チャンカ(1)
一部に、『ミイラ』の描写が出てきます。
細かく表現してはいませんが、苦手な方はお避けください。
祭りの疲れを癒す間もなく、カパックはチャンカを討つための支度を始めた。
荒れ果てた緋の谷の光景が何度も頭をよぎり、チャンカに対する怒りは募っていった。
本来なら太陽神に沢山の供物を捧げて盛大に行われるはずの将軍任命の儀式は、祭りの後始末も終わらないうちだったため、仮の形式で簡単に執り行われた。
いよいよチャンカ討伐に向かう日の前の晩、カパックはひとり太陽の神殿で勝利を祈っていた。
薄暗い神殿の中には、豪奢な衣装をまとった歴代の皇帝のミイラたちが四方の壁のくぼみに座って、黄金のはめ込まれた眼で静かにカパックを見下ろしている。
たいまつの灯りが揺れるたびにミイラの影も揺らめいて、まるで先の皇帝たちがひそひそと囁きあっているようだ。
祈りを始めてどのくらい経っただろうか。
黙祷するカパックの頭の中に、突然厳かな声が響いてきた。
「カパック・ユパンキ……」
サッと後ろを振り返るが誰もいない。声はカパックの頭の中にまた呼びかけてくる。
「心を鎮めよ。カパック・ユパンキ」
(これは太陽神の声か? それとも皇帝たちの中の誰かか?)
カパックは自分の周りを取り囲む偉大な先人たちをぐるりと見回し、最後に正面の黄金の太陽神像に目を留めた。声はどこからともなくまた響いてきた。
「争いを起こせば苦しむ民が生まれる。知恵を使って事を成し遂げよ」
「どういうことだ? 私にどうせよと言うのだ?」
しかし、カパックの問いに『声』は何も答えはしなかった。そしてそれ以上何も告げなかった。
カパックは自分の部屋に戻ると、あの言葉を何度も繰り返して呟いては一晩中考え続けた。
(制裁とはいえ、争いを起こせば土地が荒れ、苦しむのは民にほかならない。
争わずに解決する方法を考えよということだな。
神が私の知恵を試しておられるのかもしれぬ)
次の日、チャンカ討伐のために選抜された屈強な兵士たちが広場へと集い、カパックが出てくるのを今か今かと待ち構えていた。
カパックは宮殿の広間で皇帝に出発の挨拶をしているはずだ。
しかし突然、宮殿の方から皇帝の声が響いてきた。
「何を言い出すのだ!
どのくらいの規模の賊なのか予測もつかないのだぞ!
一体お前は何をしに行くつもりなのだ?」
「兄上。私は決めました。
チャンカを討つのではなく話し合いに行きます。チャンカの裁判は、盗難を受けたアイユの長老の判断にゆだねます」
「殺されにいくようなものだ、馬鹿者! そんな奴に多くの兵士は出せん!」
「分かっております。兵士は十名。私が選んで連れてゆきます」
「勝手にしろ!」
皇帝はカパックの申し出に怒り狂い、派手にマントを翻すと、振り返りもせず広間から出て行ってしまった。
俯いて皇帝の去る足音を聞いていたカパックにひとりの貴族が近づいてきた。
少し白髪の混じった髪は耳の中央辺りできれいに切り揃えられ、その上をきれいに編まれた組み紐で幾重にもきつく巻き付けている。
額には青銅の太陽神のレリーフと瑠璃色のインコの羽をつけている。
貴族の証である耳の黄金板はカパックのそれより二周りほど大きく、重そうに垂れ下がっている。
尖った鷲鼻に鋭い光を放つ大きな両眼。広く厚みのある肩を反り返らせて堂々と立つその姿には、誰もが一瞬ひるんでしまうような威圧感が漂う。
その貴族はカパックを見下すような格好で低く呟いた。
「ようやくそなたとともに軍を率いるときが来たと喜んでおった。これまでそなたに過大な期待をかけていた私は愚かだったよ」
カパックはサッと顔を上げ、その貴族を見据えて答えた。
「いえ、ワイナ殿。
今後、貴殿とともに最強のスーユ軍を率いる正式な将軍となるために、必ずや無事に戻って参ります」
ワイナと呼ばれた貴族は無表情のまま口の端をわずかに上げたが、何も答えずに宮殿から出ていった。
宮殿から中央広場に出たカパックは、大勢の兵士に呼びかけた。
「私は戦いをしないことに決めた! 今からチャンカと話し合いに行く。
これから腕の立つ十名の兵士を指名する。
命を落とすかもしれない。私が指名しても行きたくない者は行かなくてよい」
広場中がざわめいた。ため息や驚嘆の声がそこら中から上がり始めた。
