TF細胞とTFシステム
《TF細胞とTFシステム》
「逃げるな!ちくしょう!逃げるんじゃねえっ!!」
必死で見回したが、クモシダバーの姿は見えない。気配も感じない。
くそ。やばい。
あいつを殺さないと、かゆみが止まらない。
苦しみがおさまらない。
心臓が暴走したかのように激しく高鳴っている。
苦しい。
苦しい。
何なのだこの苦しみは?
何か大切なものを無くしたかのような喪失感。
何を失ったのか?
・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・。
あれ?おかしい?
何を失ったのか思い出せない。
大事な存在だった。かけがえのない存在だったのだ。それを失って、おれは今、苦しんでいるはずなのだ。
なのに、思い出せない。頭に浮かばない。
おれは怖くなった。
もう一度記憶を探ろうとすると、またかゆみが強くなってきた。思考が止まる。
まず、このかゆみをどうにかしないと。
そのためには、あいつを殺さないと。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
・・・・・・あいつって誰だ?
おれは愕然とした。
ついさっきまで、目の前にいた奴のことを思い出せなくなっているのだ。
おかしい。
変化した体だけではなく、頭の中も何かおかしくなってしまっている。
何かに蝕まれている。そんな気がした。
ああ、かゆい。
かゆい。かゆい。かゆい。
殺さないと、殺さないとかゆみが止まらない。
かゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆいっ!!
壊れそうだ。誰か助けてくれ。
そのとき、後ろの方から、ひっと息を呑む声が聞こえた。
振り向くと、少し離れたところにある電柱の下に、浮浪者風の老人がひとり立っていた。おれの姿を見て、怯えた表情を浮かべている。
おれは笑った。
ああ、そうだ。
あれでいい。
あれを殺そう。
そうすれば、かゆみが止まる。
自分の考えに疑問を持たずに、おれは走り出した。老人が、腰を抜かして尻餅をつく。
そのとき、老人の前に、一人の男が立った。
黒いコートに、黒いズボンを身につけた男だった。おそらく、おれと同じくらいの年齢の青年だ。右腕がない。袖がだらりと垂れ下がっている。
「馬鹿野郎が」
その男は、舌打ちをもらしてつぶやいた。
黒ずくめの男は、音も無くこちらに迫ると、しゃがみ、とん、とおれの足を払った。
おれは派手に転んだ。顔面を道路にこすりつける。
男はおれの背に馬乗りになると、乱暴な手つきで、おれの腰に金属製の太いベルトのようなものを巻きつけた。腰がひやりとした。
「な、何だよそれ?っていうか、あんた誰?」
「うるせえ。おとなしくしてろ」
ぼかっと頭を殴られる。
「痛いっ」
おれが頭をおさえたときだ。
腰に巻かれたベルトが、一瞬光を放った。
すると、全身からかゆみがすうっと消えていった。
それだけではない。化け物の姿に変形していたおれの肉体が、ゆっくりともとに戻ってゆくのだ。
男はおれから離れた。
おれは立ち上がりながら、ぼうぜんと人間の姿に戻る自分の体を見つめた。
「これは、一体?」
男が言った。
「そのベルトは、TF細胞を制御する機能を備えている。その機能が、おまえの体を変化させたTF細胞の暴走を抑えているんだ」
「・・・・・・はあ?」
おれは首をかしげた。
説明の意味がよくわからない。TF細胞?何じゃそりゃ?
男は顔をしかめた。
「間抜けな面しやがって。・・・・・・くそ、なんでTF細胞は、こんなヤツを選んだんだ?なんで、おれじゃなくてこいつなんだ?」
また意味不明なことを言って、男は電柱を蹴った。
やがて人間の形に戻ったおれは、全裸で腰にベルトのみという、イヤーンな格好になった。
「きゃん」
あわてて前を隠す。
「何がきゃんだ。気持ち悪い」
男が吐き捨てるように言った。
「あの、そのコートちょっと貸してくれない?」
「嫌だね。汚い。そこらへんに生えてる木の葉っぱでも使って隠せばいいだろ」
「ひどいっ!・・・・・・・・・・・・っていうか、そもそも、君、誰なの?」
「・・・・・・・・・・・・」
男は、いらただしげにそっぽを向いた。
すると、横から、のんびりとした声が聞こえてきた。
「そいつのことは、ユウ・Uーと呼んでやってください」
声のした方を向くと、メガネをかけたずんぐりとした体型の男が、にこにこしながら、こちらに歩み寄ってきた。四十歳くらいの、中年男性だ。薄汚れた白衣を身につけている。
その男は、どうぞ、と言っておれにジャージの上下をさしだした。
「あ、ありがとう」
礼を言って受けとると、あわててそれを着た。パンツはないので、股がスースーする。
着替え終わると、二人を見て聞いた。
「あの、それで、あなた達は一体?」
メガネの男が答えた。
「私のことは、餅、と呼んでください」
「もち?」
変な名前だ。
「本名ではありません。コードネームです。ワケあって、私達は本名を公開することができないのです」
餅と名乗る男は、少しうつむいて言った。
「お父様のことは、残念でした」
おれは思い出した。
クモシダバーに襲われ、親父は殺されたのだ。
その場に膝をつき、おれは顔をおおってうめいた。
なんでだ?なんでこんなことに?
