邂逅(3)
マリーアが資料と格闘しながら溜め息を漏らす。さっきから何度も同じ溜め息を聞いているのだが、それは段々と大きくなってきた。
ふくよかな体に目鼻立ちのはっきりした顔を持つ典型的なラテン女性のマリーアは、そのしぐさにストレートに気持ちを表わす。マリーアの言いたいことが分かりきっている私はうんざりとして彼女に言った。
『仕方ないでしょ。嫌なら手伝わなくていいわ』
『手伝いたくないわけじゃないわ。むしろその逆! これを何としても解きたいのよ!
でも、なんでこの縄文字は複製なの! 原版はどこにあるか、分からないの? こんな良くできたサンプル、滅多に手に入らないのに!
セニョールも期待しているのよ。解けたら是非見せてくれって。
これが複製でなけりゃ、あたしたちは世界中に名が知られるくらいの大発見をしたことになるかもよ!』
空いた時間を使ってやっていた私的な研究に無理やり協力したいと申し出したくせに、図々しく文句をつけてくるマリーア。しかし彼女の協力のお陰でひとりでは到底解くことができなかった部分が解読できたのも事実だ。
お喋りなマリーアがチームの皆に広めてしまったため、いつのまにか皆この解読が出来上がるのを楽しみに待つようになっていた。セニョールと呼んでいるこの研究チームのチーフまでもが。
『ああ、マリーア。ちょっと黙って。今その大発見をするかもしれないところなんだから』
『ほんと? コマチ。どれ?』
『だから!』
私が口に手を当てて見せると、ようやく口を閉じたマリーアだったが、今にも開きそうにもごもご言わせて、大きな瞳を期待で見開いて私の手許を覗きこんできた。
私は無数に結わえ付けられた紐の結び目をなぞりながら、片手で複数の資料の写真を指差す。
『これかしら?』
『どれどれ』と、さらに近づいて覗き込んだマリーアが、『ああ!』と大声を上げた。
『そうよ! コマチ! これだわ!』
『じゃあおそらく、この結び目は{蘇る}という意味ね』
『すごいわ、コマチ。あとひとつ解ければ、すべて繋がるわ!』
舞い踊るように自分の机に戻ると、マリーアも同じように複製した紐を片手に資料をめくり始めた。静かに作業に集中し始めたかと思えば、またマリーアはお喋りを始める。
『そういえば、コマチ。あなたの留守に日本人の男性が訪ねてきたわ』
『日本人? タナカかしら?』
お互いに資料に目を落としたまま、話し続ける。
『あなたのアパートの風変わりなオーナーならすぐ分かるわよ。いつもキモノ着て歩いているんだもの。違うわ。けっこういい男だったわね! 旅行者みたいよ。また訪ねるって』
『やだ、また戻ってきたのかしら? あの男!』
以前日本からやってきた旅行者に親切にしたことがあった。同じ日本人ということでこの周辺の観光地を案内してやったのだ。しかし、その男は何を勘違いしたのか、帰り際に突然プロポーズしてきたのだ。私がそれを断ると、じっくり考えてくれるまで滞在期間を延ばすと言ってきた。見た目はそれほど悪くはなかったが、ともかくその突拍子もない行動に嫌悪感を抱いた。何とか説得してやっと帰ってもらったのだ。
『コマチの話だけではそのときの旅行者がどんな人だったかは分からないけれど、そんな変な人には見えなかったなー。私のタイプだったわ!』
ちらっとマリーアに目を遣ると、片頬に手を当てて夢見るような視線を天井に向けていた。
私がここで仕事をしていることを知っている日本人といえば、家族か、母校の教授か、例のストーカーまがいの旅行者。それと……。
いいえ、そんなはずはない。彼は日本で研究に没頭しているはずだ。ここまで来る時間も金銭的余裕もないだろう。
私は淡い期待を消し去るために軽く頭を振った。
『名前は聞かなかったの?』
『うん。言ってなかった。
そうだ! 私が廊下で拾ったコイン持っていたら、自分のだ自分のだって必死で言うから返してやったのよ。でも、おかしいわよね。あの日本人入ってきたばかりなのに、なんで奥の廊下でコイン落とせるの?
