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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

配達員(2)

 その日も市営団地に配達があり、荷物を脇に抱えて、階段を上がった。

 五階に着くと彼女は荷物を地面に置き、伝票を読んで宛名を確認した。短い廊下の両端に、一つずつ部屋がある。深緑の同じドアだ。彼女はマニュアル通りに部屋番号を目視確認して、それから右の部屋のインターホンを鳴らした。

 しばらく待っていると、背後でドアが開いた。半分ほど開いていて、そこから老女が顔をだした。

「いらっしゃらないのかしら?」と老女が聞いてきた。

 はい、と彼女は答えた。

「大変ねぇ」と老女は言った。

 いえ、と彼女は答えた。「前にきたときもいらっしゃらなかったんですけど、もしかして、空き家ですか?」

 老女は首を横に振りながら言った。「いいえ、ちゃんといるわ。男性のかたよ。お仕事へでかけたんじゃないかしら」と老女は答えた。

「何時ごろ、お帰りでしょうか?ご存じないですか?」

 そうねえ、と老女は言った。「いつもなら、七時くらいには帰ってくるわねえ。車が停まってるから、間違いないと思うわ」

 そうですか、と彼女は言った。視線を反らして、質問を考えた。「おひとりですか?奥様は?」

「何年か前まではお母様がいらっしゃったのだけれど、今はちょっと、わからないのよ。ほら、近所づきあいっていうのも、最近はないでしょう?」

 そうですね、と彼女は答えた。最近と言われても昔のことなど知らないが、一応同意してやった。「ありがとうございました。それじゃあ」

「おまちなさいな」と老女は言った。「荷物、預かってもいいのよ」

 彼女は思案してみた。だが無理だった。あとから本人に文句を言われたら、面倒なことになる。

「遠慮なさらないで」と老女は言った。

「そういうわけにはいかなくて。プライバシーとかなんとか保護とか、ややこしい決まりがあるんですよ。ありがたいお話なんですけど、お断りします。でも、本当に困ったら、そのときはお願いしますね」

 そう、と老女は嬉しそうに言った。

 彼女は業務に戻った。団地の外を一周回って、夕方過ぎに軽食をとって、また戻ってきたが無駄だった。三周目の配達が終わって、それからようやく七時を過ぎたので、電話をかけてみることにした。その頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。ほとんどの家は電気が点いていなかった。単純に空き家が多いからだが、あの家も、老女の家も、電気が消えていた。

 七回目のコールで相手の声が聞こえた。「どちらさまですか?」

「宅配便サービスのものです。先ほどもお伺いしたのですが、いらっしゃらなかったようなので」

「宛名は?」

 彼女は伝票の名前を読み上げた。「ご本人様でしょうか?」

 ええ、と相手は答えた。こちらを疑っているような声だった。「まぁでも今は誰もいないですから、ドアの前に置いて帰ってください。ごくろうさまでした」

「そういうわけにはいかないんです。盗まれたら大変ですから」

「べつに構わないですよ」と相手は答えた。彼女はなにか言おうとしたが、遮られた。「本人が言ってるんだから、いいじゃないですか。どうせ大した荷物じゃないし、訴えたりしませんから」

「ハンコかサインを頂かないと、困りますし」

 相手は少し考えてから答えた。「それくらい、自分で書けばいいでしょ?どうせわかりゃしないんだから」

「じゃあ、またきます」と彼女は言った。「いつなら都合がいいですか?」

 しばらくのあいだ、沈黙があった。彼女はその家の窓を見て、なんとなく微笑みかけた。カーテンは閉まっていて、真っ暗だった。

 相手は質問を返してきた。「なんだお前は、どういうつもりなんだ」

 彼女は笑うのをやめた。「どういうつもりって」

「本当に配達員かって聞いてんだよ」

 本当です、と彼女は答えた。彼女はちゃんとユニフォームを着ていた。ロゴマークの入った帽子もかぶっていた。その下には茶色に染めた髪がある。胸は小さいが、ソフトボールをやっていたので体つきは悪くない。いずれにせよ、配達員のイメージそのものの格好だった。

