チャスカの花(3)
高い山の頂でふたりは静かな対戦を始めた。周りの兵士たちは、中心にいるふたりから大きく離れてその様子を見守った。
トゥパック皇子はカパック目がけて勢いよく走りこんでいった。皇子の斧がまっすぐにカパックを狙って振り下ろされる。カパックはそれをかわして皇子の背後に回り込む。素早く皇子も向き直ってカパックの攻撃をかわし、またカパックに向かっていく。
皇子は勢いがあるが、戦いなれたカパックの腕前にはまだ至らない。しかし何度かわされても皇子はまっすぐにカパックに向かってきた。
『兄さま! まだまだ!』
がむしゃらに斧を振り回して突進してくる幼いトパ皇子の姿が浮かび、カパックの心が痛んだ。
何度も何度も攻撃を仕掛ける皇子と、それを巧みにかわすカパック。
周りの兵士たちが固唾を呑んで見守るなか、二人の押しつ押されつの戦いが続く。どちらともつかない戦いは永遠に続くかと思われた。
しかし戦いが進むにつれて、皇子の動きはどんどん素早くなっていった。これまでの過酷な旅の疲れからか、逆にカパックの方が皇子の勢いに押され気味になってきた。皇子の斧をかわすとき、足がもつれてよろめくこともあった。
その時突然、斧を持つカパックの左手が疼きだした。
実はクイスマングとの戦いの後、女戦士の傷つけたカパックの右腕は、今ではほとんど力が入らなくなっていたのだ。そこでもっぱら左手を使っていた。しかしその疼きは、左手がイリャパの爆発的な力を発しようとする予兆だ。大勢のワヌコ軍を一度に岩の下敷きにしたあの力だ。
気付くが早いかカパックの左手は、ものすごい速さで皇子の隙をつくように斧を振りはじめた。皇子は突然勢いを増したカパックの攻撃に圧倒され、よろめいた。皇子はカパックの攻撃をかわすのに精一杯になった。しかし人間離れしたその力にはとても太刀打ちできなかった。
(いけない! この左手の力は皇子を殺してしまう!)
カパックは自分の意に反して野獣のごとく皇子に襲いかかろうとする左手を渾身の力で抑え込む。そして皇子から一歩身を引くと、右手で左手の斧を引き剥がすように奪い取った。
右手はもうほとんど動かない。
いったん後ろに引いたカパックに、皇子はまた襲い掛かってきた。ふたたび体勢が整うと、皇子の攻撃はまた勢いを増した。今度はカパックがその斧をかわすのに精一杯になった。動かない右手では皇子の斧を押し返すことも容易ではなかった。
徐々に徐々に、後ろへと押されていったカパックは、とうとう断崖の際に追い詰められていた。
断崖の際でかろうじて踏み留まっているカパックに、皇子は斧を振り下ろした。カパックは自分の斧でそれを受け止める。かち合う斧と斧の間に皇子の顔が覗く。
しかしその表情は悲哀を帯びていた。とどめを刺す段になって皇子の中に迷いが生じていたのだ。
カパックはその迷いを振り切らせるために、皇子を嘲笑うかのような表情を浮かべて声を張り上げた。
「我はスーユを滅ぼす、悪鬼なるぞ!」
斧を右手に持ち替えた時点でカパックは覚悟を決めていたのだ。
カパックの言葉で皇子はふたたび冷徹な表情に戻り、勢いよく斧を振り上げた。
「やあぁ!」
振り下ろされた皇子の斧がカパックの体を激しく打ちつけた。カパックは、崖っぷちに突き出した岩もろとも谷底へと転がり落ちていった。
皇子は崖の上からカパックが落ちていくさまを見下ろしていた。しかしその表情は次第にこわばっていった。
今自分と闘ったカパックは、最後の最後まで以前の優しい叔父とは何も変わらなかったのではないか。宮殿の合わせ稽古でトゥパックに勝たせるために最後にわざと力を抜く、あのときのカパックそのままではなかったか。
トゥパック皇子はまだ荒い息とともに、高鳴る胸の鼓動も抑えることができなかった。
―― そんな筈はない。自分は雷神に侵された叔父の命を解放するためにここへ赴き、そして戦ったのだ。疑いを持ってしまえば、クスコを旅立ったときの信念は揺らぎ、それどころか自分自身さえも信じられなくなる。最後に見せた邪悪な表情が今の彼の本当の姿なのだ ――
そう信じようとする一方で、心のどこかで何かが固く凍り付いていくのを感じていた。
カパックの落ちていった谷の奥を見つめたままトゥパック皇子は、しばらくの間、身動きできずにいた。
「皇子」
背後から、勝負の顛末を見届けたハトゥン、クッチ、ワラッカが声をかけてきた。混乱し、谷の底を呆然とみつめていた皇子は我に返った。
三人は崖の先に立つ皇子の後ろによろよろと進み出て、跪いた。
「わたくし共はカパックさまの思いに逆らう事はできません。この上はわたくし共を捕らえてクスコに送り、皇帝のもとで裁きを受けることをお赦しください」
アンコワリョたちが密林に消えるのを見届けた後、スンクハも三人の横にやって来て跪いた。
トゥパック皇子はすすり泣く四人に背を向けたまま、「分かった」と低くつぶやいた。
クッチはカパックが残していった黄金の冠を拾い上げると、「どうか、カパックさまの冠も一緒にクスコに帰ることをお赦しください」と皇子に頼んだ。
皇子は黙って頷いた。
クッチは冠を大事に胸に抱いて呟いた。
「カパックさま、一緒に帰りましょう」
傷だらけの黄金の冠が鈍い光を放った。
四人は山を降り、連行する兵士たちに連れられて、懐かしいクスコへの道を戻ることになった。
トゥパック皇子は、カパックの軍の兵士たちをクスコへと帰す手配をすると、自らの大軍を率いてティムー帝国へと渓谷の道を進んでいった。
山は、何事もなかったように、またもとの静寂を取り戻した。
滑り落ちたカパックは、そのまま息絶えたのか?
実は谷底に落ちてしばらく後、意識を取り戻していたのだ。
彼の体はもういつ果ててもおかしくないほどの状態だったのだが、その執念は例の岩山の頂上に咲くチャスカの花だけに向けられていた。右手で傷口を抑え、超人的な左手の力で岩山を登り始めた。彼はただ、チャスカの花の元に行くことだけを考えていた。左の手には血が滲み、つめもはがれかけるほどだったが、彼に与えられたイリャパの力は最後の最後に大きく味方した。
チャスカの花が見えた。ただ二輪だけ、静かに風に吹かれて揺れていた。
「ミカイ。会いにきたよ」
カパックは、チャスカの花が咲いている岩のわきの小さなくぼみに身をうずめると、そのままそっと目を閉じた。