Smoke Gets In Your Eyes
目覚めると顔の隣には蛍光灯があった。いつものことだ。
でも、今日は目覚めた途端にベッドに落っこちるようなことはない。ぼくは天井に張り付いたままシャツの袖口で濡れた目を拭った。
やっと、この日が来た。
ついに、この時が来てしまった。
待ち望んでいたのか、先延ばしにしていたのか、どちらだろうか。
『そんなの、どっちだって同じことよ。』
彼女なら、きっとそう言っただろうな。
腰にはロープ。ホームセンターで買ってきた、クライミング用の丈夫な代物だ。間違った用途に使うつもりで失敗したそれはベッドの脚と繋がっている。引っ張る。まるで宇宙ステーションにでもいるように、ぼくの身体は完全にその重みを失っていて、天井からベッドまで滑るように浮いて漂っていく。勢いをつけすぎた。慣性に従って右足が窓を叩く。外はオレンジ色。夕焼けなのか朝焼けなのか。
「どっちだって、同じことか」
ひとりごちて、ベッドの脇に放っておいた、残り少ないミネラルウォータのボトルと紙袋を手に取る。徐々に浮遊しながら紙袋を逆さにした。あたりまえだけど、錠剤の束が床まで落ちる。あたりまえじゃないぼくは浮いたまま錠剤に手を伸ばして拾い上げた。両手の中にある錠剤の束は3~400グラムほどだろうか。これでも、今の僕よりはずっと重いのだ。そしてその質量はぼくが掴み上げた瞬間にどこかへ消えてしまった。幾つかの種類の薬をまとめて頬張り、噛み砕き、水で流し込む。両手の力を抜くと、空になったペットボトルと薬袋が落ちて弱っちい音をたてた。
目を瞑って、ぼくの重さが戻ってくることを待つ。
思い出すのは、やっぱり彼女のことだった。
「高いところが好きなのは、馬鹿と煙って言いますから」
どうしていつも屋上にいるのかと問われて、煙を吹きながらぼくは誤魔化した。
「あら、君はそのどちらでもないでしょ?」
H宮さんは涼しげな笑みを浮かべた。
「馬鹿の方ですよ。授業中に屋上で煙草ふかすなんてさむいこと、今どき中学生でもやりません。馬鹿以外の何者でもないです」
「そうなの?」
微笑んだまま、不意に僕が咥えたラークを取り上げると、H宮さんは自分の唇ではさみ、すーっと吸ってふーっと吐いた。
彼女は得意げに、
「なら、これで私も馬鹿の仲間入りということかしら? …けほっ。全然美味しくないのね。どうしてこんなもの吸ってるの?」
ぼくは動揺を隠しつつ、
「格好つけてるだけですよ」
そして彼女は言った。
「そうなの? 全然格好良くないけれど」
凹む。
「あとは、健康に悪いから、ですかね。あんまり退屈なんで、自分の身体をいじめたくなるんですよ。メンヘラですね」
「私と同じじゃない。メンヘラ」
左腕を上げると、制服の袖を引っ張り下げるH宮さん。袖の下の左腕は以前見せてもらった時と同じように包帯で巻かれていて、所々が真新しい赤色で滲んでいた。
僕は溜息を吐いた。
「…先輩、今日も切ったんですか? 昨日やったばかりじゃないですか。間隔、確実に短くなってますよね」
「怒ってる?」
煙草を咥えたまま、左手を背中に隠して、上目遣いでぼくを見るH宮さん。間違いなくぼくをからかう時の顔つきだが、例のごとくぼくには直視できずにそっぽを向いた。景色を眺めるふりをして、ポッケの中のジッポーをいじくる。
「…怒ってません」
「本当に?」
そむけた視線の先を遮るように、H宮さんは顔を近づけてくる。
「本当に?」
緊急退避だ。回れ右。
「…本当です。怒ってません。…心配なだけです」
「ふふっ」
吹き出すH宮さん。むっとして振り返ると、ごめんなさいね。と彼女は笑った。
「君くらいよ。私のこと気にかけてくれるのは。だから、ついいじめたくなっちゃうの。許してね」
「そんなことないでしょう。先輩は優等生で、頭が良くて、スポーツも上手くて、頼りにされてて人望があって友達も――」
「ねぇ、やめて。そんなの、偽物なんだから」
本当に厭そうに、H宮さんは遮った。
失言を後悔する時間はぼくにはなかった。そんなことよりも――とH宮さんがこう聞いたからだ。
「どうして、いつも屋上にいるの?」
はじめと同じ質問。ぼくが、答えを誤魔化した質問。
