始まりは、二十一年前
《始まりは、二十一年前》
六歳の頃、親父に殴られたことがある。
二十一年前、七月の暑い日のことだった。
夕方、幼かったおれは、一歳下の弟といっしょに家でかくれんぼをして遊んでいた。
オニになった弟が、十秒数えている間に、おれは隠れる場所を探した。
うちは豆腐屋を営んでいた。家の裏には工場があり、そこで作った豆腐を、スーパーマーケットやコンビニ、小学校の給食室などに卸売りしている。
家の外に出て、庭にある物置小屋に入った。竹箒、脚立、シャベルや三輪車などがしまわれてある。隠れられそうな場所を探して、中を見回した。そしてふと、床の隅に目を止めた。
床に四角形の蓋のようなものがあった。
「なんだろう?」
おれはそこに駆け寄り、その一メートル四方くらいの蓋を持ち上げた。
蓋の下には、地下へ続く階段があった。コンクリートで作られた階段だ。
うちにこんなものがあったなんて。
好奇心がわきあがってきた。
おれはその階段を降りていった。
しばらく降りると、明るい部屋に出た。
そこは、何かの実験室のような場所だった。
部屋の中心に大きな作業台があり、フラスコや試験管、顕微鏡、ルーペ、それにまじって、なぜか豆腐の空パックがたくさん散らばっていた。壁際には、計器やメーターのついた、よくわからない大きな機械が置かれていた。
おれは、どきどきしながら、そのひとつひとつを見ていった。なんかかっこいいと思って興奮していた。
その時だ。作業台の上に置かれていた、黒いケースが、ひとりでに開いた。
中から、ドライアイスの白い煙があふれだした。
「これは?」
おれは、ケースの中を覗いた。
そこには、一丁の豆腐が入っていた。
赤い豆腐だった。今までに見たことのない質感、そして、おいしそうな輝きを放っていた。豆腐を食べ慣れているおれでも、食欲を覚えるような、魅力的な甘い香りがした。まるでデザートのようだった。
夕食前で空腹だったおれは、何も考えずに、それを一欠片ちぎると、口にほうりこんだ。
そのとき、体にしびれが走った。
それは奇妙な感覚だった。
その豆腐はおいしかった。とてもおいしかった。しかし、呑み込んだ瞬間、急に不安におそわれた。何か食べてはいけないものを誤って食べてしまったかのような気分になった。
幼いおれの肉体が、その豆腐を拒否したかのような、なんとなく、そんな気がしたのだ。
しばらく呆然としていると、階段のほうから、慌ただしい足音が聞こえてきた。
振り向くと、汗だくになった親父が駆けこんできた。
親父はおれを見て、それから開いたままになった黒いケースを見ると、顔を青くした。
「お父さん、どうしたの?」
「・・・・・・食べたのか?」
親父が低い声で聞いた。
「え?」
「勇一郎、・・・・・・その豆腐、おまえ、食べたのか?」
「う、うん」
「馬鹿野郎っ!」
親父はおれを殴った。おれの小さな体は、あっさりと倒れた。
痛みと、そして驚きで、おれは泣きだした。
「あ・・・・・・、す、すまない」
親父は我にかえると、あわてておれを起きあがらせた。その腕は、小刻みに震えていた。
「しかし、どうやってあのケースを開けたんだ?あれを開くには、指紋の照合とパスワード入力が必要なのに」
親父が黒いケースを指差して聞いた。おれは、涙をふきながら答えた。
「わからないよう。だって、勝手に開いたんだもん」
「勝手に・・・・・・、だと?」
親父は黒いケースの中の、赤い豆腐をにらんでつぶやいた。
「まさか、TF細胞がこの子を・・・・・・、勇一郎を選んだというのか?しかし、よりにもよってなぜ!?・・・・・・なぜこの子なんだっ!!!」
親父は両手で顔をおおうと、暗いうめき声をあげた。
おれには何を言っているのかよくわからなかったが、自分がとんでもないことをしてしまったらしいということは、なんとなく感じた。
翌日から、物置のあの床の蓋には、厳重に鍵がかけられ、入れなくなった。
そしてその後、おれは一週間に一度、食事のあとに青い錠剤を飲まされるようになった。親父とおふくろは、アレルギーの薬だと言っていた。おれは素直に飲み続けた。
・・・・・・そう、いま思えば、あれが全ての始まりだったんだ。