大地の衝突(2)
夜が明け、空が明るくなった。
カパックたちのいた谷には人影はない。渓谷に設けられた石積みの壁だけが、沈黙したままそこに横たわっている。
高い山の上から遅い朝日がようやく顔を出し、防御壁に赤い光を照らしていく。日の光がその全貌を映し出すと、その巨大さが明らかになった。それは、ひとつの山にも匹敵する大きさだ。
はるか向こうから、ザワザワと大地を揺する音がしてきた。その音はスピードを増してどんどん近づいてくる。
ザクザク、ドシャドシャ、近づく度にその音は質を変え、谷の空気を異様に震わせていった。
渓谷は、北側で山の向こうに回りこんでいる。その山の陰から大勢の人影が現れ、渓谷沿いにまっすぐに進んできた。
ズシャンズシャン……。
渓谷全体が震えだす。
北方の連合軍だ。
多くの部族が参戦していることは、彼らの衣装やいでたちが様々であることから一目瞭然だ。粗末な貫頭衣や腰布だけで、顔や体に刺青を入れた戦士から、眩いばかりの黄金の甲冑を着けた戦士までいる。
彼らの手にする武器も、弓矢、吹き矢、長い矛や槍、金や銀で作られた斧、など実に様々だ。
勢いよく渓谷を前進する北方軍の先陣は、眼前に立ち塞がる赤い壁を見つけて動きを止めた。停止した先陣の部隊に、続いてきた部隊がぶつかり、小さな混乱が波のように軍の後ろまで広がっていった。
そのとき、両側の崖から、一斉に大岩が転がってきて、大軍隊の中に容赦なく飛び込んでいった。整然と行進してきた軍隊は一気に統率を失い、右往左往する。
谷の騒乱の音にも負けないようなけたたましい雄叫びが響き、大岩の後を追うように、戦士が崖を駆け下りてくる。
アンコワリョとチャンカの戦士たちが、敵陣に飛び込んでいったのだ。アンコワリョたちは、それぞれの部族の長と思われる人物に狙いを定めて襲い掛かっていった。
チャンカ人の奇襲に続くように、敵陣の後ろからワイナの軍隊、そして前方の壁を乗り越えてカパックの軍隊が現れた。
敵の大軍は、スーユの軍隊に囲まれる形となった。
数が多ければ多いほど、人の密度によって動きが取れず、敵陣の混乱は大きかった。
中心にいるチャンカ人たちは、クイスマングの軍とティムーの軍、それぞれの首長の輿に焦点を当て彼らを分散させていき、前方のクイスマングをカパックの陣へ、後方のティムーをワイナの陣へと押しやっていった。
ワイナの軍は、ティムー軍を囲うような形で攻めていった。
しかしティムー軍は屈強な戦士ばかりだ。襲い掛かったワイナ軍の兵士の方が次々に倒されていく。ティムー軍はスーユの包囲網を破らんと猛烈な勢いで抵抗した。
ティムー軍はいとも容易くスーユ軍の壁をつき破ってしまいそうだ。そうなれば今度はティムーが猛反撃に出てくるだろう。ティムー兵たちを拡散させる前に王を捕らえなければならない。
部下たちが次々と倒されていく様に目をつむり、ワイナはただ一点、ティムー王の姿を追った。
そのとき、ティムー軍の群れを切り裂くようにアンコワリョとチャンカ人が加勢に現れた。
「ワイナ将軍、今こそティムー王の首を!」
混乱に乗じて、側近とともにティムー王に接近したワイナは、地面を蹴ってティムー王の輿に飛び乗った。そして短槍の切っ先を王の胸に向けた。
輿の上で槍を突きつけられた王は動じない。
ワイナが槍を振り上げた瞬間、ティムー王はワイナを矛で地面に叩き落とし、自らも地面に飛び降りた。
素早く起き上がったワイナに王が矛を振り上げて襲い掛かる。ワイナはその矛を短槍の柄で食い止めた。
ワイナとティムー王の一騎打ちは続く。ティムー王の黄金の冠と装飾がギラギラと眩しい光を放った。
ワイナはいったん王から身を引き、今度は短槍を短めに構えて、王に向かって全力で突進していった。
カパックは、クイスマングの大首長の輿を目指した。
