チャスカの花(1)
勝利の喜びを味わうことはできなかった。
二大柱のひとつを失ったスーユ軍は、戦いには勝利したものの暗く沈んでいた。最も衝撃を受けているはずのカパックは、その気持ちを押し殺し、二つの軍をまとめて帰国の準備をしなくてはならなかった。カパックは、ワイナ将軍と犠牲になった兵士たちと、そして敵の兵士たちも、あの立派な砦に安置し、復活の祈りを捧げた。
ワヌコ王やほかの部族の戦士たちはそれぞれの地に帰っていき、スーユ軍は戦利品と捕虜たちを連れて、クスコへの帰途についた。
北方の地を後にする前にカパックには是非見ておきたいものがあった。そこで、戦利品と捕虜たちを連れた軍はワイナの側近たちに任せて先に進ませ、自らは四人の側近とともに、チャンカ兵と少数の軍を連れて別のルートで険しい山の上を目指した。
カパックは、高い山の頂から北方の様子を窺いたかったのだ。
「山頂まではもう少しだ」
下から見たときにもまるで垂直に切り立つように見えたのだ。そこを登っていくのは容易ではない。カパックは山肌にしがみつくように必死に登っている兵士たちを励ました。
ようやく山の頂上に辿り着いたとき、疲れきっていた兵士たちがその光景に思わず大歓声を上げた。頂上には、下から見上げたときの険しさなど嘘のように、広く平らな美しい緑の原が広がっていたのだ。
「神の国のようだ!」
兵士たちは今までの疲れを忘れ、広い頂で子供のようにはしゃぎ回った。
カパックは、山から見えるあらゆる光景をしっかりと目に焼き付けようとしていた。高い山の上からは様々に変化する北方の土地の様子が手に取るように分かる。
東から北にかけては、深い緑色をした密林が広がっており、その広大な森が覆いかぶさるように山裾をすっかり隠している。反転して山の西側に目をやると、高い山々と深い渓谷が折り重なるようにはるか向こうまで続いていく。
故郷のクスコの見慣れた風景は、山の稜線は穏やかに広がっている。しかしここの山々はどれも槍の穂先のように険しい。鋭い山の稜線が深く落ち込む谷の底に小さな集落が点のように見える。
(人間とはなんと小さな物なのだ。こんなにたくさんの世界を知らず、ほんの小さな場所を奪い合って、命を落としていくのだから)
遥かに連なる山々の隙間から、彼方に黒みがかった重たい雲の層が澱んでいるのがわずかに見えた。
「アンコワリョ、ティムーはあの辺りなのか?」
呼ばれてアンコワリョはカパックの傍に寄ってくると、手で日光を遮って目を細めた。
「おお、そうです。ティムーはあの黒雲の下あたりになります」
(あの雲の下で、多くの民が苦しんでいるのか……)
カパックは心が痛んだ。
(ティムーの民は今もあの雲の下で助けを求めているのだろう。いつか必ず救いに行くのだ)
カパックはその暗い雲をじっと見つめた。
つぎに、自分のいる山と並ぶように真横にそそりたつ峰の頂上近くに目をやったとき、カパックはあっと声を上げた。
目の前の峰はこことは違い、岩だらけのあまり草の生えていない禿山で、頂上も剣のように尖っている。しかしそれだからこそ、その小さい明るい色は、別の峰にいるカパックにもはっきりと見えたのだ。
岩場にくっきりと浮かびあがるオレンジ色の花。
「チャスカの花だ!」
カパックは思わず冠を脱ぎ捨て、崖のふちに走り寄った。そのふちにめいっぱい身を乗り出して腕を伸ばすと、チャスカは今にもその手に掴めそうに思えた。
「こんな北方に……」
谷から吹き上がってきた風にその花がかすかに揺れるのを目にしたとき、ふいにミカイの笑顔が思い浮かんだ。
「逢いたい……」
いままで使命に翻弄され、押し込んでいた想いがどんどん膨らんできた。 ミカイの顔や、仕草や、声が、カパックの脳裏にありありと蘇ってきた。
クスコに帰ったらミカイに逢いに行こう。今度こそ偽らずに彼女に逢いにいくのだ。そう決意する一方で、何故か切ない想いが溢れてくる。