「別に、いつも屋上にいるわけじゃないですよ」
はぐらかす。
けど、通じない。
「いるじゃない。いつも。学校でも、初めて会った時も」
初めて会ったとき。そうだ。H宮さんと初めて出会ったのは、デパートの屋上だった。
雨の日だ。1か月前、9月。ぼくは傘をさしてそこへ行った。パンダの乗り物とか、ヒーローショーをやる舞台とか、ポップコーン屋が申し訳程度にあるさびれた屋上。そんなわびしい場所でも晴れてればそれなりに人がいるわけで、ぼくは人っ子一人いなくなる雨の日にだけ、その屋上に通っていた。
だから、そんな馬鹿みたいな場所に先客がいるなんて、思ってもみなかった。
屋上の真ん中に立っていたのは、ひとりの女の子だった。
長い黒髪
か細い手足。
骨のある海月みたいなビニール傘をさして、灰と泥を混ぜたような曇り空を見上げていた。
こんな雨の中何やってんだ。という疑念と、制服がウチの高校の指定服だという発見の最中、
ふ
と、音もなく女の子が浮いた。
爪先立ちしたくらいだろうか。だが、その両足は確実にコンクリートの床から離れていて、この子が浮遊病患者だと判じるには十分だった。
それからのことはよく憶えていない。気づいたときにはぼくはびしょ濡れになって彼女を押し倒していて、同じように濡れ鼠になった彼女は水溜りに転がったままうつろな瞳でぼくを見上げていた。
我に返ったぼくは、変な目的で抱きついたわけじゃないと謝罪しまくり、ずぶ濡れに濡らしたことを必死に詫びながら風船みたいにふわふわ浮く彼女の手をとってデパートの屋内に駆け込んだ。
さっきまで茫然自失としていた彼女はなんだか気怠げに天井に両足をつけて、もちろんスカートは押さえたまま、しどろもどろに釈明するぼくを『見上げ』て。彼女は皮肉っぽく言った。
「どうもありがとう。邪魔してくれて」
「…邪魔?」
唖然とするぼくに彼女は言い放った。
「自殺の邪魔よ」
ジサツ…と繰り返すぼく。彼女は微笑みながら、でも全く笑っていない冷たい視線をぼくに投げかける。
「そ。わかってくれた? なら放っておいて」
背を向けて、再び屋上へ向かおうと天井を歩き出す彼女。ぼくは、何故かわからないけど、何かに必死でその背中に声をかけた。
「あの! よくわかんないけど、死んだらダメです! もったいないですよ!」
立ち止まり、振り返る彼女。その目は、華奢な身体の内にあるありったけの怒りと憎しみを込めたみたいに鋭くて、僕は怯んだ。あなたに何がわかるの? そう瞳が語っていた。
ぼくはビビりながらも何かを言おうとした。命は地球より重いんですよ。とか、残された家族が悲しみますよ。とか、月並みなことじゃ駄目なのはわかっていた。だって、そんなの何も言っていないことと同じなんだから。
かといって、何を言うべきかもわからない。
だからぼくは、一番最初に頭に浮かんだことを口にしてしまったのだ。
「だって、そんなに可愛いのに!」
時が止まったような気がした。
きっとぼくはダルマみたいに赤くなっていただろうし、彼女は目を丸くしていた。
そして次の瞬間
「あはははははっ」
彼女は笑った。
大声で、
怜悧な顔つきからからは想像できないような、幼い子供みたいに、彼女は笑ったのだ。
それから、ぼくはH宮さんとちょくちょく顔を合わせるようになった。とはいっても、学校の屋上でだけだけれど。ぼくみたいな中途半端な落ちこぼれには進学校での居場所なんかない。何かの間違いで入学してしまったが、勉強は嫌いだし、クラスメイトには煙たがられる。だから、こうして屋上で煙を吹かしてサボタージュしているのだが、H宮さんはどこからぼくのことを聞いたのか、屋上まで会いに来てくれたのだ。それから、こうして他愛ない話をするのがルーティンになりつつある。
「軽くなる気がするんです」
どうして、いつも屋上にいるのか。
「何が、軽くなるの?」
「わかりませんけど、何か高い所へ行くと、軽くなる気がするんです」
自分でもわけがわからないなと思いつつぼくは言った。
でもH宮さんは、
「そうね」
と吐いた煙が消えるのをじっと見ていた。
「煙草と酒がなけりゃ、儂は18で人生なんかやめとったな」
