64.月へ
奇妙な現象が起こった。片方の前足を失ったアロサウルスには痛みすらない。
「俺の右手は、どこだ。どこにあるのだ、何かに触れている。しかしここには見当たらない」
「当たり前よ、あなたの右手はあの星にある」
バニー・レディーが上空の満月を指差した。
「俺をからかう気か、許さんぞ」
「からかう? 行きたいのでしょう、どうしてもあの月へ」
「空間を飛ぶ、そんな馬鹿なことが……」
恐るべきバニー・レディーの能力に、ジグは初めて戦慄を覚えた。
「お前、一体何者なんだ。ルツはどこに行った、確かにお前にはルツの匂いがするのだが……」
「あなたは私、私はあなた。そう言ったはずよ」
ラビに残った長い耳が髪に変異し始め、ラビの顔面を覆った。ジグはその下から現れた少女の顔に不思議と見覚えがあった。
「そうか、そう言う事だったのか」
アロサウルスはうなだれたまま、亜矢の体に戻った。「その時」が近づくことを彼は感じた。今、やっと役目が果たされようとしているのに彼には何の感情もわき起こらない。いや、開放感とともに何とも説明できない、原始的な感情が芽生えはじめた。
地上の生物のミトコンドリアのコピーをジグは体に保存した。この地球のコピーとまで言ってもいいかも知れない。それをルツとともに月へと送るのがマスター・シード「シノ」から与えられた役目だった。自ら冬眠に入ったジグの体内にシノと自分のコピーを残したルツは一度消滅した。やがてマンモスが目覚め、シノも羽化すればこの星から月へと脱出できる。空間さえ転移できるシノの力を使って。しかし、橘善三が切り取り持ち帰ったマンモスの肉片にマスター・シードが眠っていた事がこの計画を変えていく。偶然にシノが由樹の体内で蛹化を迎えたために、シノは由樹を通してとうに滅びたはずの裸のサルたちが「滅びの日」を乗り越えようとしている事を知ったのだ。
「なんとも愚かな抗い、しかし遅々ではあるがそれは進んでいくかも知れない……」
シノは「ブラック・ボックス」の中でそう感じた。その事にルツは気付いたのだ、ラビのシードはシノを守るための特別のシードだった。
亜矢の体を抜け、再びマンモスの体に戻ったジグは器用に三本の足で立っているように見えた。もちろん月面では毛むくじゃらのマンモスの足だけが見えるだろう。
「これでいい、さあ、そろそろ行こうか?」
俺はこの星を見捨てる訳ではない、きっと「滅びの時」瞬間まで裸のサルたちは「抗う」だろう。乗り越えてくれる事を願いつつ、コピーはこの星から消え去ろうとジグは思った。その決断を惑わす声が聞こえた。
「私は、あなたにこの星にずっといて欲しかった……」
その声は、ルツの声に違いない、それはジグにしか聞こえない言葉だった。しかし何も言わず、ジグは「86ラビリンス」にもう一歩入ろうとした。ジグは気付いたのだ、いつの間にかルツを愛しいと感じていた事に。その原始的な感情は全ての生き物にもつながる事に、ジグはその「思い」をあの星に連れていくつもりだった。いや連れて行かねばならないとさえ。
「ルツ、君にはまだここですべき事があるだろう、また会えるさいつの日か」
「すべき事、あなたは全て知ったのねジグ……、それでも私を許すと言うの?」
長い鼻を高々と上げ、巨大なマンモスが頭からゆっくりと満月に向った。
「俺は君、君は俺だろ、ルツ。随分と楽しかったよ」
いきなり月面に現れたマンモスは次第に「石化」が進んでいった。マンモスの両目には青い地球が一瞬映り込み、やがて褐色のまぶたがゆっくりと閉ざされた。




