憧憬(2)
夜遅く、携帯が鳴った。
「遅くに……悪い……」
電話の向こうから聞こえた由隆の声は途切れ途切れ、苦しそうだ。
「どうしたの?発作?」
突然のことに私はひどく心配になり、鼓動が早まった。
「……どうしても、ミカイに話さなくてはいけないことを思い出した。……聞いてほしい。」
ややあって、由隆がゆっくりとスーユの言葉――あたたかな地方の言葉――を語り始めた。ユタとなって……。
『私は、風となってミカイを探すうち、雲を呼び、荒れ狂い、山々に嵐と雷を起こした。
本当の雷神となった。
見境もなくなり、山々は大嵐が続いた。
そしてこともあろうに、あのチャスカの花の原に吹き荒れ、雷を落とし、全てを焼き尽くしてしまったのだ。
我に返った私は、無残に焼き尽くされたチャスカの原を見て、自分の手でミカイを殺してしまったのだと思った。
そして、山々を渡って荒れ狂い、消えていった。
何故、あんなことをしたのか。君に謝る術もない……。情けない……』
ユタの心を縛っていた一番の罪悪感を、押し込んでいた罪悪感を、彼は思い出して苦しんでいたのだ。
あの夢の、山の中で嵐が吹き荒れていた光景は、変わり果てたユタが引き起こしたものだったのだ。
ユタの心は、ミカイが知る以上に激しい苦悩を抱えていた。
しばらく経って、私の中のミカイは答えた。
『チャスカの花は、高山の強い風にも負けず、水の少ない硬い岩場にもしっかりと根を張る強い花よ。そんなことで全て枯れたりしない。
きっと燃え残った根から新しい芽を出し、長い年月をかけて前よりもずっときれいに、沢山の花を咲かせているわ』
(ミカイの私)が最後に見た、かつては天国のように美しかった花園に朽木の転がる無残な光景。雑草の生い茂るわびしい荒れ野。
彼はその後そこに雷を落とし、下の方に密かに息づいていたチャスカの花を復活させたに違いない。そう信じた。
そして、ユタの心が少しでも癒される事を祈った。
チャスカの花が何の花なのか、今は知る術もない。どんなに調べても、遠い記憶にだけ残るその花を見つけることはできなかった。でも五百年以上の時をかけて今、アンデスの山奥に一面に咲き誇る、美しいオレンジの花の群れが目に浮かぶ。
私の中のミカイは続けた。
『ねえ、ユタ。私、気付いたわ。
私たちは長い時間をかけて、自分たちが望んでいた世界に来たのよ。
あのときの私は自分の住んでいるところとは違う世界を見てみたかった。ここがまさにそうなのよ。
太陽は北を通らずに南を通り、北は寒く南は暖かい。湖よりもずっと大きな海というものがあって、街はまるで理想郷のようににぎやかで美しい。
何よりもユタ。太陽の祭りがある六の月は、この国では太陽ではなく雷と雨が支配しているの。そして沢山の恵みをもたらして、やがて大きく熱い太陽を招くのよ。
そして、あなたが望んでいた戦争のない世界でもあるのよ。
大地はひとつにつながって、いろんな世界のことを知ることも見ることもできる。
こうして、離れていてもあなたと言葉が交わせるの……』
ミカイの大胆な発想に、それを言った私自身が驚いている。
『……ミカイ。君の考えにはいつも驚かされるよ。
本当だ。
苦しかったけど、やっと辿り着いたんだ。二人で望んでいた世界に来たんだね……』
ふぅっと安堵のため息をもらすと、彼の中のユタは最後に小さな声で囁いた。
「トゥクイソンコイワン ムナクイキ、ミカイ」
(心の底から愛しているよ、ミカイ)
私たちは三年生になった。
私はバスケ部の部長となり、全国大会にチームを率いて出場した後、引退した。
「花岡、進路はきまったか?」
最後まで迷っていた私に、先生は何度も面談を設けて訊いた。
「私、決めました。(考古学)を勉強できる大学を受験します。」
「こう、こがく……?」
一年生をもう一度やり直したにも関わらず、バスケに明け暮れ、ろくろく勉強もしていないような私の口から、意外な言葉を聞いて先生は驚いた顔をしていた。
由隆はほとんど無名だったわが校のラグビー部を全国で名前を知られるようになるまでに押し上げた。
彼には多数の企業や大学からスカウトの声がかかっていた。
由隆ももちろん東京で進学するのだと思っていた。
「決めたの?進路」
「ああ」
「どこ?Y大のラグビー部の推薦?」
「いや。前から考えていたんだけど、将来は故郷の島に帰って自然の研究をしたいんだ。そのために鹿児島の大学で生物について学ぶことにした」
私は大きなハンマーで殴られたような気がした。由隆はこれからも当然近くにいるものだと勝手に思っていたから……。
私たちの進路はまったく違う方向を向いていた。そして彼は遠く離れていってしまう。
実は、私が十九歳の誕生日を迎えたあと、また鮮明な夢を見たのだ。
