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チャスカの花(2)



「……どういうことですか? トパさま……」


 カパックはことが飲み込めず、呆然とその場に立ち竦んでいた。

 頂上の兵士たちは皇子の言葉を聞いて、今までの騒ぎを止めて鎮まり返った。


 重たい沈黙が流れた。


「私はもうトパではない!皇帝の名代、トゥパック・インカ・ユパンキだ!

 皇帝の意志に背き、(よこし)まなる力でスーユをおびやかす雷神カパック・ユパンキを倒せというのが皇帝の命令! 先陣の軍隊はこのことを承諾し、我々に従うことを約束した。

 ここにいるカパック軍の兵士たちよ! 惑わされずに私の指示に従うのだ!」


 にわかには信じがたいが、その話を聞いた兵士たちはカパックに怖れを覚えずにはいられなかった。皆一斉に怯えた目でカパックを見つめ、じりじりと後ずさりし始めた。


「違う! 何かの間違いだ!」


 退く兵士たちとは逆行して、ハトゥン、クッチ、スンクハ、ワラッカは、カパックを庇うように彼を取り囲んだ。

 しかし真下にいるのは紛れもない皇子であり、後に続くのはスーユの大軍。これは冗談や夢ではない。そして同胞である以上、攻めることも退くこともできなかった。


「皇子、これはいったいどういうことなのですか。私がいつクスコに反旗を翻したというのですか。

 私はクスコの発展だけを考えて遠征し、戦ってきたのです。そしていま北方軍に打ち勝ち、いよいよティムーを手に入れる段になった。その私が何故謀反など考えましょうか」


「すべてはうぬの掌のあざが知っているだろう。うぬが(よこし)まなる力を持った雷神である証拠だ。

 南で命を落とした兄さまの身体に乗り移った悪鬼(スパーイ)よ!

 その強力な力でワヌコ軍を一網打尽にし、北方の国を次々に手に入れていった。しかし北方での成功は太陽の都を手に入れるための手段にすぎぬ。それを証拠にうぬは呪術でクスコの太陽神殿に雷を落として焼き、宣戦布告した。クスコに攻め込まれる前に、うぬを討つのがわが使命だ!」


 カパックは、トゥパック皇子の言葉を聞きながら、掌に爪が食い込むかと思うほどに強く左手を握り締めていた。

 カパックを見ると心から嬉しそうに飛びついてきたあの無邪気な皇子はそこにはいない。まるで皇子のほうが何かに取り憑かれているのではないかと思うほど、その表情は冷たく無機質だった。


〈…………スンクハ〉


 まだ呆然と皇子の方を向いたまま、カパックは傍らに立つスンクハに小声で呼びかけた。


〈誤解なのだろうが、どうやら何を弁解しても無駄のようだ。クスコは私を排除することを決定したのだ。私が抵抗すれば内乱になる。兵士たちを巻き込むわけにはいかない。皆、皇子に従うようにしてくれ。

 それからチャンカの兵士たちを逃がすように手配してくれ。彼らはきっと殺される〉


 スンクハは黙って小さく頷き、さりげなく後ろへと下がっていった。

 スンクハとの話を終えると、カパックは皇子に向かって声を張り上げた。


「皇子! 罪を問われているのは私ひとりなのですね」


「そうだ。目的はうぬを倒すことだ。スーユの兵士たちは騙されていたに過ぎない。私に同意する兵士たちは無事にクスコに帰してやろう。しかしうぬに加担するような気配が見られたらそれなりの処罰を与える」


「我々は!……」


 ワラッカが叫ぼうとしたとき、遮るようにカパックが怒鳴った。


「私はカパック・ユパンキ以外の何者でもない。一度たりも邪神にこの身を捧げたことなどない。しかしその言葉も疑わしいと思われるならば、そして私が抵抗することで無駄な争いを招くのであれば、この身を捧げよう。

 私を倒し、疑惑を晴らしたら、兵士たちを無事に都に帰してもらうようお願いする」


 その言葉を聞いてトゥパック皇子は、後ろの兵に待機するように合図すると、ひとりでカパックのところへと上ってきた。

 皇子は頂上に来ると、黙ってカパックの姿を見つめた。

 使命を受けたとき、皇子の脳裏にはイリャパの化身として怖ろしく変貌し、鬼のようになったカパックの姿が浮かんでいた。しかしそこにはクスコから出征していったときのままの懐かしい叔父の姿があった。今まで汚らわしい物を見るかのように鋭い視線を送っていた皇子の瞳がふいに緩んだ。


 皇子につき従う貴族の武将のひとりが皇子を追って後から頂上へ上ってきた。


「皇子、相手は雷の力を持っています。おひとりでは危険ですぞ」


「大丈夫だ。待機していろ」


 皇子は静かに告げると、カパックの方へ歩み寄った。


「たとえ雷神をその身に宿しているとしても、その身体は私の敬愛する叔父上だ。無様な姿にはしたくない……」






 その時スンクハは、アンコワリョとチャンカの兵士を集めて大岩の陰に連れてきた。

 スンクハは、チャンカの兵士たちそれぞれに目をやりながら淡々と言った。


「これは我々の内紛だ。

 そなたたちはよく働いてくれた。感謝している。このうえ我々の揉め事にまで翻弄されることはない。

 カパックさまはそなたたちにすぐに逃げるようにとおっしゃった。高原ではすぐに見つかってしまうだろう。

 アンコワリョ。一同を引き連れて密林へ下りるのだ」


 と東側の山すそに広がる青い樹海を指差した。


「私たちは最後までカパック殿とともに戦います」


 アンコワリョは納得できずにスンクハの腕をつかんだ。


「それはならない。

 カパックさまも我々も味方に(やいば)を向けるつもりはないのだ。覚悟は決めている。しかし、ここでそなたたちを無駄死にさせてしまったら、カパックさまは悲しむであろう。カパックさまの気持ちを思うなら、どうか逃げ延びてくれ!」


「スンクハ殿!」


「縁があったら、神の国でまた逢おう!」


 スンクハはにっこりと頷いて、「さあ! 行け!」と、まだ迷いの色を見せるアンコワリョの後押しをするように、強く背中を叩いた。

 アンコワリョはその言葉に従うしかなかった。唇を噛み締めつつ、チャンカの仲間を率いて黙々と山を下りて行った。





 トゥパック皇子がゆっくりと背中に携えていた斧を抜いて構えた。

 皇子はカパックと対等の立場で戦い、彼を倒そうと考えたのだ。

 カパックは稲妻の傷を呪うようにさらに強く拳を握り締めた。斧を構える皇子にすぐには応じることができず、しばらくその場に立ち尽くしていた。


(イリャパよ。あなたに祝福を受けたとき、すでに私は太陽(インティ)の臣下でいることはできなかったのか?

 何故このような使命を与えるのだ!)


 カパックに鋭い視線を投げかけている皇子の瞳を見つめていると、鋭い中にもわずかに悲しげな色が浮かんでいるのが分かった。それに気付いたカパックは、フッと表情を緩めると溜め息をひとつ吐いて静かに言った。


「皇子のお気持ちに感謝する。

 戦士として戦って散ることができるならば幸せだ」


 それは、たとえ敵になったとしても、以前兄弟のように慕っていたカパックに対するトゥパック皇子の精一杯の敬意だ。

 カパックも自分の斧を構えた。





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