果ての夢(2)
事故のあと何日か、いろいろな検査や治療が続き、面会ができない状態が続いた。
動かない体の苦痛と、淡々と繰り返される検査や治療。しかしその時間は私を変な夢の余韻から現実へと戻してくれる。
夜になればまたあの夢を見て、私は切ない想いにかられるのだ。
どこからどこまでが、現実なのだろう。
夢だと分かってもなお、私はそんなことを考えていた。その空想が今度は逆に、体に走る痛みから逃げるための手段でもあったのかもしれない。
否が応にもベッドに張り付いていなくてはならないその期間のうちに、すべての記憶を整理してしまおうと、私は必死になっていた。
ある日ふと、幼いときのことを思い出し、この夢が随分幼いころに見た覚えがあるということに気付いた。あの爽快な風景の中で、幼い私は笑いながら走りまわっていた。その夢が楽しくて楽しくて、そして懐かしくて、その夢の中に入って暮らしてみたいとまで思ったことがあった。しかし、それを不気味だと感じた母が、催眠術師に頼んで無理やり封印させたのだ。
いまになって一気にそのときの記憶が蘇ってきた。
「私は確かにあの世界に生きていた!」
数日後、ようやく面会ができるようになった。
待ち構えていたように、校長や教頭、指導主任や主だった先生たちが謝罪に現れた。
過去の記憶を取り戻すことに夢中だった私は、大変な事故に遭い、体が不自由なことなどすっかり意識になかったので、逆に面食らってしまった。
私にとって、事故よりも衝撃的なことは、突然前世の記憶がはっきりとした形で蘇ってしまったことなのだ。
人は誰でも前世を持っているのかもしれない。でも忘れているから今の生活を気兼ねなく愉しむことができるのだ。もし、前の人生の苦しいこと、辛いことまで忘れることができないでいたら、こんな苦しいことはないだろう。
私は、意図せずに開けたパンドラの箱から飛び出したあの哀しい経験と向き合わなくてはいけないのだ。そしてその辛さは誰とも共有できないのだ。
そう、あの事故のせいで。
自分の不注意で招いた事故でありながら、持って行きようのない怒りを私はそのとき先生たちに向けていた。
またさらに数日後、友達が大きな折り鶴の束と花を持って見舞いにきてくれた。
身体の痛みと戦い、ひとりでぐるぐると思考を巡らせて過去を振り返る生活から、ようやく本来の高校生の自分に戻ることができたように感じた。
「良かったー、小町。無事で……」
さゆりが私の顔を見るなり目を潤ませた。
「学校はどう?」
「うん。まあ、事故の責任とか、先生たちの間ではいろいろと大変だったらしいけど、皆は相変わらずよ。とにかく、早く小町と宮君が元気になってくれるようにって、皆、それだけを心配しているんだよ」
「宮君?」
「え? 小町、もしかして知らなかったの?」
さゆりは、はっとした顔をして黙り込んだ。さゆりの言葉の続きを隣の真美が継ぐ。
「小町は、そのまま落ちていたら岩に当たっていたかもしれないところを、一緒に落ちた宮君が抱えてくれたお陰で助かったんだっていう話だよ。
宮君は小町を助けようとして落ちたんじゃないかって……」
「真美!」
さゆりが険しい顔で制したので、真美が慌てて口を押さえ言葉を切った。
「…………宮君はどうなったの?」
私の困惑した表情を見て取って、さゆりが慌てて取り繕う。
「気にしなくていいよ。小町のせいじゃない。今は余計なことを考えないで治療に専念しなくちゃ」
「宮君の怪我はひどいの?」
さゆりの言葉を無視して私はふたたび聞いた。さゆりは仕方ないという顔でやっとそれに答える。
「怪我は……もう大丈夫だって。ただ……」
「ただ、何?」
友達は皆しばらく沈黙し、お互いに顔を見合っていたが、さゆりが心を決めたように一息ついて話し始めた。
「実は彼、心臓の持病があるみたいで、そっちの方が良くなくて面会できないの。転校してきたのもその関係だったらしいんだ」
さゆりが言うと、他の友達も口を挟んだ。
「私たち、そんなこととは知らずに酷いこと言っていたんだよね」
そこまで話すと、皆一様に重い表情になって押し黙ってしまった。
友達から『宮 由隆』についての話を聞いた途端、急に心がざわついてくるのを感じた
「でも、小町。お母さんはきっと小町に余計な心配をしてほしくなくて言わないんだよ。宮君の様子は私が知らせるから、小町は必要以上の心配をしちゃダメ。まず自分の身体のことを考えるんだよ。」
さゆりに強く言われて、私は逆らえない子どものように「はい」と返していた。しかし皆が帰ってから、その不安にも似た心のざわつきはどんどん増していった。
半月ほど経って、私の怪我は徐々に快方に向かっていた。
ときどき見舞いにやってくるさゆりが由隆の様子を伝えてくれるのだが、相変わらず一般の面会はできない状態だということだった。
そんなある日、見知らぬ女性が私の病室を訪ねてきた。
入り口で応対した母はひたすら恐縮しながら、娘もまだすっかり良いわけではないので、と言って何かを断ろうとしている。
「お母さん、どうしたの?」
私はゆっくり起き上がって病室の入り口を覗いた。母の向こうにはすらっと背の高い綺麗な女の人が立っている。彼女は私と目が合うと深々と頭を下げた。
