憧憬(1)
「……で?」
睨みつけるような顔でさゆりが私に問う。私が「何が?」という顔をしていると厳しい口調で言った。
「で、小町はそのままで何とも思わないわけ?」
「うん。別に何も」
あっけらかんとして言うと、さゆりは額に手を当てて、あーあという声が聞こえそうなほど呆れた顔をした。
「ばかじゃない!ふたりとも。お互い嫌いじゃないなら何でちゃんとしないのよ!」
「そういうもの?」
「そういうもの!」
何でさゆりがムキになっているのだろう。私はその姿が滑稽に思えて、つい笑みを浮かべてしまった。さゆりの顔がますますこわばる。
「いたっ!」
突然背中をパンと叩かれて振り向くと、由隆が友達と通り過ぎるところだった。
「男子便所の前で何真剣に相談してるんだよ。入ろうかどうかって迷ってるのか?」
由隆の言葉で彼の友達がゲラゲラと笑い出した。
歩きながら話していた私とさゆりは話が佳境になって思わず立ち止まった。人気のない渡り廊下にいたはずのなのに、由隆の言葉で気付くと男子トイレのまん前だった。
「宮くん!」
さゆりが叫ぶと、由隆は「おお、こわ。宝生先輩、すいませーん」とおどけてそのまま逃げるように立ち去ってしまった。
さゆりは違う理由で由隆を呼び止めたのだ。由隆が立ち止まらなくて良かった、と私は胸をなでおろしていた。
あの転落事故から半年が経っていた。
お互いが、過去に同じ世界に生きていた恋人同士であったことを確かめたあと、由隆の容態は医者が驚くほど急速に安定していった。由隆の症状はあの辛い前世を思い出したことが原因だったのかもしれない。
私の怪我と由隆の体調は少しずつ回復し、ふたりともようやく退院できたのは二ヶ月と少し経った頃だった。もう二学期は終わっており、その間の勉強の遅れを取り戻すのは難しいということで、私たちはもう一度一年生をやり直さなくてはいけなかった。
学校側は遅れた分の学習を責任を持ってフォローしていくという形で事故の責任を取りたいと考えたらしい。親は納得したようだが、私は戸惑った。要するに落第ではないか。
しかし、由隆は前の学校から転校するまでのブランクと入院中のブランクがあったため、学校側の提案をふたつ返事で受けることにしたのだ。
はじめは抵抗のあった私も、仲間がいるのならと承諾した。確かに全教科の遅れを二年生の勉強をしながら取り戻すことなど不可能だったから、それを拒否したところで得することはない。
そんな経緯があって、私と由隆は一年生に戻って新学期を迎えたのだ。
思っていたより新しい生活は順調だった。
由隆は転入してきた頃とはまったく違い、たくさんの友達に囲まれていつも笑っていた。それどころか、どこへ行っても人気者だ。
私は由隆がいることで安心して過ごしていた。同じ『タメ組』であって、共通の過去の夢を見るもの同士、自然と一緒にいることが多く、いつのまにかふたりは公認のカップルとして学校中に知れ渡っていたのだ。
しかし私たちは親友だった。恋愛感情があるのかないのかさえ分からなかった。お互いに未だ過去の世界がリアルに蘇ってくるため、その記憶を整理することに忙しかった。過去の世界に押し流されないため、お互いに支えあっていたのだ。
面倒なので私たちは噂を否定しなかった。そんな複雑な事情など誰にも理解できないだろう。しかしさゆりにだけは彼とは友達として付き合っていると打ち明けたのだ。
「だって嫌いじゃないんでしょ。そんな中途半端なままじゃ、卒業したらそれっきりになっちゃうよ」
さゆりはこの春、付き合っていた先輩が卒業し、ほとんど会えなくなってしまったと嘆いていた。その寂しさと苛立ちを私に訴えたいのだろうと思った。
「恋愛感情はないんだし、そのときはそのとき。でも面倒なことになるから、この話はほかの人には内緒だよ」
「分かっているわよ。宮くんに熱を上げている女子は、いっぱいいるんだから。これが知れたら、皆競って告ろうとするでしょうよ。そのほうが小町にも危機感が出ていいかな?」
「ない、ない」
私は笑った。このとき、さゆりの忠告を軽く受け流したことを後になって後悔するとは思ってもみなかった。
私は、バスケ部では一年生なのに先輩というおかしな立場でありながら、遅れた半年を取り戻そうと張り切って活動していた。
由隆は、退院後ようやく医者から許可が出て、新学期から新入部員としてラグビー部に入った。由隆から、前の学校でラグビーに打ち込んでいたと聞いていたが、ここでもその腕前が発揮され、早速レギュラーとして活躍することになった。今までほとんど試合に勝てたことのなかったわが校のラグビー部が、由隆のお陰で好成績を残すようになった。
ある日、練習を終えて体育館を出ると、グランドではまだラグビー部が練習をしていた。
体の大きい部員が多い中で、線の細い由隆の姿がかえって目立つ。ボールを抱えた由隆は大柄な部員のタックルをつぎつぎとかわして、まっすぐにゴールに向かっていった。