理解できないことが、一気にたくさん起こり過ぎた。疑問が、頭の中を駆けめぐる。
シダバーとは何なのか?
なぜシダバーは親父を狙ったのか?
そして、おれの体はなぜあんな変化を起こしたのか?
親父は、何かを知っている様子だったが。
「教えてあげますよ」
おれを見下ろして餅は言った。
「え?」
「あなたの父親の秘密。あなたの体のこと。シダバーのこと。全て教えてあげます」
「・・・・・・君達は、一体何者なんだ?」
おれは、立ち上がって聞いた。
餅と、ユウ・Uーと呼ばれた片腕の無い男は、目を合わせ、うなずきあった。餅は言った。
「わたし達は、シダバー対策本部所属の、TFシステム研究所の人間です」
「TFシステム?」
「私達は、豆腐の兵器利用について、研究しているのです」
「・・・・・・・・・・・・は?」
何を言っているんだこの男は?
豆腐の兵器利用?
意味がわからない。
「あなたの父親は、私の上司でした」
「え?君ら、うちの豆腐店の従業員なの?」
こんなヤツら見たことない。
餅は首を横に振った。
「いいえ。違います」
「どういうこと?」
「あなたの父親は、豆腐店とは別に、もうひとつ、家族に秘密の仕事をしていたのです。TFシステム研究所の所長。それが、あなたの知らない父親の裏の顔でした」
そのあと、餅から聞いた話は、想像を絶するものだった。
二十七年前、親父は豆腐の新商品を開発するために、自宅の地下に研究室を作り、そこで豆腐の研究をしていた。
そして、豆腐の中に、人体機能を活性化させる特殊な物質が微量に含まれていることを発見した。
親父はその物質を、「TF細胞」と名付け、さらに研究した。うまく培養し、この細胞を多く含んだ豆腐を作れば、健康にいい新しい豆腐が作れるのではないかと考えたのだ。
そして、六年後、あの赤い豆腐が生み出された。
TF細胞を多量に増やした豆腐だ。
しかし、それは危険な豆腐だった。
健康どころではなかった。
TF細胞は、生物を歪に進化させる効能を持っていたのだ。
ある日、できあがったばかりの赤い豆腐に、一匹のハエが飛びついた。
そのハエは、赤い豆腐をほんの少しだけ食べた。
すると親父の目の前で、そのハエの全身がさあっと白くなった。そしてその体が、風船のようにぼんっと膨らみ、サッカーボール並の大きさになった。足に鋭いトゲがいくつも生えてきて、口から牙がはみだし、ゲゲゲゲという声がその口から漏れた。
赤い豆腐を食べたハエが、何か得体の知れない怪物に変化しようとしていた。
親父はとっさに椅子でそのハエを叩き殺した。
ハエの体は柔らかく、簡単につぶれた。ハエの肉体が、豆腐になっていた。
TF細胞は、生物の体を、豆腐の怪物に変化させるものだった。
とんでもないものを作ってしまった。
そう後悔した親父は、赤い豆腐を封印することにした。黒いケースに入れて、厳重に鍵を閉めた。
ところが数日後、六歳になる息子が、研究室に入りこみ、赤い豆腐を食べてしまった。
そう、おれのことだ。
黒いケースがひとりでに開いたという話を聞いて、親父は驚いた。まさか、TF細胞そのものに、そこまで超常的な力が備わっていたとは思わなかった。
TF細胞は、息子に赤い豆腐を食べさせるために、何らかの力で、黒いケースを開けたということになる。
おれに、食べさせるために?