母は渋々といった様子でその女性を部屋の中に案内した。
「小町、宮 由隆君のお姉さんよ」
「宮君の様子はどうなんですか?」
すかさずそう訊いた私に、母が驚いた顔を向ける。
「小町、知っていたの?」
「うん。友達から聞いていたの。
助けてもらったのに、お見舞いにも行けなくてごめんなさい」
「そんな、いいんですよ。お母さまがご心配されて、頻繁に様子を見にいらしてくださいましたから。私のほうこそ、まだお加減の悪い小町さんにご心配をおかけしてはいけないと分かっていながら……」
「宮君がどうかしたんですか?」
母が由隆のことを私に知らせたくないことは、由隆のお姉さんも知っていただろう。それなのにわざわざ訪ねてきたということは、よほど緊急の状態なのだろうか。私はお姉さんのほうに身体を乗り出して訊いていた。
「由隆が小町さんに会いたいと……。
事故後しばらく昏睡状態が続いて、目が覚めても意味のわからないうわごとを繰り返すばかりだったのですが、昨日、事故から初めてまともなことを口にしたので、つい……」
私の胸がまたざわざわと騒ぎ出した。慌てて母に言う。
「お母さん、私も話があるの。少しなら大丈夫でしょ? 宮君もそんなに長く話せないだろうし。顔を見るだけでも……」
どうしても彼に会って確かめなくてはいけない。そうしないと心のざわざわは治まりそうにない。
包帯だらけで自由にならない身体を、助けを借りてなんとか車椅子に押し込むと、お姉さんがそれを押して、彼のいる心臓外科の棟に案内してくれた。
由隆のいる集中治療室は宇宙船のコクピットを連想させた。たくさんの機械に囲まれた物々しいその部屋の中で、彼は体中にチューブやコードを巻きつけて眠っていた。その痛々しい姿に衝撃を受ける。母が会わせたくないと思う気持ちがよく分かった。
「ゆうちゃん、花岡さんが来てくださったわよ」
私の車椅子をぎりぎりまでベッドに近づけると、お姉さんは由隆に顔を近づけて優しく囁くように告げた。すると彼はうっすらと目を開けた。
私はできるだけ伸び上がって顔を由隆のほうに近づける。由隆がゆっくりと顔を横に向けて私の顔を確かめると、やがてほっとしたような笑顔を見せた。
「……姉さん、二人きりで話したい……」
酸素マスクの中でくぐもったような声がした。お姉さんは心配そうな顔をしながら病室を出て行った。
ふたりきりになったあと、しばらく黙って私の顔を見ていた彼がゆっくりと口を開く。そこから発せられたのは驚くべき言葉だった。
『……君は……ミカイなのか?』
マスクに塞がれているので、はっきりとは聞こえないが、それは確かにあの世界の言葉だ。あの夢の中の私が普通に話していた言葉。
私の中に押し込まれていた記憶が一気に溢れ出してくる。
今が現実なのか確かめようと、怪我をした腕を無理に上げようと力を入れると激痛が走った。これは紛れもない現実だ。前世であろう私の夢と同じ世界に生きていた人がここにいる。日本で生まれ育った私には分かるはずのない異国の言葉を、今、彼が言った(あたたかな地方の言葉)を、私はちゃんと理解できる。そして私にも話せるはずだ。
『そうよ。あなたはユタなのね』
私は夢の記憶をよび起こして、その異国語を口にしてみた。それを聞いて由隆は大きなため息をひとつつくと、吐き出すような声で言った。
『そうか…………やっぱり逢えたんだ…………良かった』
―― 会いにいかなくては…… ――
あの言葉に導かれるように、俺はここにやってきた。
でもその目的も曖昧になり、ただ惰性で時は流れていった。心は凍てつき、身体は日に日に弱っていく。
何故このようなことになったのか。一番輝いているはずの時が、何故こんなに辛くなくてはならないのか。そして、どうしてこんなに自分は弱いのか……。
そのとき、俺をこの卑屈な気持ちから解き放ってくれるような笑顔に出会った。疑うことも知らず、誰かを恨むこともなく。その笑顔の持ち主は眩しすぎるくらいに耀いていた。
しかし相変わらず俺の心は凍りついていて、それが俺の救いになるのだとは理解できなかった。過去の自分が自ら引き寄せた運命に気付きもせず。
過去の自分は必死になって、絆の糸を手繰り寄せた。
今気付かなければ、今逢わなければ・・・。
そして運命は危険を冒してまでふたりを引き合わせようとした。
俺がこの腕に抱えたのは、長い長い間探し続けた運命……。
彼女だけが俺の心を融かすことができる。
―― 会わなくては。彼女に会って確かめなければ ――
「……わよ……」
誰かに声を掛けられて、ふと現実の世界に戻ってくる。
「花岡さんが来てくださったわよ。」
その言葉で頭を横に向けると、日に焼けた小さな顔が覗いていた。大きな瞳が少し揺れて、俺の眼を覗き込んでいた。あの出会いは現実のものだったのか、ようやく確かめることができる。
『……君は……ミカイなのか?』
途端に彼女の顔から血の気が引いていくのが分かった。大きな瞳が震え、今にも涙が溢れそうになっている。
『そうよ。あなたはユタなのね?』
長い長い苦難の旅が、いまようやく終わった。