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邂逅(1)

『逃れられぬ夢』『よみがえる夢』につづき、

今回の話の舞台も奄美の架空の島です。

台詞などにご当地の方言を活かせたら…と思いましたが、

ご当地の方言があまりにも複雑で多様なので、標準語を使いました。

標準語での台詞に違和感があるかもしれませんが、ご容赦ください。

方言をご存知の方は変換して読んでみてください。


 研究室の長椅子からタオルケットを掴んだまま滑り落ち、したたかに腰を打った。

 ローテーブルの上に積み上げられていた書類の山に触れてそれらも崩れ落ち、俺に降りかかってきた。がさごそと上に積もった書類を払おうともがくと、分厚い本まで落ちてきて顔面を直撃した。


 昨日までほとんど寝ずに書いていた共同論文が出来上がり、打ち上げと称して研究室で酒を飲んでいたので、酔ってそのまま寝込んでしまったのだ。

 本に打ち付けられて痛む額を押さえて上半身を起こすと、周囲にもだらしない姿で横たわって大いびきをかいているチームのメンバーたちがいた。

 野郎ばかり三人が狭い部屋にいるので、部屋の中はむうっと湿った空気で淀んでいる。

 ましてやここは沖縄だ。日が昇り始めて、エアコンもかけていない室内は異様な湿気が充満していた。

 身体を起こして窓を開け放つ。もうかなり強い日差しが一気に部屋に差し込んで来た。酔っ払った仲間たちは、それでも一向に目を覚まそうとしない。

 俺は長椅子とテーブルの間の狭い空間にのろのろと腰を下ろすと、自分がぶちまけてしまった書類を拾い始めた。俺の顔を直撃した本を拾い上げたとき、その間から一枚の絵葉書が滑り落ちた。

 俺はそれを拾い上げ、片付けもそのままに明るい窓辺に行って眺めた。


 昨年届いたものだった。実家に送られてきたものを転送してもらった跡がある。

 表の写真は濃い藍色の空を背景に広大な茶色い大地と巨大な石造りの遺跡が写っている。裏を返すと宛名の下に小さな文字がびっしりと綴られている。

 昨年取り組んでいた研究のときには、この本を資料として使いながら常に傍らにこの葉書を置いていたものだった。



―― お元気ですか。

  私は卒業と同時に卒論担当の教授の紹介で、

  ペルーの考古学研究班に所属することになりました。

  首都リマの大学からの派遣で、今はクスコで暮らしています。

  チームでは日本人は私ただひとり。

  スペイン語もよく分からないままでやってきて不安でしたが、

  チームのメンバーはとても気さくで優しく、すぐに慣れることができました。

  日本から離れて暮らすのは少し寂しいですが、

  この街は私の心のふるさと。不思議と安心できるのです。

  それ以上にここに来ることができて幸せです。

  奇遇ですが、今は主にキープの解読に取り組んでいるんですよ。

  いつかきっとあのキープも解読してみせます!

  そのときにはすぐに連絡しますね。

  ここは、本当にあの夢のとおりの場所ですよ。

                      

              ペルー、クスコにて  花岡 小町 ――




……故郷の島に帰って自然の研究がしたい……


 東京に残る選択肢はたくさんあった。それなのに敢えて俺は東京を離れた。

 俺はいずれ故郷の島に帰るつもりだったのだ。大好きな故郷の自然を研究してみたい。そう思って鹿児島の大学に進学した。四年間を終えたら島を拠点に奄美の自然環境の研究をするという夢を抱いていた……つもりだったが。


 彼女はどうして東京に残らないのかと訊いた。

 そういう立派な理由からだと彼女にも自分にも言い聞かせた。一瞬彼女が見せた寂しそうな瞳が今も記憶に残っている。

 この絵葉書を受け取ったとき、そのときの彼女の気持ちがはじめて分かったのだ。いつでも会えると思っていた相手が、手の届かない場所に離れていく寂しさを。

 