わかるようなわからないような、そんなことを言っていたじーちゃんは筋金入りの愛煙家でアル中だった。肺癌は末期だったし、肝臓は手がつけられないくらいぶっ壊れていて、おまけに大昔から浮遊病患者だったらしい。
じーちゃんが浮遊病患者となったのは終戦間際の頃だった。防空壕の中、空襲の夜が明けたある朝目を覚ますと、じーちゃんは天井に寝っ転がっていた。あまりの恐怖に、ゆっくりと降りていく間、小便を漏らして泣き喚いたという。―これは表向きの話で、本当は大も漏らしたらしいが、これはぼくとじーちゃんだけの秘密だ。男の約束。
「戦争の間は、天狗熱にかかっちまって、お空へ昇っちまう奴らはゴマンといた。儂はあおーいお空にすーっと浮いていっちまう奴らを見る度に羨ましくなった。もうひもじい思いをするこたぁないし、焼夷弾で焼かれちまう心配もない。儂も煙みてぇにすーっと消えちまいたいと何度も思った。でも、本当に自分が浮いちまうとは思ってなかったんだ。恐かったなぁ。あれは恐かった」
浮遊病は、眠っている間に『浮いて』しまう病気だ。進行が進めば、薬なしでは地面の上にはいられない。上へ、空へ、際限なく昇っていく。治療法はない。成層圏まで昇って窒息死するか凍死したくないのなら、一生薬を飲み続けなければならない。
「戦争が終わってしばらくした頃、儂は目が覚めても降りられなくなってしもうた。昔は薬代なんか阿呆みたいに高くてな、仕様がないから、代わりに母ちゃんが闇市で着物を煙草に替えてくれてな。煙草吸ってりゃ、浮かなくなる。薬がわりだ。けんど、肺ぃの中に煙入れとかにゃ、すぐ浮いちまう。だから儂は、飯食う時も立ち小便するときも四六時中煙吹かしとった。おかげで12の頃からニコチン中毒よ。歯も、ホレ、このとおり」
そう言って、じーちゃんは空襲後の廃墟みたいに真っ黒な口の中をぼくに見せては、しかめっ面のぼくを笑うのだった。
『空飛ぶうつ病』とも言われる浮遊病は精神疾患の一つで、発症者の3割は10年以内に自殺している。ということはじーちゃんは70年くらいは保ったということになる。本人の言うように、煙草と酒のおかげかも知れない。そうじゃないかもしれない。そんなのどっちだって同じことだけれど。
結局は、じーちゃんは自分の意志でその人生の幕を引いたのだから。
じーちゃんの晩年は、目を背けたくなるほどひどいものだった。実際、ぼく達家族は文字通りに直視することも出来なかった。
皮のついた骸骨みたいに痩せて、大好きな煙草と酒どころか一口の粥すら喉に通せず、口を開けば「痛い」か「死にたい」。両手両足が病室ベッドに縛り付けられていたのは『浮かないように』だけではなかっただろう。
尊厳死。などという言葉は当時の僕にはよくわからなかったけれど、もうそれしかないのだということはなんとなく理解していた。
「じーちゃん死なないで」と言えるほどには、ぼくは子供ではなかった。それが、「死ぬまで苦しみ続けてよ。じーちゃん」の裏返しでしかないことくらいが解る程度には。
「あぁ、とんでく。青いなぁ。ばぁさんいるか?」
両手両足を縛られたまま、ベッドの上でじーちゃんは死んだ。
後に残されたのは不発弾でも埋まってそうなボロ屋敷と、ブラッククラックルのジッポーだけ。醜い相続争いの末、叔父さん夫婦がその土地に某賃貸マンション21を立てた。ナパームで吹き飛べばいい。
夢の中で、H宮さんはぼくを責めた。
「ねぇ、君は、私にとってもひどいことしてるのよ?」
H宮さんは服を着ていなかったけど、裸ではなかった。
全身がぐるぐると包帯で巻かれていたからだ。
白じゃなく、赤い包帯。
だって、H宮さんは血塗れだから。
空は空色だ。H宮さんは血の色。ぼくは? 自分の色はわからない。
左手は左手は肘から先がない。血が流れっぱなしで、血溜りの中に彼女は立っていた。
なんて陳腐な夢だろう。ベタベタだ。想像力の貧しさが嫌になる。でも夢は終わらない。
長い黒髪は中途で斜めに切り裂かれ、左目は無くがらんどうだ。瞼を閉じても、隙間からこぼれて血は止まらない。
「わかってる?」
わかってます。とぼくは答える。