それはミカイが命を落とした後のことだったのだ。
――ミカイが滑り落ちた後、近くのアイユの住民がミカイの亡骸を見つけた。ミカイはまるで眠っているようにきれいな顔をしていたので、そのアイユの人々がぞくぞくと集まってきて、口々に言った。
「これは女神だ。天から降ってきた女神だよ」
「そうだ。我々のアイユを救ってくれるだろうよ」
村人は、ミカイの亡骸を、彼らのアイユを見下ろす一番美しい場所に葬って、アイユの守り神として崇め続けた――
そして、その夢を見たあとぴったりと、ミカイの想いや、ユタに対する強烈な思慕が浮かばなくなっていたのだ。そして例の夢も見なくなった。
思ったのだが、彼女はおそらく十九で命を落としたのだろう。だからそれは、『私はもう大丈夫よ』という、彼女からのメッセージだったのかもしれない。
それなのに、私は(彼)が離れて行ってしまうことに寂しさを感じている。その寂しさは(ミカイ)ではなく、(小町)の寂しさだ。
やがて、ふたりはそれぞれの決めた進路へ向かう切符を手にした。
彼が鹿児島へと発つ日、私は空港まで見送りに行った。
飛行機の出る時間までなぜか話すことが見つからず、しばらくだまって並んで座っていたが、私は思いきって気になっていることを聞いてみた。
「ねえ……。まだ、あの夢を見る?」
「ああ、時々」
「じゃあ、ミカイのことも思い出す?」
「ああ」
彼はまだ過去と現実の狭間にいるのだろう。そして彼が想っているのは私の中の(ミカイ)だけなのかもしれない。
ユタが亡くなった歳は、いくつだったのだろう……。
その歳を迎えたら、彼も私のようにユタの記憶が遠のいていくのかもしれない。
その時、宮 由隆というこの人は、私を花岡小町として思い出してくれるのだろうか?それとも忘れてしまうのだろうか?
そう、私の中では分かっていた。十九歳のあの夢を見た後も彼を慕う気持ちは消えなかった。それはユタに対してではなく、由隆に向いていたのだと。
搭乗案内のアナウンスが流れ、由隆がゆっくり立ち上がってナップザックを背負った。
私たちはそれぞれの道に向かって歩き出す。
「由隆……」
「何?」
(ユタの記憶が消えたら、小町として私を見てくれる?)
出かかった言葉を飲み込む。それはきっと今の由隆には分からないだろう。
「ううん。体に気をつけてね」
「うん。小町も元気でな。……そうだ……」
突然思い出したように、由隆がジーンズのポケットの中から組みひもの束のようなものを取り出し、私の手に握らせた。
「これ、夢に出てきたユタの最期のメッセージなんだ。これを持っていてくれないか」
広げてみるとそれは、様々な色の組み紐を結び合わせた暖簾のようなものだった。
「これは、もしかして縄文字?」
「そう。カパックの……ユタの遺書のようなものなんだ。彼は命が尽きる前、自分の服の糸をほどいてひたすらこれを綴っていた。その場面を何度も何度も夢に見るんだ。そのときの彼はただただ無心で、本当の意味がよく分からない。でもきっと大事な何かを伝えたかったのだろうと思って、少しずつ再現していたんだ」
「でも私、縄文字はユタから教わった一文しかわからないよ。それすら、今はもうあやふやだし……」
「小町はそれをこれから勉強するんだろ。あの夢を見なくなったら、俺はきっと忘れてしまう。だから小町が勉強してそのメッセージを正確に読み解いてほしいんだ」
「わかった。頑張って勉強するよ」
「頼む」
由隆は微笑んで頷くと、まっすぐにゲートに向かっていった。ゲートの向こうにその姿が消える瞬間、彼がこちらを振り向いて大きく手を振った。
緋の谷からクスコへと帰る、ユタがそうしたように……。
私も、彼も、新しい道を歩み始めた。
自分の周りの自然を愛するユタと、世界の知らない場所に憧れを抱くミカイ。彼と私は、そんな二人の望む方向に似た道を進んでいく。
由隆が最後の夢を見るとき、きっと思い出すのだろう。
イリャパとなって嵐を起こした彼は、北方の乾いた土地に雨を降らせ、多くの人を救ったということを。そして自分の思いが達成できたことに安心したユタは、彼の心から離れていくのだろう。
もしかしたら縄文字には、彼自身へのメッセージも綴られているかもしれない。
昔々、人は出来ない事を夢に見て、少しずつ少しずつ可能にしていった。
今も人の飽くなき願望は、次のまたその次を夢に見る。積み重ねられた歴史の長い長い夢の上にまた夢をみる。
数知れない人たちの人生の上で、今の私たちの人生が続いている。
その片隅にミカイとユタの世界があり、もう片隅に私と彼の世界がある。
今、私は思う。
ユタとミカイ、あなたたちの世界を知ることができてよかった……と。