いつしかカパックは唇を噛み締め、声を押し殺しながら泣いていた。涙は次々と溢れてきて地面をぐっしょりと濡らしていった。そしてそのまま断崖の先に崩れるようにうずくまると顔を地面に押し付けた。他の者に気付かれないように顔を隠すためだった。涙はあとからあとから、とどまることなく流れ続けた。
ミカイは機を織る手を止めて空を見上げた。
軒先から見える真っ青な空に一筋の雲が伸びている。その雲の先は遠く聳える万年雪の山頂へと続いていた。
あの山の向こう側にはユタがいる。ミカイはその雲を眺めながら胸に手を当ててユタの無事を祈る。
クスコで不吉な噂を聞いたあの日以来、北に向かう雲や鳥を見ると、仕事の手を休めてはそうすることがミカイの癖になっていた。
ミカイは待っていた。神殿に上がる日を。
たとえ会うことができなくても、ユタが身につける服を織り、口にする酒を作ることができる。そして毎日すべての民のために祈りを捧げる、ささやかでも幸せな日々を。
クスコに行った日、物騒な都の様子を見て、父親はアクリャになることを反対した。父親はミカイがすでに長老の前で決意していたことなど知らなかった。
そのときミカイが長老にアクリャを辞退することを話していれば、話は元に戻すことができただろう。しかしミカイはそれをしなかった。都で聞いた噂を本当のことだと信じたくなかったのだ。アクリャを辞退するということは、ユタが帰ってこない事を信じてしまうようなものだ。
気持ちが落ち着くと、ミカイは父親に明るく言った。
「都の人は本当に噂ばなしが好きなのよ。それも在り得ない話を作って脅かすのが。それを知っていながらうまく騙されてしまったわ。きっと北方の遠征を早く終わらせるために皇子さまが援軍に向かったのよ。軍が無事に帰ってくれば、都はまた平和になるわ」
そう言って笑いながらミカイ自身もそう信じようとしていたのだ。
それからしばらく経って長老が調査官に事を告げると、話は順調に進んでいった。
アクリャになる適齢期を少し過ぎていたミカイだったが、神殿からやってきた使者は、ミカイと彼女の作る織り物を見ると納得した。
不安を抱いていたミカイの両親は、アクリャの話が決まり輝いた表情を見せるようになった娘を見て、これで良かったのだと安堵した。
ミカイが神殿に『嫁ぐ』日が、刻一刻と近づいていたのだ。
―― きっとユタは帰ってくる ――
空に掛かる雲の帯を眺めながらミカイは、胸に置いた手の中にある小さなヒスイの石をぎゅっと握り締めた。
「カパックさま! あれは?」
ハトゥンが大声で叫んだ。
頂上の兵士たちは、カパックのいる側とは反対のふちにぞろぞろと集まっていく。そしてハトゥンの指差す自分たちが歩いてきた登山道の方を覗いた。
そこには麓からぞろぞろと上がってくる大勢のスーユの兵士たちが見えた。先に帰国の途についたカパックとワイナの軍ではない。クスコからやってきた新しい軍隊だ。
「クスコから援軍がやって来た!」
「何と、遅いではないか!」
そう言いながらも兵士たちは皆舞い上がって喜び、「おーい!」と叫んでおもいおもいに手を振った。
「カパックさま! なんと、今になって大勢の援軍がやってきましたぞ!
皇帝陛下はカパックさまに反対なさっていたのではなかったのですな!」
ハトゥンの嬉々とした声に我に返ったカパックは、涙と埃で汚れた顔をそっと拭いて立ち上がった。そして群がって歓喜している兵士たちの間に割って入り、崖下を見下ろした。
スーユの衣装に身を包んだ紛れもない同胞たちが下からぞくぞくと上ってくるではないか。ようやく自分の思いがクスコに通じたのだと思うと、嬉しさと安堵がこみ上げてきた。
その時、押しあがってくる眼下の兵士たちの間から、トパ皇子がゆっくりと姿を現した。カパックが遠征前に見た、まだあどけなさを残していた皇子は、すっかり凛々しく逞しく変わっていた。
「トパさま! とうとう遠征に出てこられたのですか!」
カパックは逞しい甥の姿を見て喜んだ。しかしトパ皇子は鋭い目つきでカパックを睨み、冷たく言い放った。
「われわれは加勢にきたのではない!
まず反逆者カパック・ユパンキを倒し、少しでも早くティムー帝国を制するためにやってきたのだ!」