「わかってなくてもいいのよ? 別に。自覚があっても、なくっても、結果は同じなんだから」
H宮さんが浮く。
僕は走り出す。
熱い。
赤い水溜りを跳ねて、ぼくは彼女の右手を掴む。
「ほらね?」
逆さまの彼女は、痛くなりそうなくらい笑った。
「なんで、みんなそうなのかな?こんな嫌なところからいなくなりたいだけなのに。迷惑なんてかけないのに。関係ないのに。どうして私がいなくなることを許してくれないんだろう? 私のことなんか、いても、いなくっても、どっちだって同じことだってわかってるくせにね」
血が滴る。赤い涙。青い空。ぼくの色は?
「空にね、溶けていきたいの。煙みたいに、すーっと」
ぼくは、「死なないで」と言おうとした。
「死ぬまで、苦しみ続けてください」
ぼくは、そう言っていた。
H宮さんを空から引きずり下ろし、血溜りに沈める。
血に溺れながら、彼女は言った。
「気にしないで。そんなの、どっちだって同じことなんだから」
「ぼくは、余計なことをしていますか?」
思い切って聞いたことがある。
赤ん坊みたいに身体を丸めて、屋上に寝っ転がっていたH宮さんは、眠そうに瞼をこすって上体を起こした。
オレンジの陽に目を細め、給水タンクの上の何もない空間をじっと見つめながら、
「君は、少し思い上がってるね」
不機嫌な感じではない。たしなめるように、彼女は続ける。
「私が死ななかったのは、私の意志よ。君が私を生かしているわけじゃない。私が、私の意思で生きているのよ。だから」
左腕を上げる。包帯の巻かれた左腕。
「苦しむのは、君の責任じゃなくて私の責任。君が気に病むことじゃないの。生きてるのが苦しいことだなんて、18まで生きていれば十分すぎるくらいに知ってるし、ここでやめるか、やめないか、くらい自分で決められる。だから、私が苦しいのは、まだ死ねてない私の責任」
立ち上がって、埃を払い、くるりとまわる。スカートが揺れる。髪が舞う。誰もいないグラウンドに引かれた白線をなぞるように見下ろして言う。
「私が死んだら、君はちゃんと哀しくなってね」
「何言ってるんですか」
「偽物の奴らに、『あぁ、なんて可哀想なの』って同情されたり、泣かれたりするんだって想像すると、腹が立つのよ。私は、あいつらのことが殺したいくらい嫌いなのに、そういうのを全部呑み込んで、大人しく死んであげるのに。そんなこともわからない馬鹿ばっかりだから、私は、死んでもあいつらの馬鹿みたいな頭の中の気持ち悪い何かに使われちゃうに決まってるの。そんなの死んでも嫌だけど、死んだってどうにもならないことなの。私には、どうにもできない。だから、君はちゃんと哀しくなってね」
振り向いて、H宮さんは笑った。
「それなら、私は安心して、いなくなれるから」
「…駄目ですよ。そんなの」
「お願い」
何も言えずにいるぼくは空を見た。青い、青い。飛行機雲が視界の端から曖昧に消えていく。
H宮さんは首を吊って死んだ。
そして、ぼくは浮遊病患者になった。
外に出る。久しぶりだ。
どうやら夕焼けのようだったオレンジ色の中、冬の街を歩く。
あたりまえのことだけれど、世界は何も変わっていなかった。人が一人死のうが、一万人死のうが、何も変わらないのは実証済みの案件だ。もしかしたら、70億人全員死んだって、何も変わらないのかもしれない。
不意に、こみ上げる怒り。
なんで、お前らが生きてんだよ。
誰の責任でもない。なんて思えなかった。お前らの責任だ。そう叫びたかった。誰でもいいから、手の届く範囲の奴ら全員を殴りたかった。ナイフで刺して、首を絞めて、燃やして踏みにじってしまいたかった。
人もまばらなデパートの屋上。
遠くで『夕焼け小焼け』が終わった。パンダの乗り物に腰掛けて空を見上げる。オレンジと紺色が混じる空だ。目を凝らすと星が見える。
人は死んでも、星になったりしない。
ただ、何にもならなくなるだけだ。
生きているのが終わるだけ。
苦しむことが終わるだけ。
それなら、いつか終わるだけのことをぼくたちは続けているのだろうか。いつかはなくなることを無理やり続けて、苦しくなって、ひとまで苦しくして。
じゃあ、いっそそのことに気づいた時にやめてしまって何がいけないのだろう?