「まさか、TF細胞が、この子を選んだというのか?しかし、よりによってなぜっ?なぜこの子なんだ?」
確か二十一年前のあの時、親父は苦しそうにそう言っていた。
そのあと親父は、以前殺したあのハエの死体をもとにして、TF細胞の活性化を抑える薬を作り出した。そしてその薬を、アレルギーの薬だと偽って、おれに飲ませ続けた。
餅が、親父から聞いたというその話は、おれを驚かせた。
まさか、あの時食べた赤い豆腐が、おれの肉体の異常の原因だったなんて。
あの時すでに、おれの体は、TF細胞にとりつかれていたのだ。しかし親父が用意してくれた薬のおかげで、その後の二十一年間、普通の人間として生きてゆくことができた。
その薬を、おれは今日飲まなかった。
だから、あのおぞましい変身が起こったのだ。
「TF細胞ってのが、何なのかは、だいたい、なんとなくは分かったよ。でも、だからって、なんで親父が!シダバーに狙われなきゃいけなかったんだ!?」
「落ち着いてください」
興奮するおれをなだめながら、餅は再び語りだした。
いまから五年前、謎の怪物集団、シダバーが出現し、世界中の国の人々を襲った。
日本政府は、「シダバー対策本部」という組織を設立したが、驚異的な能力を持つシダバーに対抗するための、具体的な計画を立てることができずにいた。
そこに所属する人物のひとりに、親父の知り合いがいた。親父はその知り合いを通して、シダバー対策本部にTF細胞を利用した、ある計画を提案した。
それは、TF細胞を注入した強化人間を作り出し、シダバーと戦うための兵士にすることだった。
非人道的な計画だった。
しかし本部は親父を雇い、その計画を実行させた。国内ではもうシダバーによる死者数が十万人を超えていた。なりふりかまっていられなかった。
そして「TFシステム研究所」が建てられ、親父はそこの所長として働いた。そしてその研究所の資金を利用して、研究と同時に、おれに飲ませるための薬を大量に生産した。
親父は、昼は豆腐店で、夜は研究所で働いた。
実験体としての人員を、自衛隊や警察組織から募集した。シダバーに家族や友人、恋人を殺された者達が、全国から数十名乗りでた。
実験は失敗の連続だった。
TF細胞を注入された者達は、肉体が異様に変形し、次々と発狂した。薬のおかげで死者は出なかったが、何人かは重傷を負った。
さっき、おれにベルトを巻きつけた男、ユウ・Uーも、そのひとりだった。
「弟を、シダバーに殺されたんだよ。目の前でな」ユウ・Uーは歯をくいしばった。「あいつら、弟の死体をぐちゃぐちゃにして、粘土みたいにして遊びやがったんだ」
おれと同じだと思った。
シダバーに、大切な者の命を奪われた。
餅が言った。
「ユウ・Uーは、自衛隊の隊員でした」
「おれは、TF細胞の実験体に志願した。強化人間になって、シダバーをぶちのめしたかったんだ。しかし実験は失敗だった。おれは右腕を失った。いまは、副所長である餅の警護をしている」
おれはあらためて、ユウ・Uーのコートの、ぶらりと垂れ下がる右腕の袖を見た。
「しかし、我々は、その実験データをもとにして、人体に融合したTF細胞を制御する機械を作り出しました。それが、そのベルトです」
餅は、おれの腹を指差した。
「これが?」
おれはジャージ越しに、腰に巻かれたベルトに触れた。冷たくて固い、金属の感触。かなりの重みがある。
「さっきあなたが体験したとおり、そのベルトにはTF細胞の暴走を抑える機能が備わっています。それだけではありません。ベルトを巻いた人間の意思で、TF細胞の力を自由に引き出すことができるのです。ベルトを巻いた人間が、変身したいという意思を強く発すると、体内のTF細胞が皮膚の表面に出て形を変え、アーマー武装となり、身を包みます。それが、TFシステム。私達科学班と、あなたの父親の技術をあわせて生み出した、豆腐の兵器です。TF細胞との融合に成功した強化人間に、それをつけさせる予定でしたが・・・・・・」
ユウ・Uーが言葉をひきついで言った。
「俺達は、試作品のそのベルトを所長に見せるために、今日ここを訪れた。そしたら、・・・・・・この有り様だったってわけだ」
崩壊した家。
倒れて動かない親父。
逃げ去るクモシダバー。
そして、発狂し、浮浪者に襲いかかろうとしたおれ。
それを見て、状況を一瞬で理解した餅は、ユウ・Uーに、おれの腰にベルトをつけるよう指示したという。
そして、今にいたるというわけだ。
「はっきりとした原因は分かりませんが、TFシステム研究所の情報が、シダバーに漏れていたようです。それで、TFシステムの完成を阻止するために、奴らはあなたのお父さんの命を狙ったのでしょう」
餅は、またうつむきながら言った。
「・・・・・・なんだよそれ。なんなんだよそれ!ふざけんなよ、もう!なんなんだよ!」
おれは両手で頭を抱えた。
胃が痛くなってきた。
二十七年間過ごしてきた、平凡な日常の裏に、そんな非日常があったなんて知らなかった。
事実の衝撃の大きさに、おれは呆然とするしかなかった。
「なんなんだよ、シダバーって?」
弱々しくつぶやく。
「知りたいですか?」
一歩近づいて、餅が聞いた。
「え?君、知ってるの?」
「ええ、ただその前に、あなたにお願いしたいことがあります」
突然、餅は、道路の上で、勢いよく土下座をした。
「な、何をっ?」
「お願いします!そのベルトをつけて、私達と一緒にシダバーと戦ってください!」
「え?・・・・・・え、え、え?えーと、いや、あーー、ええええっ!?」
何を言い出すのだこの男は?