 島の戻るために始めた勉強だったが、在学中に海洋学をかじってそっちに夢中になり、卒業後も島に帰らず沖縄の大学院で海洋学の研究を続けている。まったく本末転倒な話だ。

 あのときの大義名分は、結局どうでもいいことだったのだ。


 俺と彼女はとても気の合う親友だった。一緒にいると自然体でいられて安らいだ。

 しかし同時に俺は、彼女と一緒にいることで、自分の人生が過去の世界の亡霊に支配されているような気がしていた。彼女という人間を見つめる以前に、ともかくその亡霊の影を消し去って自分の人生を生きたかったのだ。

 だから自分が一緒にいたいかどうかなど考えずに、彼女から離れた。ましてや彼女の気持ちなど振り返ろうともしなかった。


 その頃、前世の夢は執拗に過去を思い出してくれと訴えてきた。だから夢の中のあいつが一番執心していた縄文字を再現し、彼女に渡したのだ。そうすれば、あいつはもう俺を解放してくれるだろうと思ったのだ。


 大学に進学してからしばらく続いていた彼女との連絡も、知らず知らずのうちに減っていき、やがて途絶えた。あの夢もいつの間にか見なくなっていた。

 ふたりが違う人生を歩み始めることで、ようやく前世の因縁を断ち切ることが出来たのだと思った。

 その後はラグビーを続けながら勉強に励み、それなりに恋人もできて、学生生活を満喫していた。彼女との思い出も前世の記憶も遠い話となったはずだった。

 しかし『二度と会わない』と思っていた人が、『二度と会えない』と分かったとき、身勝手な俺は急に寂しさと後悔を覚えたのだ。振り返ってみれば、高校時代に彼女と過ごした時間が今までの人生の中で一番安らげる時だったのかもしれない。

 もう何年も経ってから、こんな気持ちが湧き上がってくるとは思っていなかった。


 俺は何故、彼女から離れたのだろう。前世から逃れようとして、一番前世に囚われていたのは自分だったのかもしれない。

 彼女は前世を糧にして今の人生を前向きに歩んでいる。


 別れた日、彼女は最後に何かを伝えようとして言葉を切った……。一体何を伝えたかったのか。

 そう、今更未練がましく思い出してみても後の祭りだ。あの続きの言葉に耳を塞いだのはこの俺なのだから……。


 ぐるぐると取り留めのない思いを巡らせていると、後ろのふたりがごそごそと起き出す気配がした。俺は葉書をよれた白衣のポケットに押し込んだ。



「ゆうちゃん、本当に勿体無いことしたわね」


 大きな共同研究がひと段落したので、久しく帰っていなかった島の実家に戻った。

 実家では東京から帰省していた姉と小さな姪が待っていた。

 俺が東京を離れてから数年して姉は長女の風花を生み、今は第二子がお腹にいる。もうすぐ臨月を迎えるので出産のために帰省しているのだ。

 風花を生んだときには、初めてのお産で産婆もいないこの島で生むのが不安だと帰ってこなかったが、次の子のときには余裕ができて、自分で鹿児島の病院を予約して帰ってきたのだった。入院している間、風花を両親に預けられるので、やはり島に帰ってくるのが一番いいと思ったのだろう。

 そんな経緯から、姉と顔を合わせるのは高校卒業以来になる。四歳になる風花とは初めて顔を合わせたが、全く人見知りもせずに逆に俺に良く懐いてきた。

 朝食のあと風花を膝に乗せて遊ばせていると、果物を盛った皿を手にやってきた姉が俺に溜め息まじりに言ったのだ。


「何が?」


「小町ちゃんよ。あんなにいい()ほかには見つからないわよ。

 東京の大学だって同じ勉強は出来たはずなのに、あなた、わざわざ鹿児島に行ってしまうんだもの。あのときちゃんと掴まえておかないから、今度は小町ちゃんが地球の裏側に行っちゃったんじゃないの!」


「別に付き合っていたわけじゃないし」


「何言ってるの! 小町ちゃんのお陰であなたは以前の元気を取り戻せたんじゃない。彼女の前だと本当に楽しそうだったのに。まさか彼女を放って行くなんて思わなかったわよ」


