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皇帝の弟(2)



 少女の(アイユ)は、クスコの丘陵を越え、広い高原を横切り、さらに川を渡り、さらに高い丘を越えたところにあった。さすがのカパックも、籠を担ぐ肩がズキズキと痛むほどだった。

 (アイユ)が見えた頃には、もう夕暮れになっていた。


「ああ見えてきた。野宿を覚悟していたのに、日暮れまでに着いたわ。

 あんたのおかげね」


 少女は一体、どのくらいの帰宅時間を予想していたのだろう。彼女の訛りが強いわけが理解できるような気がした。

 丘の上から見下ろすと、小さな川に沿ってなだらかな谷が広がっている。谷は沈みかけた夕日を浴びて一面、緋色(ひいろ)に染まっていた。

 少女が言うには、その一帯はその情景のとおり『()の谷』と呼ばれているのだそうだ。

 少女は嬉しそうに微笑んでカパックの腕を掴むと、早足で丘を下って行った。


「ただいま!」


 粗末な小屋の前で少女が告げると、中から母親らしい人が顔を出した。母親はカパックを見ると、驚いた顔になって何か早口で少女に語りかけた。

 訛りが強くてよく聞き取れないが、随分と早い帰宅と、見知らぬ男を連れてきたことに驚いているらしい。

 少女も早口で何か答えると、カパックの方を向いた。母親は突然笑顔になって、カパックに何度もお礼を言うと、抱えるように中へと招き入れた。


 小屋は簡素な造りで、床は、土の上に粗末なゴザが敷かれているだけだった。天井から吊るされた帯のようなゆりかごに、まだ生まれて間もない赤ん坊が寝かされている。小さな男の子たちが走り回り、たくさんの食用ネズミ(クイ)が、子どもに踏まれないように器用に這い回っている。


 一番奥の敷き藁の束に寄りかかるように、家の主人=少女の父親と思われる男の人が腰掛けていた。投げ出した足は、片方が青黒く腫れている。


「父さん。この人、花代の代わりに荷物運んでくれたのよ」


 少女が紹介すると、睨むような目つきで軽く頭を下げた。


「今日はここに泊まっていくといいわ。街からお客なんて来たこと無いから、どうしていいかわからないけどね」


 母親はやや困ったような、それでもうれしそうな顔をして言った。


 その晩、少女の(いち)での活躍のお蔭で、この家では滅多にないご馳走が食卓を飾った。

 さらに母親は、部屋で走り回るクイを一匹捕まえ、つぶしてスープに入れる。残酷なようだが、この地では客人をもてなすための最高のご馳走だ。見たこともないご馳走に、子どもたちは、目を輝かせ感嘆の声をあげた。

 しかしそんなご馳走も、腹を空かせた子どもたちはあっという間にたいらげてしまった。


 食事の後、少女の父親がカパックにぶっきらぼうに聞いた。


「少年。どこのアイユの者だ? 名前はなんだ?」


 すでに成人の儀を終え、宮殿では大人と認められているカパックだが、一般の人にとってはまだまだ少年だ。


「……名前はユタ。クスコの金細工師の見習いです」


 ここで本当の名前を名乗るわけにはいかない。カパックは、成人する前の幼名と、とっさに思いついた嘘の身分を父親に告げた。父親はいぶかしそうに睨んだ。


「父さん、すごいわねぇ。職人の見習いだってよ。しかもあのクスコの!」


 何を聞いても嬉しそうな母親を見て、父親の表情も少しほぐれた。

 そのとき、少女があっと声をあげた。


「そういえばあたし、名前教えてなかったわね。

 あたしの名前はミカイよ。よろしくね、ユタ」


 ミカイはくしゃっと顔中をほころばせて笑った。あどけない笑顔だ。


 自己紹介が済むと、待ち構えていたように、おしゃべりなミカイの母が長い長い昔語りを始めた。小さなミカイの弟たちもはしゃぎ出し、賑やかな歓迎会は夜遅くまで続いた。

 さきほどまでカパックに厳しい表情を向けていたミカイの父親も、酒の酔いが回ってくると警戒心もほぐれてきたらしく、楽しそうな家族の様子を笑顔で眺めていた。


 次の日、客人のために用意された厚めの敷き藁の上で目覚めたカパックは、夜明け前の薄暗がりの中で誰かが出て行くのを見て起き上がった。

 後について外に出ると、ミカイの父親が白い朝もやの中にひとり、杖をついて立っていた。

 気配で後ろにいるのがカパックだと分かったのか、振り向きもせずに語りかけた。


「またやられた。チャンカのやつらだ。リャマを一頭、持っていかれた。

 ここは昔、トウモロコシも、ジャガイモも、何でも取れる肥沃な土地だった。しかし、チャンカとクスコの戦いで戦場になり、土が固まり、何もできなくなった。唯一残されたリャマの放牧でやっと生活してきたが、大切なリャマをチャンカのやつらが夜のうちにやってきては盗んでいく。わしらはこのまま飢えるしかない」