ユタの機敏な行動と力強さが彼の中にまだ生きている。ふとそんな考えが浮かんだ。
「この間の練習試合で俺、ひとりで三つもトライを決めたんだぜ!小町にも見せてやりたかったよな」
帰り道で並んで歩きながらおもむろに由隆が自慢話を始める。こういうところは全然ユタとは違う。
「へえ、やるじゃない! でも私だってこの間の試合でスリーポイントシュート決めたんだからネ」
意地になる私も私だ。
「やるな。よし。お互い最高何点取れるか、これから賭けをするか!」
「なにそれ。くだらないこと考えないで、チームワークを大切にしなよ」
「そりゃもちろん。でもさ、ここぞという場面で自分が目立ってやるんだと思う気持ちが実力にも表れるんだぞ」
「へへー。確かにそれはあるかもね……」
私は、ミカイとは似ても似つかない短く刈り上げたうなじに手をやって笑った。由隆が「ほら、みろ」と言って指で私の額を小突く。
私たちはやっぱり悪友同士だ。私はさゆりの忠告を思い出して心の中で苦笑いした。
「そうそう。昨日ね、肉じゃが作ったんだ。おいしいって家族に大評判だったよ」
「小町が、か?」
「何? その顔! 私だって料理できるんだからね。今度作って持ってきてあげるわよ!」
「おう。厳しく採点してやるよ」
「まかせなさい!」
そういえば……と言いながら、段々と私の脳裏にあの夢の美しい自然の光景が蘇ってくる。
「(じゃがいも)って、確か南米が原産なんだよ。あの国ではちょっと違う形と色だったけど、あれが今の(じゃがいも)の先祖なんだ……」
(あの夢の世界が現実だとしたら、いったい、いつ、どこの場所の出来事だろうか……)
ずっとそう気にかけていたとき、私は図書室で何気なく手に取った写真集に、あの夢の風景とそっくりの遺跡の写真を見つけたのだ。
遥かに続く山脈、果てしなく広い高原、吸い込まれそうに蒼い空。その前にひっそりと佇む石積みの遺跡……。
夢の風景とそっくりのその遺跡は、五百年以上前に栄えた『インカ帝国』のものだと分かった。あの夢の中のスーユとは、のちにインカ帝国と呼ばれた国だった。それを由隆にも教えていたのだ。
「へえ。そうなの」
由隆の頭の中にも、日本の(じゃがいも)と似ても似つかない(じゃがいも)が想像できていると思うと、ちょっと面白い。
「ねえ、あのとき作っていた物を今でも食べていると思うと不思議じゃない?」
「そうだね……」
私はまるで自分の出生を探るような気持ちで、ときどき図書室でインカ帝国について書かれた本を読んで勉強していた。
―― インカ帝国は、パチャクティ皇帝の時代に拡大され、
次期皇帝トゥパック・インカ・ユパンキとその息子の二代で、
国土が爆発的に広がっていく。
南米大陸の北部の赤道付近から、南端におよぶ南北四千キロメートル。
多くの異民族を抱える大連邦国家となった。
すべての民に豊かな暮らしをもたらすことを約束して
発展したインカ帝国だったが、
国が大きくなるにつれ、その信念は揺らいでいく。
民族の不満が募りはじめ、各地で反乱が相次ぐ。
さらに皇族同士で後継者をめぐる激しい争いが起こる。
そして国が混乱に陥っているとき、
海の向こうから黄金を求めてやってきたスペインの征服者によって、
インカ帝国は滅ぼされてしまう ――
―― スペインの征服後、彼らに発見されたパチャクティ皇帝のミイラには、
雷神の像が一緒に祀られていた ――
ユタやミカイが生きた時代のことはまだ謎が多い。
ただ、彼らの作っていた作物が当時のヨーロッパに大きな利益を与え、世界に広がり、現在の私たちの生活の中でも大きく活躍していることは確かなことなのだ。
(大地はひとつ。すべてに豊かな実りを……)
ユタの、カパックの思いは、そういう意味では実現したといえるのだろうか……?
図書室の大きな窓の向こうに広がる空を眺めながら、ふとそんなことを考えた。
後ろからポンと肩を叩かれた。振り向くと由隆が立っていた。
「お前、またこんな本読んでるのか?」
由隆は私の手から本を取り上げて、ペラペラと振ってからかった。
「興味ないの?自分が前に生きていた世界のこと」
「別に……」
由隆は自分からはほとんどあの夢のことは話さないし、知ろうという気もないようだ。
ユタと自分とは全く違うと割り切れるのだろうか?それとも、思い出すのがあまりにも辛くて思い出さないようにしているのだろうか?
おそらくユタはミカイの何倍もあの世界で苦しんでいただろう。ひたすら国のために働いて、国に裏切られ、よりどころの無くなった彼の最期の希望がミカイだった。
それだからこそ、『ミカイに逢う』という目的を果たしたら、ほかの出来事は思い出したくないのかもしれない。
なんとなく寂しい思いで、隣にどかっと座ってスポーツ関係の本を読み始めた由隆を見つめていた。