80で死ぬこと、18で死ぬこと、生まれてこなかったこと。
違いなんてないのだ。ただ、苦しむ時間が長引くだけ。
どのくらい考えていたのか、コートの裾をちょこちょこと引かれ、気付くと小さな男の子が口をへの字にして僕を見上げていた。
すっかり日は落ちて、屋上にはぼくとその子しかいない。
「ぱんだ」
舌っ足らずな調子で男の子は言う。
「あぁ…ごめんね」
ぼくは立ち上がり、入れ替わりに男の子はパンダに乗る。パンダのこめかみに生えた棒をむんずと掴むと、ロデオの真似事でもしているのか、不動のパンダを揺らすべくガタガタやっている。
見たところ、小学生になったか、なってないくらい。一人できたとは思えない。
「お母さんは買い物?」
見回しながら尋ねると、男の子は「そう」と素っ気無く答えた。
ぼくは、パンダに百円玉を入れた。
音楽が鳴る。
パンダが動き出す。
「おぉーっ!?」
何がそんなに嬉しいのか、男の子ははしゃぎだして、カウボーイごっこか何かも勇ましさを増す。ぼくは、流れている曲のタイトルを思い出そうとしていた。
その時
視点が、高くなった。
靴の裏に、何も触れる場所がないと気づくのは何秒も後のことだった。
ぼくは浮いていた。
つかむところもない。
捕まえてくれる人もいない。
男の子が、ぼくがいないことに気づいたとき、ぼくはもう自分の背丈より倍以上高く浮き上がっていた。
『煙が目にしみる』
どうでもいいことを思い出して、じゃあ、どうでもいいことじゃないことって何だろうと思った。
別にいいか。
そんな感じ。
だって、わからないのだから。
死なない理由がないのだ。
だから、ぼくはH宮さんを軽くしてあげられなかったのだ。
パンダの上の男の子が少しずつ遠ざかっていく。あたりをきょろきょろと見渡していた彼が空を見上げたのは、きっとたまたまのことだった。
ぼくは、眼下の街を見下ろしていた。男の子と目があった。
ぽかんと大口を開けて、ぼくを見上げる男の子。
ぼくは何も言わず、男の子も何も言わなかった。
パンダは相変わらす調子っぱずれな『煙が目にしみる』を流しながら歩いていて、ぼくを見上げていた男の子は、パンダがカバにぶつかりそうなのには気づけなかった。
危ないよ。とぼくは叫んだが、もう間に合わない。
パンダがカバに頭突きをして、急に止まったパンダの背から男の子は転げ落ちた。
びゃーびゃー泣く男の子を置き去りにして、パンダは屋上を歩き回っている。
ほっとけなかった。というのは嘘だと思う。
だって、何をしたって、何をしなくたって、結局は変わらないのだから。
でも僕はコートのポッケから煙草と黒いジッポーを取り出していた。
きっと、ぼくは死にたくなかったのだ。
じーちゃんと、同じように。
H宮さんもそうだったんじゃないかな。
今日一日を死なずにいられる理由が欲しいのだ。
煙を吐き出す。
白い息と灰色の煙。空は紺。ぼくの色はわからない。
空から降りていく。
ぼくは、ちゃんと哀しくなれていますか?
今日の一日を生き延びたぼくは、彼女に尋ねていた。