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風になって(2)



 緋の谷のアイユには好奇心旺盛な村人が何人かいて、皇子の出征に始まり、ワヌコの王女の到着、北方の大国から大勢の捕虜を率いて凱旋してきた軍隊の到着など、クスコで起こる事件の度に、どこからか情報を仕入れてきた。

 人々は面白半分にそのことを話し、時には大げさに伝えたりいろんな憶測をはさんだりして、事実とは全く違う話になっていることも少なくなかったが、そういう出来事があったことだけは確かで、みなクスコの異変に多かれ少なかれ不安を抱かずにはいられなかった。


 ミカイは努めて噂に耳を貸さないようにしていた。しかしミカイの強い意志も覆される噂が流れた。


「雷の力を使ってクスコを滅ぼそうと企んだカパック・ユパンキ将軍の一派が捕らえられ、クスコで処刑されるそうだ!」


 今まで関心を示さなかった村人までもがこの噂を囁きあった。

 ミカイは嘘だと思いたかった。そんなことがあるはずはない。何度も自分に言い聞かせるのだが、胸の鼓動は高まるばかりで何をやっても手につかなかった。


 何日か経って、「今日、刑が行われるそうだ」とアイユの多くのものがクスコへ出かけていった。

 ミカイは弟に、街へ向かう人と一緒にその様子を見てきてほしいと頼んだ。弟が帰ってきて「噂はまちがいだ。盗人の刑だったよ」と言ってくれる事を期待していたのだ。

 そして弟の帰りを今か今かと待っていた。


 弟は夕方戻ってきた。


「ただいま」


 ミカイは弟の方が向けずに、手を胸のところで握り締めてじっとしていた。

 弟と家族は無雑作に話し出した。


「どうだったの?」


 母親の問いに、弟はため息まじりに答える。


「あんなものは初めて見たが、もう二度と見たくないよ。

 刑の前に罪人たちが何かを訴えて微笑んでいたんだ。よく分からないけれど、自分たちのやったことは正しいとか言っていた」


 たまりかねてミカイが質問した。


「本当にカパック将軍の刑だったの? カパックさまはいたの?」


「ああ、たぶんね。処刑される六人の前に傷だらけの黄金の冠が置かれていたから……」


 ミカイは絶望した。

 せめて命だけでもあれば、ユタを想いながら暮らすこともできるだろう。しかしもうその望みは無くなったのだ。

 弟の見た冠は、クッチが北方から持ち帰ったカパックの形見だった。皇族の顔をよく知らない市民たちは、その冠があったことでカパックが処刑台にいたのだと思い込んでいたのだ。


 その夜ミカイは、意を決して両親に打ち明けることにした。

 食事の後、弟と妹を寝かしつけた母親と縄をなっている父親に声をかけて外に出た。


「父さん、母さん。ごめんなさい」


 唐突にミカイが謝るので、両親はびっくりして顔を見合わせた。


「私はアクリャになることはできない」


 うつむいて話すミカイの肩に父親が手をおいて優しく語りかけた。


「急にどうしたんだい? お前が望んでいたことではないのか?」


 ミカイは、自分がユタを忘れてはいなかったこと。ユタがカパック将軍であったこと。彼のために働きたくてアクリャになる決意をしたことを打ち明けた。

 両親は驚いて言葉を失った。


「彼は雷神に祝福を受けたと言って、左手に稲妻の形のあざを持っていた。

 でもあの人は、心から自然と人を大切にする人だった。

 雷神の印が私を苦しめるなら、その手を切り取ってもいいとまで言ったわ」


 ミカイの両親は、ミカイの苦しみが思っている以上に大きかったことに、今やっと気付いたのだった。

 母親が震える声で言った。


「ミカイ……。でも、もうカパックさまはいないのよ」


「いるわ。私には分かるの。あの山にいる。

 私は雷神の妻になることを心に誓っていたのに、それを隠して太陽の巫女になろうとした。だから罰がくだったのだわ。ごめんなさい。私が浅はかだった。でもいずれ宮殿に召される時が来て、それを断ったら家族が不幸になるわ」


 いったんアクリャに召されることが決まった者がそれを断われば、家族ごと処罰を受けることになるのだった。 

 ミカイは両親に深く頭を下げた。


「父さん、母さん。私は明日、山に登ります。私は山に薬草を探しに行って行方不明になったことにしてほしいの。そうすれば父さんも母さんも罰を受けなくて済むわ」


「そんな、ミカイ!」


 母親は必死でミカイにしがみつき、「行っちゃだめよ!」と言った。父親は黙ってじっとミカイを見つめていた。顔を上げたミカイの瞳にはもう悲哀の色はなく、穏やかでさえあった。

 父親はミカイの覚悟に気付いた。


「母さん、もうよしなさい。ミカイはここにいては苦しいだけなのだ。行かせてあげよう……」


 ミカイから母親を引き離そうとしたが、母親は狂ったようにしがみついて、「行かな

いで! ミカイ!」と繰り返すだけだった。


 朝、泣きつかれた母親がやっと眠ったところで、ミカイは簡単な支度を済ませると父親に挨拶をして家を出ていこうとした。

 父親はいったん呼び止めたが何も言葉にならず、しばらくミカイの顔を眺めていた。そして涙を流しながらやっとのことで口を開いた。


「ミカイ。人々の噂もやがてほとぼりが冷めてくるだろう。そうしたら必ず戻ってくるんだ。私たちは、お前を迎える準備をいつでもしているから」


「父さん……」


 ミカイは父親に抱きついた。そして「ごめんなさい。ごめんなさい」とずっと繰り返していた。父親は(悪くないよ)というように、優しくミカイの背中を撫で続けた。それからミカイは、寝ている小さな妹の方を向くと、父親に言った。


「もしこの子をアクリャにするなら、まだ恋を知らないうちに神殿にあげてやって。そうすれば向こうで幸せに暮らせるわ」

 


 山へ向かう前にミカイは大祖母に挨拶に行った。


「大祖母さま、お世話になりました。私は緋の谷を去ります」


 大祖母は固く閉じられた眼の奥からミカイの様子を覗っているように、しばらく沈黙していた。しかし、しばらく経ってミカイの心に大祖母の言葉が響いてきた。


『……ミカイ、お前は考えに考え抜いて決意したのだね。それならば私は何も言いはしない。

 ただ別れの前に、ひとつだけお前に教えておこう。

 これから先、お前とあのインカの御子の運命がほんの少しだけ触れ合うときが来るようじゃ……』


「大祖母さま、それは本当?」


 ミカイが眼を輝かせた。


『しかしな。その運命は気の遠くなるような時の果て。あの方もお前さえも、おそらく自分が誰であったかなど忘れているくらい先のことじゃ。期待するのは虚しいことかもしれぬぞ』


 ミカイはうつむいた。

 しかし、しばらくして決心したように顔を上げると、大祖母に言った。


「いいわ。それでも。きっと何かが私たちを導いてくれる」


 大祖母は、最後まで気丈な娘に感心するように言った。


『それでこそミカイじゃの。

 よいか。人の世はいつか大きく変わっていくものじゃ。しかし人の心の底はいつになっても変わらないものなのだよ。忘れないでおくれ』


「ええ。忘れないわ!」


 ミカイは笑顔で頷いた。


 その朝、ミカイはひとりで山へと姿を消して行った。

 




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