 彼女はカーテンが開くかどうか、慎重に見守った。だが動きはなかった。

「自分でサインをして、置いていけ。わかったか?」

 わかりました、と彼女が言うと、電話は切れてしまった。

 彼女は車に背を預けたまま、しばらくじっとしていた。上司に連絡しようかとも思ったが、電話して相手を説得するように言われそうな気がして、嫌だった。彼女は仕方なしに荷物を降ろして、階段を上がった。電気は消えていて真っ暗だったが、踊り場の窓から月の光が差し込んでいた。やがて五階にたどり着き、ドアの前に荷物を置いた。誰にも見られていないことを確認して、自分でサインをした。筆跡が似ないように気をつけて、慎重に相手の名前を書いた。デバイスを取りだしてバーコードを読み取り、複写の上を破ってポケットにしまい、急ぎ足でその場を離れた。

 そのことは上司にはもちろん、同僚にも言えなかった。しかし旦那には話すことにした。

「おかしいでしょ?」と彼女は聞いた。

 そうだね、と彼は答えたが、視線は携帯電話のほうを向いていた。

「ヤクザに追われてるんだと思う」と彼女は言った。

 うーん、と彼は言った。聞いていないことは明らかだった。顔を見ることさえしなかった。それでもう、誰かに話す気がなくなった。

 不安になって翌朝一番に見にいった。ちゃんと荷物は回収されていた。お昼頃になって、別の心配が浮かんだ。老女が勝手に預かったかもしれないのだ。少し迷ったが、直接電話してみることにした。

「今度はなんだ?」と相手は聞いた。

「いえ、お荷物がちゃんと届いたかなと思いまして」

「ちゃんと受け取ったよ。心配なら、見に行けばいいだろ」

「わかりました。今後は、その、どういたしましょう?」

「言わなきゃわからないのか?」

 彼女は何度かうなずいた。答える間もなく、電話は切られてしまった。

 それからも配達は続いて、彼女は同じようにして作業を済ませた。昼間はさすがに憚られるので、一応インターホンを鳴らしておき、それから夜になるのを待って、自分でサインをして置いてきた。荷物はいつもちゃんと消えていて、不安になるのもだんだん馬鹿らしくなってきた。それは次第に当たり前のことになっていった。他の家では決してやらなかったし、かえってしつこく電話したりしていたくらいだったが、その家に関しては特別なのだと思うことにした。記録はちゃんとついていたから、システムもうまく誤魔化せていた。


 そのあと再び隣人に会った。今度はおじいさんだった。おじいさんは昼間なのに、パジャマを着ていた。日曜日だからだろう、と思うことにした。

「いないのかい?」とおじいさんは聞いてきた。

 ええ、と彼女は答えた。

 車の音が聞こえた。バックするときの警告音だ。荷室付きのトラックだろうと思った。

「困ったもんだね」とおじいさんは言った。

 そうですね、と彼女は言った。

「荷物、預かろうか?」とおじいさんは聞いた。

 一瞬、なにを言われているのかわからなかった。なにも持たずにきたような錯覚があった。しかし今日は日曜日で、本人が自宅にいるかもしれなくて、だから荷物はちゃんと持ってきていた。

 結構です、こちらで処理しますから、と彼女は答えた。

 おじいさんはニッコリ笑った。「そうかい。ごくろうさん」

 階段の下から、1、2、1、2と掛け声が聞こえた。それは壁に反響して階段全体に響いていた。おじいさんは気になったのか、外へ出た。

 やがてなにかが階段を上がってくるのが見えた。二人の男性が、大きな箱の前後を持っていた。左右に揺れながら、慎重に運んでいる。お揃いの薄い緑色のつなぎ服を着ていて、同じ色の帽子を被っている。掛け声はまだ反響して聞こえた。あまりにも大きくて、耳が痛くなってきた。彼女はおじいさんを見た。なんだろうね、一体、とおじいさんは大声で言った。それから二人に視線を戻した。

 二人は踊り場でゆっくりとターンして、彼女の前まできた。彼女は荷物を持って、脇にのいた。二人は地面に箱の角をつけ、息を合わせて立てた。タオルで汗を拭って、息を整え、ようやく片方がインターホンを鳴らした。

