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 彼がいなくなり一人きりになったので、時間がたつとともに高ぶった気持ちが少しずつ落ち着いてきた。

 さっき彼に吸われた唇を、指でそっとなぞる。少し腫れて熱を持っているような感じだ。

 わたしたち、まだ終わっていなかったんだ……。

 そう思ったとたん、涙がこぼれた。

 あの雨の日に、わたしは終わったと思っていた。だから、こちらから連絡するのを避けていたのだけど。こうして引っ越し先まで彼が追いかけてきてくれるなんて、どうして予想ができただろうか。それほど彼の出現は、意地っ張りなわたしにとって、まったく思いもしない出来事だったのである。

 世界は広いはずなのに。こんなに簡単につかまってしまった――。

 ふいに、「西遊記」のお釈迦様の話を、わたしは思い出した。

 ああ、そうだ。孫悟空がどんなに遠くまで飛んで世界の果てを目指しても、ついにお釈迦様の手の上から逃れることができなかったんだっけ。それと同じように、わたしも、彼の手の平の上から逃れることができないのかもしれない。彼がわたしを必要としてくれるかぎり――。

 コンロの火にかけたやかんの笛がピーッと鳴ったので、わたしは身を起こした。足を床の上に下ろし立ち上がる。キッチンへ行き、コンロのスイッチを切った。

 そのときだった。

「ただいまー」

 パチッと音がして火が消えたのと同じタイミングで、部屋の扉が開いたのである。

 扉の向こうから現れた彼が、わたしを見て驚き、「あっ……!」と小さく叫んだ。

「おい、こらっ。寝てろと言っただろう」

 彼は目くじらをたてて、再び怒鳴り散らした。

「う、うん。わかってるって……。お湯が沸いたから、お茶っ葉を入れないと……」

「そういうことは、おれがやる。おれに任せろ。早く寝ろ」

 もう。別に、なんともないのに……。

 そう思いながらも、いちいち説明するのに骨が折れるし、なにより時間がもったいないことに、はたと気づいた。結局、しぶしぶ彼に従うことにした。おとなしくベッドに戻る。

 ベッドに腰を下ろすために振り向いたとき、はじめて彼の手荷物の大きさについて疑問に思った。彼の足元に置かれた買い物袋の中に、物がたくさん入っていて、上から下までゴツゴツと角ばっていたのだ。

「ちょっと、タケル。何それ。その買い物袋の中身、どうしたの? なぜ、そんなパンパンに詰まっているの?」と質問を投げかけたら、「へ? あ、ああ! あー。これね……」などと、彼は困ったように苦笑いをした。

「おれさ、ユウカを寝かしつけて飛び出したところまではよかったんだけどさー。外に出て、あー、やっちまったなあ、ってよ。そう思ったわけ。情けないことに、失敗に気づいたんだ」

 彼が長々と前置きを述べる理由が、わたしには思いつかなかった。

「それで? タケル、どうしたの? 失敗って……?」

 話の先をうながし、聞き役に徹することにした。

 すると、彼は恥ずかしそうにうつむき、咳払いをしてから、ドカッとフローリングの床の上に坐りこんだ。買い物袋を逆さまにして、一度に中身をぶちまける。わたしは思わず目を見張った。いろんな種類の、色とりどりのパッケージの薬が山となっていたのだ。ざっと見た感じ、十数種類もある。

「もしかして、いっぺんに、こんなにたくさん買ってきたの?」

「ハハ……、まあな」

 わたしの反応を気まずく思ったのか、彼は顔を横にそらし、わたしの視線を避けた。

「何を買ったらいいのか、わからなかったんだよ。おまえに訊く前に、あわてて外に行っちゃったもんだから。それで、引き返すのもめんどいし、時間がかかるから、胃腸薬とか、頭痛薬とか、風邪薬とか……。とにかく、手当たり次第、適当に選んで買ってきたんだ。ま、これだけあれば、使わなくても救急箱に入れとけばいいし、問題はないだろ」

 わたしは半ばあきれて言った。

「だったら、電話かメールをすればよかったのに。こういうときこそ、携帯を使わなくちゃ」

「あわてて出てきたから、携帯を持ってくるの、うっかり忘れちゃったんだよ。それよりさ、この中に、ユウカの必要なものあるか? 何を呑むといい? なかったら、また買いに行くけど」

「えっと……欲しいのは、あのう、鎮痛剤だったんだけど……」

 おずおずと遠慮がちに頼む。そうしたら、彼は思い出したかのように手を叩いた。

「あ、ああ! 鎮痛剤か。確か、買って来たと思うよ」

 タケルは薬の山をガサガサ探し始めた。「これこれ」と言いながら、ひとつの箱を取り出す。そして、照れくさそうにもう一度、咳払いをすると、薬をわたしに手渡した。そのあと、ほんのり顔を赤らめたのだった。

「実は、おれ……この間のこと、謝りに来たんだよね。ユウカ、ごめん! おれが悪かった。言い過ぎたと反省しているよ」

「タケル……」

「でも、これだけは解ってほしいんだ。おれ、本当におまえのこと心配しているんだぜ。おれがこんなにうるさく言うのも、その、つ、つまり、愛情の裏返しというか、なんていうか……」

 言葉に詰まりながら心情を打ち明ける彼が、とてもかわいく思えた。と同時に、嬉しくて。顔から火が出そうになってしまった。また泣きだしてしまいそうになるのをこらえ、ベッドに腰を下ろす。そして、横になり中に潜った。

 ベッドに横になったまま、わたしはうなずいた。

「わたしの方こそ、ごめんね。あんなふうな態度をとってしまって。わたしも言い過ぎたと思ってるの。本当にごめん……」

 彼の瞳が明るく輝いた。

「じゃあ、おれたち、これで元通りなんだな? 許してくれたんだよな?」

 子供のような笑顔だった。わたしの大好きな彼の笑顔だ。

 春の日差しがパッと散ったその微笑みを目の前にして、今までの悩みはなんだったのだろうと思ってしまった。

 もしかして彼の作戦なんだろうか。わたしのすべてを知り尽くしている彼のことだ。そう疑わずにはいられなかったのだけど。

 まあ、いっか。もう忘れよう。今は、彼と二人きりでいられるこの瞬間を大切にしたいもの。

「ね、タケル。寒くない?」

 彼をベッドの中に招き入れるために、わたしは真っ直ぐ手を差し出した。

 彼の目が熱っぽく潤んだものへと変わる瞬間を見届ける。それから頭の上にまで布団をかぶった。


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