 姉は思わず興奮して大声を出した後、いててとお腹を押さえた。


「だめじゃないか。そんなに興奮しちゃ! 赤ん坊がびっくりしてるだろ」


 俺の声にびっくりして風花が目を丸くして見上げるので、俺は慌てて彼女の頭を撫でる。


「誰のせいだと思ってるの!」


 姉が俺を睨みつける。

 姉の中ではまだ、俺は高校を卒業してさほど経っていない感覚なのだろう。もう五年以上も経つというのに未だに小町のことを話題にするのだった。

 

 病院で生死の境を彷徨っていた俺のうわごとを聞いて、小町を呼んできたのは姉だ。

 その後もふたりがよく一緒にいるところを見ていたし、実際に小町と話したことも何度かあって、姉はすっかり彼女のことを気に入っていた。だから俺が何の約束もせずに小町から離れていったことが許せないというのだ。

 さらにいったん実家に届いた小町の葉書のことも、母から聞いて知っていたからますます言いたい事が募っていたようだ。


「あなたが何と言おうと、小町ちゃんはゆうちゃんのことが好きだったと思うわ。見ていれば分かるわよ。ゆうちゃんが鹿児島に行っちゃってから、偶然街で小町ちゃんに会ってね。すごく寂しそうに言ったのよ。卒業後も一緒にいたかったけれど、仕方ないですねって。本当に女心が分からないんだから! わが弟ながら情けないったら!」


 俺は姉の話に驚いた。

 ただの友達。偶然同じ記憶を持つ者同士だから気が合うだけだ。そう思っていたのは、いやそう思おうとしていたのは、俺だけだった。

 小町は前世の記憶などとは切り離して俺のことを、『宮 由隆』という人間を見ていてくれたのだ。それに俺だって前世の記憶などに囚われなければ、小町が大切な存在だったと気付いたはずなのに。

 こんなに時が経つまで大切なことに気付かないなんて。しかも気付いたときには、その相手はもう日本にはいない。

 どうしようもなく自分が情けなくなり、俺は風花を抱きかかえたまま、ふらりと縁側から外へ出た。

 開け放してある広い縁側の奥から姉の大きな溜め息が響いてきた。


 ちょうど庭の石垣を出たところで道の向こうから誰かがやってきた。懐かしい感じがするが、はて誰だったろうか。人影が声を掛けてきて、ようやく思い当たる。


「ゆう、久しぶり!」


かなた(・・・)か?」


 それはもう十年近くも会っていない同級生の森かなただった。

 かなたは順調に医学部を卒業し、この春から研修医(インターン)として働き始めたと聞いているが。


「かなた、お前どうしたんだ?医者はそう長い休暇は取れないだろう?」


「あはは、まいったな。島の皆に同じこと言われたよ。親父のやつが倒れたって聞いて、慌てて休暇を取って帰ってきたんだよ」


「森先生が? 知らなかった。大丈夫なのか?」


「それが、お袋が大げさで……。

 往診の途中に自転車で転んで、腰を打ってしばらく動けなかったらしい。親父は大したことないって言ったのに、ひとりで動転して俺に連絡してきたんだよ。

 俺だって慌てるよ。無理やり休暇をもらって帰ってきたら親父のやつ、もう平気で動き回っているじゃないか。折角帰って来たのなら、小早川先生にちゃんと挨拶しておけと言われて……」


『小早川』とは姉の苗字。小早川先生とは義兄あにのことだ。俺が首を傾げるのを見て、かなたが説明した。


「由隆はまだ聞いていなかったのか。

 実は親父、足の具合が悪くて往診がきつくなってきているんだ。俺はまだ研修医(インターン)になったばかりだし、すぐには診療所を継ぐことができない。そんなとき東京で小早川先生と美知(みち)さんに会ってね。たまたまその話になったとき、診療所を手伝ってもいいと言ってくださったんだよ。小早川先生の眼科は弟さんが継ぐことになったから、以前から興味のあった僻地(へきち)医療に移ってもいいと思っていたと言ってくださってね。それから話がとんとん拍子に進んで、お子さんが生まれる前には正式に診療所を継いでくださるということになった。だからちょうどいいこの機会に挨拶しておこうと思ってね。」


