61.ブラック・ボックス
「そう、シノはルツよりもさらに進化していた。亜矢の姉になるもうひとつの卵子に変異していた。最古のマスター・シードは香矢を通じて『86(エイト・シックス)』のことを必死に研究する人間たちを次第に知っていった」
「卵子に変異していただと」
「ルツがあなたに最初に出会ったとき、ルツはシノをあなたに預けた。其の力があったからこそ、原人たちがわずかに残したマンモスの肉塊からあなたは甦った」
「わしの体の一部にシノが預けられていたのか」
オロスのクレパスから戻った善三は、そのマンモスの肉塊からあるものを取り出した。それは「みずみずしい緑色のイモムシ」の形をしていた。
「これこそ、太古の生命体にちがいない。いや、この中には数え切れない生命体の遺伝子情報がある。正しくは『生命体の元』の集まりと言うべきか……」
冷凍マンモスの中から、橘善三はそれを取り出した。その日彼の親友の娘、由樹が部屋を訪れた。
「これが、例の太古の生命体なのね」
橘善三は迂闊にもそれをシャーレに入れたままデスクに置いていた。彼女がとった行動が軽率だとしてもそれをとがめる事は出来まい、彼女もまた研究者のひとりだった。そのマスター・シードは既に成熟していた。常温に戻り再び活動をはじめたそれは安全な「蛹化」する場所として彼女の体を選んだのだった。透明な糸を吐きまゆを作りその中で蛹化する、まるでアゲハチョウの様なマスター・シードの変異だ。吐く糸は遺伝子情報の乗った糸であり、そのまゆは「ブラック・ボックス」同様、何者も立ち入れない堅固なまゆであった。一瞬のうちにシノは彼女に寄生した。その感覚、記憶さえ彼女に与えずに。
「やあ、早速来たか。いつもはマイペースの君も、研究の事になるとさすがに行動が早いな」
由樹は挨拶もそこそこに早速本題を切り出した。
「おじさま、その太古の生き物はどこ?」
善三はテーブルの上のシャーレを持ち上げ、ひからびた生命体を確認すると、落胆の声を上げた。
「やはり現在の大気では生存できないのか。それにしてもこんなに小さく急激にしぼむとは全く不思議な生き物だ」
善三はそう言いつつ、彼女にそのシャーレを手渡した。もちろんシャーレは密閉したままで封は開いていない。その数ミクロンも無い隙間から体内の全ての組織を糸に変異させてシノは由樹の体内へと「移動」したのだ。残ったのは古い外皮だけだった。それを電子顕微鏡で覗き見ては手早くメモをとる、その息子の恋人に橘善三は改めて説明した。
「君に折角来てもらったのに、そんな『小さなミイラ』になってしまって残念だ。それが電話で話した最古の生命体だよ」
「電話で聞いた遺伝子情報はひとつとして残っていません。おじさま」
「ますます不思議だ。一体何処へ消えてしまったのだ、それがまだ凍りついたままの時に撮った画像がある、それを再生してみよう」
「ぜひそれを私に見せてください、その謎が解けるかも知れない」
凍り付いた緑色のイモムシは常温に近づくにつれ、次第に体表もつややかになった。そして今にも動き始めそうになった時、そのVTR画面が揺らぎ始めた。
「なんという事だ、肝心なときに故障するとは……」
シードの持つ「自己防衛本能」とは桁違いの電波、光さえもねじ曲げる力。マスター・シード「シノ」はこうして由樹の体内に滑り込みそして新たな「ブラック・ボックス」を作り上げたのだ。




