆洗いを、小鬼は難なく背負う。
「今日はご馳走だ!うん」
烏天狗の飯は美味い。それを思い浮かべたからか、先ほどよりも更ににこやかに、そして軽々と、小鬼は山をずんずんと山を登っていった。
山の頂上近くの、見晴らしの良いひらけた場所には、天狗の長が住んでいる。
一族を見守り、町を見下ろし、妖怪どもを睨み付ける大天狗が、小豆を洗うだけの妖怪を見据えている。
「あらまあ」
「おお」
「へえーっ」
のんきな声が、広い屋敷の一室に響いた。
立派な羽を持つ天狗一家に囲まれて、先ほどまで川に浸かっていた着物のまま、背中を丸めて立ちすくむ小豆洗いの緊張度合いは、既に極限に達していた。
小鬼はというと、まるで自分の家のようにくつろいだ様子だ。
「大天狗が言った通り、小豆を洗ってたんだ。じゃぶじゃぶって」
「しょきしょきだよ」
緊張で強張っていたとしても、そこは訂正しておかねば。生真面目な調子で咄嗟に言い返したこの妖怪に、大天狗は興味津々で語りかけた。
「俺も見たのは久しぶりだし、話すのは初めてだ。小豆洗いよ、お前はいつからあそこにいる?」
厳つい顔に似合わず、口調はやさしい。小柄な妖怪は幾分ほっとして答えた。
「…そんなに前じゃあないです。多分、大天狗様が人間達から聞いたのより、二、三日前位かと」
「では、本当に最近なんだな。して」
大天狗は、その骨太の指でざるを持ち上げる。
「なかなか良い小豆ではないか」
あっ、と小豆洗いが言ったが、人間よりもはるかに大きな大天狗の胸元に、4尺ほどしかない妖怪の手が届くわけがない。
はあ、とまたため息をついた小豆洗いの頭上から、これまたにこやかな烏天狗の声が聞こえた。
「じゃあ、今日はご馳走ね」
白い湯気が、鍋から上っている。
なぜ。
「美味そう!」
なぜ。
「美味しそうだな」
なぜ。
「おかわりあるわよ」
「やった!」
畳敷きの部屋。質素ながらも手入れが行き届いた各人の膳に盛られた赤飯。
当然、小豆洗いの目の前にも置いてある。
なぜ、このような状況になったんだろう。
「小豆洗いさんも、遠慮なく。あらいやだ、小豆はおもたせでしたね」
からからと、烏天狗が明るく笑う。
「上等な小豆と米で炊く赤飯は最高だな、うん」
大天狗が有り難そうに手を合わせると、一同はそれに倣う。いただきます、と。
美味い美味い、と食べる天狗と小鬼たちの隣にちょこんと座らされた小豆洗いは、赤飯を口に運ぼうとして、ふと箸を止めた。
「あの…俺は明日から何を洗えば…」
ふっくら炊かれた小豆を洗っても、しょきしょきという音は出ないだろう。小さな妖怪は、愕然とした。小豆洗いが、小豆を洗わないとすれば、どうすれば良いのだ。
「洗濯物でも、洗えば」
小鬼が赤飯をかきこみながら、何でもないように言う。あら、それはいいわね、と烏天狗も同意した。そうか、洗濯物か…と何だか納得しかけ、小豆洗いは赤飯を口に運んだ。
美味い。
はっと思い、無我夢中で食べる。
そういえば、空腹ではなかったか。そもそも、川にいた時から、自分は飯を食べていない。妖怪に飯は必要ないのか?いや、それならなぜ、人を取って食うなどと歌う。
小豆洗いの頭の中を、答えが出ない疑問がぐるぐると回る。しかし、空腹が満たされていくうちに、そんなものはいつしか消えていった。
子供の天狗が、にこにことおかわりをよそってくれた。
小鬼も、温かい汁物が入った椀を、妖怪の目の前に、でん、と置く。
赤飯に、塩でもかけただろうか。
そう思い、小豆洗いはすぐに、自分の目から涙が溢れていることに気づいた。
烏天狗は、お茶を煎れてくれた。
大天狗は悠然と見守っている。
泣きながら赤飯を食べる、小さな妖怪を。
真夜中、空になったざるを小脇に抱え、小豆洗いは帰っていった。小豆の代わりに、赤飯のおにぎりを持って。
「まさか、おにぎりは洗わないよな?」
小鬼がおよそ似合わない、思案するような顔で言う。
「そうだな、まあ、川に入る前に食べきれれば良いがな」
「迷わずいけたら、いいですけどねえ」
大天狗夫婦の穏やかな口振りに、子供の天狗も静かに頷く。
「迷わず?」
ひとり、わからずに首を傾げる小鬼に、天狗が声をかけた。
「鬼、今日は遅いから泊まっていけ。夜道は危ない」
鬼相手に危ないということもないだろうが、袖を引いた友の真面目な顔を見て、腑に落ちないまでも、小鬼は了承した。
翌朝、大天狗たちは、小鬼を先頭にして山を下っていた。
「いつも夏になると蛙をとる、あのへんだよ」
いまは降ってはいないが、山道にも幾らか雪は残っている。寒さのせいで食べられる植物は育たず、最近、山では人とも滅多に会わない。
がさがさと枯れた野草を掻き分けると、すぐに川原にでた。
水に浸かるぎりぎりのところ、雪が溶けて少しだけ覗いた石の上に、ゆうべ烏天狗が握った赤飯のおにぎりがある。そして、浅瀬の岩に引っ掛かり流れないようにたゆたうのは、ざるだ。
ざぶざぶと水の冷たさも着物が濡れるのも意に介さず、大天狗は川の中を大股で進む。ざるを水面から広いあげ雪の上に置くと、そこへ丁寧におにぎりを乗せた。
「最後のは、食べきれなかったか。ゆうべは満腹になっただろうか」
「大丈夫ですよ。沢山食べてました。きっと、人だった時の分も」
大天狗と烏天狗は目をつむり、静かに手を合わせた。小鬼は突然無言になった場に若干戸惑ったが、小さい天狗も手を合わせているので、見よう見まねで合掌する。
「…小豆が食べたくて、妖怪になったのか?」
「さあねえ。でも、人は悲しくても、優しすぎても、姿形を変えてしまうことがあるらしいから」
小鬼は、雪に覆われた山と、村を見た。家々の屋根は、まだ白い。
「春になったら、みんな沢山ご飯を食べられるようになるかなあ」
この優しい鬼の子の言葉に烏天狗は頷き、一同へ向き直る。
「さあ、私たちも帰って朝ごはんにしましょう」
四人はゆっくりと、川を背にして歩きだした。
何度も川を振り返りながら、小鬼は天狗たちのあとについて山を登っていく。その耳元で時折、しょき、と、何かがこすれ合う音が聞こえた。
小豆と小鬼・了