突然の悪夢と変身
《突然の悪夢と変身》
夜の午後十時。
しずかちゃんとのデートを存分に楽しんだおれは、うきうきしながら家に帰り着いた。
ワゴン車から降りて、家の鍵を取り出そうとポケットに手をつっこんだ時、指先が錠剤のパックに触れた。
「あ、いけね」
親父にもらった、アレルギーの薬だ。今日の飲まなければいけなかった分だ。昼間、ファミレスで食事をしたあとに飲むつもりだったのだが、うっかり忘れてしまっていた。
「まあ、いっか。一回くらい飲まなくても大丈夫だろ」
車の鍵をしめ、家に向かった。
そのとき、家の中から、ガラスの割れる音が響いた。
最初は、母親がコップでも落としたのかな、と思った。
しかしそのあと、木がへし折られるような音と、親父の悲鳴が聞こえてきて、おれは体を固くした。
「え?え?」
走って玄関へ向かった。
玄関のドアが、破壊されていた。
何か大きなものが突き破ったかのような穴が開いていた。
「おいおいおい、マジで?え?何これ?なんでなんでなんで?ええええっ!?」
弱気な声が口から漏れる。心臓の鼓動が高鳴る。背中から汗がふきだしてくる。
また音がした。たくさんの食器が、割れるやかましい音。
台所だ。台所で、何かが起きている。
家に飛び込むと、おれは走り出した。
廊下の壁に、いくつも、三本の線がついていた。まるで何か大きな爪でひっかいた跡のように見えた。
「なんなんだよ。なんなんだよ!もう!」
急に腕がかゆくなってきた。皮膚の下で、何かが蠢いているような重いかゆさだった。アレルギーの症状だろうか。薬を飲まなかったのはまずかったか。
おれは腕をかきむしりながら、走った。
台所に駆け込んだ。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
おれは呆然と立ち尽くした。
目の前の光景が理解できなかった。
台所の中は荒れていた。
テーブルが真っ二つに割れでいた。食器棚が倒されていた。流し台の蛇口がもぎとられ、水が溢れ出していた。床に炊飯器が落ちていて、中の白いご飯がはみだしていた。それを囲むかのように、砕けた食器やガラスの欠片がたくさん散らばっていた。
しかし、おれの視線は、真っ先に窓際に釘付けになっていた。
そこには、怪物がいた。
大きな毛だらけの怪物が二体、窓際に立っていた。
三メートルくらいの人型の怪物だった。
太い腕、太い体、太い足。その全ての部分に、びっしりと毛が生えていた。指は三本。先には長い爪がついていた。そして首から上は、獰猛なヒヒのような顔をしていた。よだれをたらしながら、甲高い唸り声をあげていた。
かゆい。足もかゆい。
おれは足をかきむしって、その怪物を見上げた。
怪物も、おれを見下ろした。
「・・・・・・勇一郎、逃げろ」
かすれた声がした。
親父だった。怪物達の足元で、親父が仰向けになって倒れていた。額から血を流していた。足が、変な方向に曲がっていた。親父は言った。
「こいつらは、シダバーだ」
「シダバー?」
しずかちゃんの話を思い出す。世界中に出没し、人々を襲う怪物の集団。こいつらが、そうなのか?なぜだ?なぜこんなのがこの町に?なんでおれの家に?
「頼む、おまえだけでも逃げてくれ・・・・・・」
・・・・・・おれだけでも?
親父の言葉がひっかかかった。
おれは聞いた。
「母さん達は?」
すると親父は、顔をくしゃくしゃにして、割れたテーブルの下を向いた。
おれは、その視線を追った。
そして、絶望した。
テーブルの下に、爪跡のついた死体がふたつ、積み重っていた。
母さんが死んでいた。
弟が死んでいた。
「・・・・・・・・・・・・」
冗談だろ?これは、なんの冗談だ?なんでうちなんだ。そんな、こんなことに巻き込まれるのは、うちじゃないだろう!うちは、なんでもない普通の豆腐屋だぞ。そんな、そんな、なんで、そんな。
体から力が抜けてゆく。頭の中が、グシャグシャに丸めた紙クズのようになる。
「ぼおっとするな!頼むから、早く逃げっ、っぐああああっ!」
親父が血を吐いた。怪物に腹を踏みつけられたのだ。
腹がかゆい。
「親父っ!!」
おれが駆けよろうとすると、もう一体の怪物が目の前に立ち塞がった。
かゆい。全身がかゆい。さっきから何なんだ、このかゆみは?
