5
なんだか嘘みたいだった。何日も前に音信不通になったタケルが、わたしの部屋にいる。
彼は痛そうに胸をさすりながら、あぐらをかいて坐っていた。そして、わたしの顔をじろりとにらんで言ったのだ。
「ひっでえなあ。まじブルドーザー並みの衝突だったぞ。どうしてくれるんだよ、骨が歪んだかもしれないじゃんか」
「だって……」思わず、視線を下げた。自分のつま先を見つめる。「急に飛び出してくるんだもん。こっちは走っているんだから、急には止まれないよ」
「にしても、おれの方が重症なのは、どういうわけなんだ。ほんと、ユウカは石頭なんだな」
「ふん、悪かったわね。そっちが軟弱すぎるんじゃない」
言い訳をするつもりはなかったのだけど。急に止まれなかったのは、本当のことなのだから仕方がない。
久々に会ったと言うのに、こんなかわいくない言い方しかできないわたし。自分の性格がかわいくないことは自覚している。彼にかけるべき言葉は、きっと他にあるだろう。そうとわかっているくせに、何をやっているんだか。
やだな。なんだか大人げない。わたしの方が子供だよ。
気まずい雰囲気にいたたまれなくて、わたしは立ち上がった。
「まあ、いいや。せっかく来てくれたんだから、お茶をいれるね。紅茶でいい? お湯を沸かすから、ちょっと待ってて。飲んだら、さっさと帰ってよ」
彼にクルリと背中を向けてキッチンに立つ。やかんの中に水を入れたあと、コンロの上に置いて火をかけた。
もう、なんなのよ。こんなことが言いたかったわけじゃないのに。自分のバカさ加減に腹が立つ。
「それはそうと、出かけるんじゃなかったのか? どこに行くつもりだったんだよ?」
わたしとは逆に、彼の言い方は、さっぱりとした口調だった。ケンカ別れをしたというのに、それがなかったかのような口ぶりだ。わたしが悶々と過ごしている間、彼はまったく気にならなかったのだろうか。
バカみたい。自分ひとりだけ、ぐじぐじ悩んで。すごく悔しい。
わたしたち、すっかり終わったと信じ込んでいた。それとも、こっちの思い込みだったって、わざわざ言いに来たの? 仲直りをするために? ううん、ちがう。絶対そんなんじゃない。あれは、あの喫茶店での彼の捨て台詞は、確かに別れの言葉だったはずだ。
彼の出現に動揺している自分の気持ちを悟られたくなくて、つとめて平静を装った。
「別に。たいした用事じゃないから。薬を買いに行こうと思って、ちょっとね――」
理由を述べている途中で、彼が急に立ち上がった。わなわなと震える声で言う。
「バカ! なんで早く言わないんだよっ。調子が悪いのなら、おとなしく寝てろっ。薬なら、おれが買いに行くから!」
ものすごい剣幕でまくしたてると、彼はわたしの腕をガシッとつかんだ。そのまま寝室の方へ連れて行かれてしまう。足がもつれそうになりながらも、彼についていくしかなかった。
「ちょ、ちょっと待ってよ。調子悪いって言ったって、そんなんじゃないんだから」
彼の反応にびっくりした。怒鳴られるとは思わなかったからだ。続けて、「知覚過敏かなんかで、歯が痛いだけだよ」と言おうとしたら、彼がムッとした顔をして不快感をあらわにした。わたしに向かって吐き捨てるように言った。
「ふん! 何がそんなんじゃないんだよ。やせ我慢しやがってっ!」
足を止めずにブツブツつぶやく。
「だから、違うって。そう言ってるでしょう」
くわしく理由を述べる暇はなかった。なので短い言葉で抗議をしたものの、なんの役にも立たない。そのままズルズルとベッドまで引っ張られたかと思うと、彼の背中にぶつかった。
「わぷっ!」
わたしのことなど構わず、彼はベッドの上掛布団をめくり、わたしの背中に手を添えて、体を横に倒した。有無を言わさず寝かされ、しっかり肩まで布団をかけられる。そして、わたしのおでこに大きな手の平をそっとあててきた。
「よし、まだ熱はないようだな。でも、顔が赤いか。ひょっとしたら、さっきぶつかったとき腫れたのか、これから熱が出るのか……」
彼の指に触れられたところが熱く感じた。あんまり心地いいものだから、思わず目を閉じる。すると、ベッドのきしむ音がして、マットレスが沈んだ。ふいに柔らかい感触が唇に触れる。
「ん……!」
久しぶりに交わすキスだった。ここへ来る前に缶コーヒーを飲んできたのだろうか。彼の唇が、苦くて甘い。
彼を許したわけじゃないのに、勝手に体が反応する。まつ毛が震え、固く閉じたはずの唇がかすかに開いてしまった。その瞬間を、彼は逃さなかった。さらに深く、深くとわたしの中に彼の舌が入ってくる。
だ、だめだよ。さっき薬を飲んだから、わたしの唇は苦いかもしれないのに。
恥ずかしさのあまり、これ以上耐えられそうになかった。
「ん……っ、いや!」
彼の唇をさけるために、顔を横に向けた。
「ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ」
深いため息とともに、がっかりした彼の声が耳に届いた。そっと目を開けたら、彼がまだわたしを見つめていて、とうぜん自然の成り行きで目が合ってしまった。彼の目の光が揺れている。
……あっ。
いけないものを見たような気がして、すかさず目をそらした。
「薬を買いに行ってくるから、おとなしくちゃんと寝てろよ。じゃないと、怒るからな」
つぶやくようにそう言ったあと、彼はベッドから下りて部屋を出て行った。わたしは黙って、彼の背中をただ見送ることしかできなかった。あの雨の日と同じように――。