 まったく聞いていない。そんな話は。姉がこの島で子どもを産みたいと言ったのは、そういう理由だったのか。納得したような腑に落ちないような気持ちだった。


義兄(あに)は東京だよ……。二年もすれば、かなたは医者として島に戻るんだろう? そのときに義兄(あに)がいたらやりにくいんじゃないか?」


 かなたは少しの間黙って俺の顔を見ていた。


「俺、実は島に戻る気がないんだ。医学を勉強しているうち、僻地医療ではなくて、究めたい分野が出来てしまった。それはここではできないんだ。小早川先生が継いでくれると分かった途端、そのやりたいことを諦めなくてもいいかもしれないと、そう思い始めて……」


 期待していた島の人間全員を裏切ったように思えて、かなたが憎らしく見えてきた。俺はお前に劣等感を感じて東京に逃げたのだ。それなのに……。俺は思わずかなたに向かってぼやいていた。


「俺はお前が羨ましかったよ。頭が良く、華やかな医者への道を順調に進んでいるお前が。ずっと羨ましくて憎らしかった。そんな恵まれた環境にいて、皆に期待されていながら島の人を裏切るのか?」


 かなたの表情が変わった。


「……ゆう、何か勘違いしてないか?羨ましいと思っていたのは俺のほうだよ。小学生の頃から明るく人気者でスポーツも勉強も出来て、ゆうは後輩たちの憧れだった。同い年の俺は常に比べられているような劣等感を感じていたんだ。ゆうにかろうじて勝てるとしたら勉強しかなかった。だから俺は必死に勉強したんだ。家が医者だから、とりあえず勉強する目的を医者になることに定めたんだ。でも、ゆうに勝ちたい一心で勉強して来たに過ぎなかったから、途中で挫折しかけた。そのとき救命救急の現場を体験してやっと自分の目標が定まったんだよ。俺はやっとお前に勝つことだけを考えずに勉強するようになった……」


 半ば叫ぶようにかなたが言う。俺があのときかなたに抱いていた嫉妬とおなじものをかなたは、俺の前から感じていたとは。しかもそれがかなたに医者を目指させた原因だったなんて。

 返す言葉もなく唖然として、かなたを見つめる。


「島に帰ってきて親父から、ゆうはいま、国際的にも重要視されている研究をしているんだと聞いて、やっぱり勝てなかったと思ったよ。でも、もう比べることはない。俺も大切な目標が出来たからな。

 ゆうこそ、島の人の期待を裏切らないように今の道を究めろよ。いつまでも俺の憧れでいてくれよ。」


 同じような思いを抱いて、意地になって自分の人生を必死に探し続けたふたり。なんだか滑稽に思えてきて、俺は思わず笑っていた。かなたもそんな俺を見て笑った。

 俺の腕に抱かれておとなしくしていた風花が泣きそうな顔になってきた。かなたは風花の頭を撫でながら、彼女に話しかけるようにして俺に語りかける。


「いつも前を向いてチャレンジする、かっこいいゆうにい(・・・・)のことが、この島のみんな好きなんだよ……」


 風花はこくんと小さく頷いて照れるように俺の首にしがみついて顔を隠した。


「島はお前の姉さんと義兄さんがちゃんと守ってくれるよ。島の人たちを裏切らないというのなら、俺たちが自分の目的を見失わないことじゃないか?」


 俺はかなたに頷いた。かなたは「美知(みち)さんだけでもいい。ちょっと挨拶してくる」と言って家に入っていってしまった。


 今日は何て日なのだろう。姉からあのときの小町の本心を聞かされ、かなたからは俺が理想だったと告白されて……。

 まだ頭が混乱している。

 風花を連れたまま、俺の足は自然とあの秘密の草原へと向いていた。


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