こんなことしている場合ではないというのに、体をかきむしらずにはいられない。
あちこちをかきむしるおれを見て、親父が弱々しく聞いた。
「勇一郎、おまえ・・・・・・、まさか・・・・・・、薬を飲まなかったのか?」
「あ、うん、ちょっと忘れてて」
「馬鹿野郎っ!!」
血を吐き散らしながら、親父は怒鳴った。
おれはとまどった。
確かに、薬を飲み忘れて、いまアレルギーらしい症状におそわれているが、いまはそんなことを叱っている場合ではないだろう。
それにしてもかゆい。かゆくて動けない。全身をかきむしることしかできない。
いま目の前に怪物がいる。早く親父を助けて逃げ出さないといけない、分かっているのに、動けない。かゆくて動けない。
かきむしっていて、気付いた。
肌が、熱くなっていた。体が、すごい熱を発している。肌だけではない。内臓も、脳も、まるで湯豆腐のように熱い。よく見ると、皮膚から湯気がふきだしていた。
おれは、恐怖した。何だこれは?一体何のアレルギーなんだ?どうなっているんだこの体は?
そのとき、目の前の怪物が、腕を振り上げた。
「危ないっ!」
親父が叫んだ。
すると、信じられないことが起きた。
おれの右腕がひとりでに動き、怪物の手首をつかみ、肘から先を引きちぎったのだ。
「ゲアアアアアアッ!!」
怪物がちぎられた腕をおさえて激しく鳴いた。青い血が、おれの頭に降り注ぐ。生ゴミのような臭いがした。
何がどうなっているのか、さっぱり分からなかった。頭の中が真っ白だ。
引きちぎった怪物の毛だらけの腕が、手の中でわさわさと動いた。
「ひいっ」
とっさにそれを投げ捨てると同時に、我にかえった。そして、あらためて、状況の不条理さに困惑する。
嫌だ。
分からない。
怖い。
理解できない。
怖い。
さっきひとりでに動いた、自分の右腕を見下ろした。
そして、また頭の中が真っ白になった。
腕の形が変わっていた。
人間の腕じゃない。
右腕全体が、一回り太くなっていた。爪が鋭くとがっている。皮膚がトゲのようなものでびっしりと覆われていた。
そして、白かった。
肌が、白色に変色していた。
そしてその質感。
見覚えのある、そのやわらかそうな、くずれやすそうな質感はまるで・・・・・・。
豆腐?
腕が豆腐になっている?
「あ・・・・・・ああ・・・・・・あああああああ!!」
おれは絶叫した。
すると、その叫びに呼応するかのように、体の中心がかっと熱くなった。
そして、おれは気を失った。
・・・・・・目覚めると、血まみれだった。
服やズボンが破れていて、おれは半裸になっていた。両手と両足に、乾いた青い血がこびりついていた。
まわりを見回した。
うちの台所だ。ただ、さっき以上に荒れていて、ほとんど廃墟と化していた。天井が裂けている。壁が崩れていて、向こう側の和室が見える。
なんだろう?
あちこちに、肉片のようなものが、たくさんへばりついていた。毛混じりの汚い肉片だ。まるで何かが破裂したかのように、床にも壁にも天井にも、いっぱいくっついている。
何なんだろう?
しばらくの間、ぼんやりとしていた。
どうなってんだ、これ?
すると、低い男の泣き声が聞こえた。
ふりかえると、親父が倒れた冷蔵庫の下敷きになっていた。
おれは駆けよると、冷蔵庫を持ち上げてどけた。冷蔵庫を片手で持ち上げたという自分の異常に気付かずに、おれはしゃがみこんで親父を心配した。
「大丈夫か?」
「すまない・・・・・・、すまない」
涙を流しながら、親父はおれを強く抱きしめた。
「?何泣いてんだよ?」
「すまない・・・・・・、すまない」
妙なことに気がついた。
親父の体が、なんだが少しだけ縮んでいるような気がするのだ。そういえば、台所も少しだけ狭く感じる。
「・・・・・・・・・・・・」
いや、ちがう。
おれの体が大きくなっているのだ。
親父は言った。
「おれのせいだ。二十一年前の、おれの不注意で、おまえは」
・・・・・・思い出した。
さっき右腕がひとりでに動いて、怪物の手を引きちぎったのだ。そうだ、あの怪物はどこに行った?
部屋を見回した。
あちこちにへばりついた、毛混じりの肉片。
まさか、あれが?
そして、青い血にまみれた、おれの両手。
「まさか・・・・・・」
ふと、窓ガラスを見た。
そこに映っているものを見て、硬直した。
なんだ、あれは?
化け物が、そこにいた。
最初、窓の向こうに化け物がいると思って、おどろいて後ずさった。すると、窓ガラスに映るそれも同時に後ずさった。
そこで、それが、自分の姿だと分かった。
おれの体が、化け物になっている。
豆腐のような質感の、奇妙な化け物になっている。
全身が、真っ白だ。顔にも体にも、トゲがびっしりと生えている。
「な、なんなんだよこれえっ!?」
おれは怒鳴った。その声色も、少し変わっていた。低く、鈍い声になっている。
吐き気がした。
中学生の頃に、水疱瘡にかかり、肌にたくさんの湿疹ができた時も気持ちが悪かったが、これはその比ではない。
「落ち着くんだ。いいか、勇一郎、おまえの体は・・・・・・」
親父が話しだそうとした時だ。
突然、家が崩壊し始めた。