53.日高という男
その男は、日高良化と名乗った。雄馬は日高を由樹の研究室で初めて紹介された。北米の苔類を研究している大学からの留学生だった。日高は「NAC」の「稲荷チーム」の中で由樹の研究を引き継ぐ、橘雄馬の妻となるまで稲荷由樹は北米の苔類、生物の研究をNACで続けていたのである。
「ポーレン」そう、その微小な生き物は名付けられた。しかしまだそれの生態については解明されてはいなかった。「ポーレン」は北米、アラスカ研究所でも発見されていたのである。その研究資料が日本アカデミアにあつまり「稲荷チーム」によって次第に生態が解明されつつあった。
「ポーレンは世界中に散らばっていた、これから面白くなるのに本当残念だわ。あと一息なのにね、延期しようかしら。式なんていつでもできるし……」
「そんなこと言って、このところフラスコを一体何個割ったんだい」
「まあ、日高さんたら、私がおっちょこちょいなのは昔から。それより残念ね、美樹には先約があったんでしょう?」
「哲生か、まあ仕方ない。だが彼女を泣かす様なことでもすれば、この拳を打ち込んでやる、ハハハッ」
「そうそう、ぶんなぐってやっていいからね」
「……ポーレン、こいつは一体何のために世界中に散らばり、そして何故滅んだんだ、まるでどこかに立ち去ったように消滅している。わずかに残るのは極地に閉じ込められたものだけなんて、しかもこいつは休眠している。気の遠くなる時間、何かを待っているのかも知れない……」
「あなたもそう思うのね、この地球に何かが起こった。そのことは必ず今の世界に伝えられているはず。私はね、それは私たちの体に残っていると思うの、雄馬が言っていた『ミトコンドリア・イブ』の中、人類共通の記憶として……」
「何故恐竜は始祖鳥を生んだか、そして何故猿は人類へ進化したのか、やがて来るポーレンを滅ぼした何かに備えてかも知れないな」
「ファーン」
短いクラクションが外で響いた。
「あら雄馬ね、もうそんな時間。今夜は三人で食事に行かない?」
「いや、もうひとつやっておく。ポーレンを発芽させるヒントを掴んだ、遠慮なく行って来いよ、旦那様がお待ちだよ」
「あまり無理しないでね。お疲れさま」
「ありがとう、明日また。雄馬にたっぷりおごってもらえよ」
「うーん、明日からは節約、節約」
「何回聞かされたっけな、その台詞」
「そうだっけ? じゃあね」
扉が閉まった、それが「苔類の第一人者」日高良化の最後の夜だった
「おつかれさま、由樹」
軽いキスと抱擁のあとで、雄馬は少し乱暴に車を発進させた。
「ところで、由樹何か変わったことはないか」
「変わったこと? マリッジ・ブルーってこと? 今のところ婚約解消とか考えてないわよ」
「ばか、冗談じゃなくて、ほらあれだよ」
目配せした先に、あわてて目を伏せた男がいた」
「誰?」
「ある国連の組織の責任者だ、あの紳士は……。哲生も日高も紹介しようと思っている、同席させていいか由樹」
「はい、あなた」
「結婚しても俺のこと雄馬って呼べよな、絶対に。照れるだろ」
「はい、あなた」
「由樹、お前俺をからかってるだろ」
やがて雄馬がその男を哲生に紹介したことがきっかけとなり、彼は単身世界中の「ポーレン」についての調査をすることとなった。何度か危険な目に会い、まだ新婚3ヶ月で美樹に離婚届を送りつけた。それを知ったあと、由樹も雄馬も実は少なからず責任を感じていた、しかし美樹はとっくにそんなもの破り捨てていた。
「テツの馬鹿っ、今度戻ってきたら、土下座させてやる……」
美樹は、テツの安否を気遣いながら涙声でそのときそう言っていた。