容姿は悪くないのにセコイ男だわ!』
マリーアは肝心な話を逸れて随分とつまらないことに拘り出した。
『いいじゃない? それくらいでおとなしく帰ってくれたんだから。やっぱりちょっと変ね。関わらなくてよかった』
『クスコには三日間滞在するって言ってたから、また来るわよ。ええと、それが三日前のことだったから、今日辺り』
『そのときはマリーア、適当に応対してちょうだい…………。
ねえ見て! 繋がったわ! マリーア!』
私は今までの話を切って叫んだ。マリーアが思いっきり椅子を蹴倒して駆け寄ってきた。
ふたりで縄の結び目をなぞりながら、今まで書き連ねてきたケチュア語の単語をゆっくりと復唱する。接詞や助詞はめちゃくちゃだが、そこにひとつの文章が浮かび上がった。
『とうとう、やったのね! おめでとう、コマチ!』
マリーアの大きな体が小柄な私を思いっきり締め付ける。嬉しいよりも息苦しさが先に立った。
『……もう少し待って、ちゃんと文章に直すから』
『ええ、そうよね』
マリーアは手を離したが、まだ荒い呼吸のまま私の手許を覗きこんでいる。これが出来上がったらさっきよりも強く抱きしめてきて、私は窒息してしまうかもしれない。変な緊張感を抱いたまま、単語の羅列を文章の形へと整えていく。
文字を綴っていくうちに、わたしの手が小刻みに震えてきた。思わずぽとりと涙がこぼれる。そして最後の一文を記したあと、涙があとからあとから溢れ出てきて止まらなくなってしまった。
『どうしたの? コマチ?』
『なんでもない。なんでもないの……』
そういってしゃくりあげる私の背中をマリーアが優しくさすってくれた。
しばらくそうしてから、私が落ち着いたのを見計らって、マリーアは出来上がった文を写し取って、セニョールに見せてくると部屋を出ていった。
ひとり部屋に残った私は椅子に座りなおし、今度はそのケチュア語の文章を日本語に訳す作業に取り掛かる。
ふと顔を上げて、大きな窓の外を眺めた。
窓の外には紺碧の空。乾いた茶色い色をした山脈。そして少しだけ頭を覗かせた万年雪の白い頂が遠く見えている。あの夢の中の景色がいま、現実に私の目の前に広がっている。
この縄文字の意味が明らかになったいま、その景色はやけに美しく哀しく私の眼に映った。
(これを託した人は、もう忘れてしまったのだろう。これを綴ったときの想いも、これを私に託したときの想いも……)
約束の手紙をしたため、その切ない思い出もすべてその中に押し込んで封をする。
これですべて終わったのだ。
トントンと、誰かがドアをノックした。
(マリーアかしら? この部屋に入るときには律儀にノックなどしないのに)
そう思いながら返事を返してドアノブを回す。
私の目の前に立っていたのは…………その手紙を渡すべき相手だったのだ。
その相手……由隆が私に何かを語りかける前に、思わず私はその胸に飛び込んでいた。
彼は驚いているだろう。それでも私は腕に込めた力を緩めなかった。
縄文字の意味を彼が知っていたのかは分からない、でも。
きっと彼の心の底にある決意は変わっていないものだと信じた。
『……私、勘違いしていたのよ。コマチに謝らなくちゃ!
だって自分のものとしか聞こえなくて。ミヤだったなんて、日本人の名前なんて知らないもの!』
『相変わらずだな。マリーアは……』
甲高い声で話しながらマリーアがセニョールとともに廊下の角を曲がってきた。そこで私たちに気付き、ふたりとも軽く口笛を吹いてそのまま踵を返す。
ふたりが再び姿を消した後、由隆が私の背中に腕を回して抱きとめ、小さく囁いた。
「逢いたかった、小町」
私は由隆の背中で、まだ手に握り締めていた手紙を破った。
過去のふたりが夢見た未来が、今、始まった。