 電話が鳴った。彼女は電話にでて、もしもし、と言った。

 ドアが半分ほど開いた。大きな箱の向こうで、どんな人物なのかわからない。二人の男性はなにか言おうとして、やめた。なんとなく二人で顔を見合わせて、どうしてか彼女のほうを見た。彼女は二人の顔を交互に見た。

 もしもし、ともう一度言った。

 壁よりに立っていた男性が体を退けると、その間から女が顔をだした。女は電話を耳に当てたまま、こっちを睨みつけていた。小太りの中年女だった。グレーのスウェットを着ている。女はなんとかして箱の向こうにでた。そしてずんずんと歩み寄ってくると、彼女の肩口を力強く突き、両手を腰に当てた。

「あんたはなにがしたいの?」と女は言った。「仕事する気あるわけ?」

 彼女はただ唾を飲みこんだ。

 答えなさいよ、と女は叫んだ。女は電話を地面に叩きつけ、平手をびゅんと振った。彼女は静かにしていた。頬が腫れるのがわかった。だが抵抗はしなかった。平手打ちは何度も飛んできて、頭にも当たった。彼女は頭を抱えて地面に座り込んだ。今後は蹴りが飛んできた。体重の乗った、重い蹴りだった。体を突き飛ばされるような衝撃があって、頭をどこかへぶつけた。彼女は歯を食いしばって、泣きたくなるのを堪えていた。だが抵抗はしなかった。ただ体を硬くして、暴力が去るのをじっと待った。

「やめなさい」とおじいさんが言って、間に入った。「一体どうしたんだ。なにがあったんだ」

 女は鼻息を荒くして、彼女を見下ろしていた。

「黙ってな」と女は言った。「あんたには関係ないよ」

 どういうことなんだ、とおじいさんは彼女に聞いた。

 どういうことなんだろう、と彼女は考えた。だがそんなことはもうどうでもよくて、ただあれこれ聞くのだけはやめて欲しかった。もういいんです、と彼女は呟いた。

 女は鼻で笑うと、彼女を突き飛ばして荷物を拾い上げた。それを抱えて階段を降りていき、踊り場の窓を開けて、外へ放った。

 かなりの時間が経ったあと、バン、と音を立てて地面にぶつかった。

 女は両手を叩き合わせながら戻ってきた。箱の向こうにいってしまって、見えなくなった。そこから声が聞こえた。

「で、あんたたちはなんなの?」

「サイトウ電機のものです。ご注文があったもので」と片方が言った。「えーと、ウブカタさんですよね?」

 少しの間があった。「中身は?」

「冷蔵庫です」ともう片方が答えた。

「そう。じゃあ、そうね、台所に古いのがあるのから、入れ替えて。そっちはもういらないから、あんたたちで持っていってよね」

「ええ」ともう片方は答えた。「最初から、そういうご注文じゃなかったですか?」

「だからなんなの?」と不機嫌そうな声が聞こえた。「文句でもあるわけ?」

 二人は顔を見合わせて、それからすぐに作業に取り掛かった。あっちこっちに体をぶつけながら、なんとか箱を運び入れようとした。片方が背中を預けていて、ドアはしばらく開いていた。そこから玄関の短い廊下が見えた。花柄の足ふきと、靴箱と、写真立てが見えた。

 テレビの音が聞こえていた。ワイドショーだ。笑い声が聞こえる。

「なんなんだ、あの女は」とおじいさんは呟いた。「えらそうにして」

 彼女は汗をかいていた。それが頬を伝った。軍手で拭うと、手の甲が赤く染まった。

 血が、と彼女は呟いた。

「まったく、どういう育ち方をしたんだ」

 廊下の奥にあの女がいた。女は二人を通り越してこっちを見ていた。彼女はさっと後ろへ手を回した。おじいさんは黙った。やがて箱は完全に部屋の中へ入った。預けた背中の抵抗がなくなると、ドアはバネの力でゆっくりと閉まって、女の顔も見えなくなった。

 団地は静かだった。そこには220枚のドアがあった。荷物はバンに積まれていた。子供たちの声が聞こえた。車が通っていった。ただ二人だけがじっとしていて、そのドアを見つめて動かなかった。

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