カパックはざわついているたくさんの兵士たちの間に降り、矛を握り締めると、選んだ者の肩を順々に叩いていった。
肩を叩かれた十名のうち、五名は抗議の意味でその場にしゃがみこんでしまった。
抗議をしなかった……つまりカパックに同意したのはたった五名の兵士だった。
それ以外は、広場の石畳にだらしなく転がるもの、何も言わずに広場に背を向けて帰っていくもの、みな一様に怒りと呆れの表情をしていた。
「カパックさまは気がふれたのか」
「この戦に勝ち目はないぞ。
カパックさまも、あの五名の兵士も、これで見納めだ」
兵士たちは陰でそんなことを囁きあった。
さて、カパックに同意した兵士は、いずれも腕は立つが一風変わった者ばかりだった。
筋肉質の頑丈な体を持つワラッカは、藁を固く編んだベルトで石を投げつけて敵を倒す投石器の名手。狙った的は絶対に外さない腕前だ。さらに石を加工する職人としての技術も持っている。
ハトゥンは、雲を突くような大男。頭の上が尖って突き出るような形をしているため、余計に彼を大きく見せている。体も大きければ声も大きい。クスコの力自慢勝負で負けることを知らない猛者だ。
細身で背が高く、異様に四肢の長いアティパイは、長槍にかけては右に出るものがいない。俊敏な動きで相手の攻撃をかわし、相手の隙をついて攻撃する技は見事なものだ。
鋭い目つきと尖ったあごを持つスンクハは、一見近づき難い印象を与えるが、冷静な頭脳と直感を備えた男だ。星型に削った石を固い棒の先につけた武器、こん棒の名手で、マカナ部隊の中でも、常に前線に立って戦ってきた勇者だった。
陽気な小男クッチは、サルのように身軽。どこでもよじのぼる腕の力と、バネの様にやわらかい肢体を持つ。ハトゥンとは対象的に、頭頂がくぼんで左右が横にせり出したハート型の頭の形が特徴的だ。
カパックの部隊には、五人の兵士の他に、交渉役として下級貴族アリン・ウマヨックが付くこととなった。知識が豊富で、十以上の地域の言葉が話せるので通訳として役立つ人物だ。年老いてはいるが、武術に秀で、恐れを知らない人物だった。
おおよそ軍隊とは思えない一行は、その日の夕暮れ、見送るものもほとんどない中をひっそりと出発していった。
街のあちこちで、ひそかにその様子を覗っていた人々は、
「カパックさまはクスコにはもう二度ともどらないだろうよ」
と哀れむように言った。
カパックの一行は、夜になって緋の谷のアイユに着いた。
リャマの番をしていた村人が、武器とたいまつを手にした七人の姿を見て、驚いて家の中に飛び込んだ。ほかの村人も家の中から彼らを目にし、戦争が始まるのではないかと言って怯えた。
チャンカの被害を聞くために、アリン・ウマヨックが長老の家を訪れた。
長老もはじめはおそるおそるアリン・ウマヨックを迎え入れたが、彼らの目的を聞くと一変、喜んで協力することにしたのだった。
「わしにははっきりした場所は分かりかねますが、奴らはいつも西の谷の方からやってくるのです。略奪に来る者は一度に二、三人ですが、毎回違う面々なので、谷には何人の賊が潜んでいるのかさっぱり分かりません。おそらくかなりの人数でしょうな」
「長老、貴重な情報をいただき感謝する。カパック・ユパンキさまが必ず盗賊どもを説得してくださるであろう。安心するがいい」
アリン・ウマヨックが長老の家から出て丘に向かっていたちょうどそのとき、ミカイが、彼女を押さえる母親の腕を払って家から飛び出してきた。
そしてありったけの声で叫んだ。
「どうして戦うの? もう戦わないで! 緋の谷を血で汚さないで!」
アリン・ウマヨックはミカイのほうを振り返ると、静かに言った。
「カパック・ユパンキさまは戦いに行くのではない。話し合いをしに行くのだ。大丈夫。必ずこのアイユを助ける」
ミカイは、遠く丘の上でたいまつの明かりに照らし出されているカパックの姿をキッと睨んだ。
仮面をかぶっているが、その背格好はインティ・ライミで見たあの皇族に違いない。
「お願いよ!」
ミカイはカパックに大声で呼びかけた。
「これ! ミカイ!」
母親が慌てて家の中へと引きずり込み、ミカイはその後姿を現さなかった。
あの明るく無邪気なミカイが必死に叫ぶのを見たとき、カパックはこの選択が間違いでなかったと確信した。
(ミカイ。必ず約束する)
カパックは心の中で固く誓った。