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わたしがこの町に越してきた理由は、ただひとつ。仕事のためだ。
図書館司書の資格を得て、大学を卒業したものの、就職の内定をもらうことができなかった。そこで、正規の道をあきらめ、人材派遣会社に登録したのが、半年前のこと。最近になって、ついに念願が叶った。図書館施設の仕事に就くことができたのである。
正確には司書ではなく、図書館の設備管理の仕事だ。つまり、清掃だったり、窓や玄関の施錠だったり、はっきり言えば雑用係だったりする。時々図書館の方から依頼され、本の整理や修繕のお手伝いをすることもあるらしい。
それでも、わたしはとても嬉しかった。大好きな本に関わる仕事ができるし、やりがいを感じられるからだ。それに、この世に存在する、ありとあらゆる本は、わたしにとって、未知の世界へとつながる門。そう強く言えるぐらい、とても大切なものだった。
しかし、問題なのは、家から通うには、勤務地が遠すぎたことである。なにしろ、仕事場まで、JRに乗ったあと私鉄に乗り換えて、県境を越えないといけない。そのうえ、最寄りの駅からバスに乗ると、一時間以上かかってしまうのだ。
「うーん、こうなったら。やっぱり、家を出るしかないよなあ……」
あれこれと悩んだ挙句、仕事先の近辺で部屋をさがし、ひとり暮らしを始めることにした。
いちばんはじめに親に相談したら、予想通り、苦い顔をされてしまった。
「仕方のない子ねえ。ひとり暮らしするからには、もっと用心なさいよ。最近は何かと物騒なのよ。特にあんたは、のんびりしてるから心配だわ。わかってるの?」
説得を重ねるうちに、両親はそう言ってしぶしぶ折れてくれたのだけど、三つ年下の彼の方は、最後まで反対した。彼はわたしを世間知らずだと批判し、さらには派遣の仕事への不満やデメリットを専門家のような口ぶりで並べたてた。どんなに説明しても、わたしの焦りを理解してくれることはなかった。
彼はわたしの顔を見るたびに、こう言って説得した。
「ユウカ、おれだって大人だ。わかっているつもりだよ。けど、これはユウカの本当にやりたい仕事じゃないんだろう? それなのに雑用係でいいのかよ。資格だって、ちゃんと持ってるのにさ。もったいないと思わないのか」
あまり丈夫でない、わたしの体を気遣ったうえでの発言だとは思う。それでも、彼の言い分は、わたしの胸の深いところをチクンと刺した。
もちろん、わたしは首を縦に振ることなど一切しなかった。いくら彼氏とはいえ、お気楽な大学生と同じ土俵に立つつもりはない。
「タケルは学生だからいいけど、わたしはだめだよ。ちゃんと仕事をして、自立をしないとね」
「だけどさ、ユウカ……」
いつまでも、しつこく文句を言う彼に対し、だんだん苛立ってきた。
そういうタケルは、なんなの。親のすね、かじってるくせに! と、今にも怒りをぶつけてしまいそうになる。要らぬ波風を立たせないで済ますためにも、深呼吸をすることで、自分を無理やり抑え込まなければならなかった。
ところが、タケルの方が決定的なダメ出しをしたのである。
「やっぱ反対だよ、おれ」
なおも引き下がろうとしない彼に向かって、わたしはきっぱり言い放った。
「このまま悶々と過ごして、今の状態が普通になっちゃうのがいちばん嫌なの。それにね、結婚に人生をかけるだけのつまんない女になんか、なりたくない。自分の足できちんと立ちたいのよ、わたし。派遣だから、だめってことないじゃない。必要とされているのは、正社員だろうが、派遣社員だろうが同じなんだから。タケル、お願い。わかってほしいの」
言うべきことは、すべて言ってしまった。彼は黙って、わたしの言い分を最後まで聞き終えたあと、不服そうに舌打ちして席を立った。
「ああ、そうかよ。そこまで言うなら、もういい。何も言わないよ。ったく。昔と違って今は、専業主婦が憧れの職業だって言うのにさ。ユウカは意外と古い女なんだな。じゃ、お先に。おれ、帰るわ。悪いけど、今日は送れないよ」
吐き捨てるようにそう言うと、飲みかけのコーヒーと重苦しい空気を残して、彼は冷たい雨の中を去って行った。煙る雨の向こう側へと彼の姿が見えなくなる。わたしは立ち上がることもしないで、席に着いたままコーヒーを飲み干した。デートのたびによくお茶をした喫茶店での出来事だった。
以降、話し合う時間のないまま、わたしは家を出て行ってしまった。
今頃、彼はどうしているのだろう。メールをしても、返事が来ない――。