「ミカイはそのために街に?」


 カパックは息を呑んだ。今このアイユの人々は、生きるか死ぬかの岐路に立たされているのだ。


「ミカイは優しい子だ。わしがチャンカのやつらを追って大怪我をしたとき、なんとか治そうと、必死であの薬草を見つけて来た。どこから聞いてきたのか、誰も踏み入れない山奥によく効く薬草があると言って、危険もおそれず……。

 そのうえ、あれを売って、食糧まで手に入れてくれた」


 父親は振り返り、寂しげに笑ってみせた。


 カパックの心に、悲しみと怒りが湧いてきた。

 パチャクティ皇帝がチャンカを滅ぼして以来、国に平和が訪れ、クスコはあんなに繁栄している。しかし、その陰で苦しんでいる民がいたとは。


 皇族として彼はいてもたってもいられなくなった。

 何とかしてチャンカの残党を倒し、このアイユの平和を取り戻さなくてはいけない。一刻も早くクスコに帰り、このアイユを救う手立てを考えなくてはならない。


(急いで宮殿に戻り、策を立てよう)


「……私はもう行かねばなりません。

 どうかご家族によろしくお伝えください」


 カパックが挨拶をすると、父親は黙って頷いた。

 カパックは一目散にクスコへ向かって走り出した。


(ミカイとその家族、そして緋の谷のアイユを救わなくては……)


 厳しい生活を送りながらも、そんな苦労をまったく感じさせない明るいミカイの笑顔を思い出すと、胸が締め付けられるようだった。



 宮殿に帰り着き、着替え終えた途端、皇帝の遣いが血相を変えて部屋に飛び込んできた。


「どこにいらっしゃったのですか?皇帝が昨日の夜から探しておいでだというのに」


「ちょうどいい。私も兄上に即刻報告しなくてはいけないことがある」


 カパックは急いで皇帝の待つ太陽の神殿へと向かった。


「カパック、どこへ行っていた! インティ・ライミのために各地の首領がぞくぞくと到着しておるのだぞ。一刻も早くもてなしの準備をせよ」


 皇帝は苛立ちながら、神殿が揺らぐような声で暢気な弟を怒鳴りつけた。


「兄上、申し訳ありません。そちらは早速に。

 しかし、急いで兄上のお耳に入れなくてはいけない事がございます」


 カパックは、緋の谷のアイユとチャンカの残党のことを報告した。カパックの話が進むうち、皇帝の顔が見る見るこわばっていった。


「この大事なときに、お前が遊びに行っていたとは許せん。

 しかしチャンカ族が生き残っており、スーユの領内を脅かしているというのは重大な事件だ」


 皇帝は長い溜め息をついて黙り込んでしまった。

 しばらくの沈黙のあと、かぶりを振ってようやくゆっくりと言葉を継いだ。


「しかし今は大事な祭りを控えておる。無事に祭りを終えたのち、お前を将軍に任命し、チャンカ討伐の軍を編成することとしよう」


「はい。かしこまりました」


 カパックは皇帝の言葉に目を輝かせた。


 パチャクティ皇帝にとって、チャンカ族ほど憎き相手はいない。

 かつてチャンカ族は強大な勢力を誇り、周辺の国々で略奪を繰り返していた。チャンカに逆らう部族はことごとく虐殺され、従った部族は奴隷のような生活を強いられた。

 彼がまだカパックと同じくらいの年の皇子であったころ、チャンカ族がクスコを攻めてきた。チャンカに怖れをなした父王はクスコを捨てて逃げ出してしまい、クスコが陥落するのは時間の問題と思われていた。

 そのときわずかに残った兵を集めて指揮をとり、最後には奇跡的にチャンカに打ち勝った英雄。それがパチャクティであった。

 チャンカ族はすでに全滅したものと思っていた皇帝には、カパックの話はまさしく寝耳に水だったのだ。




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