餅は大声で続けた。
「さっきのあなたの姿を見て、わたしは驚きました。あなたはTF細胞に体を侵蝕されているのに、自分の意思を保っていた。あなたの体は、ほぼ完全に、TF細胞と調和していた。あなたなら、そのベルトを巻いて、TFシステムを使って戦うことができるのです!お願いします!私達に協力してください!」
「いや、でも、おれ一般人だし」
声が裏返る。
「あまりにも突然で、無茶な頼みだということは分かっています。でも、もう我々はあなたに頼るしたないのです。あなたのお父さんが亡くなったいま、TF細胞注入の人体実験もできません。それに、これ以上実験による被害者も出したくない。戦闘では、こちらがサポートします。どうか、どうかお願いします!」
「いや・・・・・・、でも・・・・・・、怖いし」
困った。
おれは半泣きになった。
さっきのクモシダバーとの戦いを思い出す。
痛かった。すごく痛かった。
塀に叩きつけられたとき、背骨が砕け、肉が裂け、そこから内臓が飛び出したかと思った。それくらいの激痛だった。
それにあのかゆみ。本気で発狂しそうだった。っていうか発狂した。
もう、あんな思いをするのは嫌だ。絶対に嫌だ。
そうだ、逃げよう。
断って、全力で走って逃げよう。どこか遠くまで逃亡しよう。
そして、人のいない所に隠れてじっとしていよう。そうしていれば、誰かがなんとかしてくれるはずだ。おれ以外の、勇敢で力の強い誰かが立ち上がって、シダバーをどうにかしてくれるはずだ。
おれが戦う必要はない。おれなんかよりも、このベルトを巻くのにふさわしい人物がきっといるはずだ。
断ろう。
はっきりと断って、背を向けて逃げだそう。
おれは、口をひらいて、ゆっくりと言った。
「わかった。やるよ」
餅は顔をあげた。
「本当、ですか?」
「ああ、おれ、戦うよ」
拳を握る。手にかいた汗がすごい。足が震えている。
ぎりぎりで、本当にぎりぎりのところで、弱い心を抑えることができた。
昨日までのおれだったら、さっき考えたように、とっくに逃げだしていただろう。
しかし、いまのおれは知ってしまっていた。
父を、母を、弟を、
大事な人を失う悲しみを、苦しみを知ってしまっていた。
もし、シダバーをほうっておいて逃げたら、おれの友人、仕事仲間、そしてしずかちゃんといった、他の大事な人達の命も、危険にさらされるかもしれない。
それを想像すると、逃げることができなくなっていた。
怖いけど、心臓が壊れそうなくらい怖いけど、逃げられなかった。
「おれ、シダバーと、戦うよ」
今度は強く言った。
「・・・・・・ありがとうございます!」
餅は立ち上がると、おれの手を強く握って頭をさげた。
そのあと、おれは餅からベルトの操作法をくわしく教わった。
あらかた覚えた頃には、日がのぼり、朝になっていた。
そのとき、ユウ・Uーのコートのポケットから着信音が鳴った。ユウ・Uーは、携帯電話を取り出して、耳に当てた。
「おれだ、どうした?」
電話に出たユウ・Uーの表情が、だんだんと、険しいものに変わってゆく。
「そうか、わかった」
電話を切ると、ユウ・Uーは、餅とおれを交互に見て、言った。
「市内のスーパーマーケットに、シダバーの集団があらわれて、民間人を襲撃しているらしい」
ユウ・Uーは、おれを見た。
餅も、おれを見た。
おれは、ゆっくりとうなずいた。
「行こう」