数部族の首長たちを統括するその人物は、首長たちの中で唯一兵士たちの担ぐ輿に乗っている。彼は反り返るような姿勢で輿に乗ったまま、向かってくるカパックを蔑むように見下ろしている。カパックは斧を握る手にさらに力を込めて、輿に向かって一気に走りこんでいった。
そのとき、輿との間に疾風のごとく躍り出て、カパックに切りかかってきた戦士がいた。 戦士はカパックの肩を傷つけて走りぬけると、また身を翻してカパックに向かってきた。 振り向いたカパックの目に、向かってきた戦士の姿がはっきりと映った。
(女戦士……)
カパックが一瞬躊躇したとき、女戦士は斧を高々と振り上げてカパックの頭を狙った。
カパックは盾でそれを受け止めたが、女戦士は盾をも砕こうと、猛烈な力で何度も斧を振り下ろした。
顔全体に迷彩色の模様を描き、耳や顔に骨のピアスをはめ込んだ女は、明らかに北方の凶暴な戦士そのものだ。
しかし女戦士と分かった瞬間、カパックの中で悲運の母親ワコが重なってしまったのだ。
カパックは彼女の斧を押し返し反撃の態勢に入ったが、いつものような果敢な攻撃に出ることができない。
女戦士は相手の油断を見抜いて猛攻撃を始めた。女戦士の斧がカパックの体をかすめていく。それを素早くかわすものの、カパックは相手に斧を振り上げることができないでいた。容赦なく襲ってくる女戦士の斧はカパックの右腕を深く切りつけた。
(母の面影にとらわれてはなりませぬ!)
突然大祖母のあの言葉が蘇る。
そのとき、女戦士の斧はカパックの服を切り裂いた。懐に入れていたチャスカの押し花がぱらぱらと舞い散った。
「ミカイ!」
その瞬間、カパックの力が戻ってきた。
傷ついた右腕などものともせず、女戦士の斧を跳ね返し、自分の斧の背を女戦士の首筋に打ち込んだ。女戦士は気を失い、その場にドッと倒れた。
すぐに遠くへ逃げていったクイスマングの大首長の輿を追いかける。カパックと並んでスンクハとクッチも走る。向こう側から輿に追いついたハトゥンが、それを担ぐ兵士をなぎ倒し、輿が傾いた。
大首長はさっと輿から飛び降りると、槍を構えた。輿から降ろされた首長の周りを大勢のクイスマングの兵士たちが護衛しようと素早く取り囲む。
ワラッカの投石が護衛の兵士たちを襲う。勢いに乗じてスンクハとクッチがクイスマング陣に斬り込んでいった。
カパックは左手の盾を捨て、傷ついた右手からその手に斧を持ち替えた。すると、掌から肩にかけて熱い血潮が遡っていくような感覚を得た。そして燃えるように熱い血潮がカパックの体中に駆け巡った。
スンクハとクッチが拓いた敵陣の中を突っ切り、カパックは一気に大首長めがけて走りこんでいった。
土埃は、まだ辺りの景色を覆い隠すほど立ち込めている。
しかし谷はもうすっかり静まりかえっていた。
徐々に、薄黄色の乾いた霧が晴れてくると、スーユの兵士たちがかかんでいる姿がたくさん現れた。
兵士たちは、大勢の捕虜に縄をかけているところだった。彼らの周りには、敵の戦士たちと味方の戦士たちの骸が累々と横たわり、大地を覆っている。
カパックは防御壁の前に仁王立ちになり、無言で天を仰いでいた。
ところどころ切り裂かれた服にはおびただしい血の跡が染みつき、その手にはクイスマング王の首が握られている。
しかし今やカパックの心の中には、勝利の喜びよりも、説明のつかない虚しさが支配していた。
カパックはクイスマング王の首をそっとその防御壁の前に安置した。
カパック軍の向こう、まだ濃い黄土色の土埃が覆う方向から走ってくる人影がある。埃に反射する光の中を駆け抜けて、アンコワリョが姿を現した。
「カパック殿、ワイナ将軍が……」
カパックは、はっと我に返り、急いでアンコワリョの方へ走っていった。
アンコワリョが案内した場所には、ワイナ将軍が横たわっていた。
「ワイナ殿!」
「カパック、すまない。ティムー王を逃がしてしまった。逆に私はこのザマだ」
ワイナは胸から血を流しながら、虫の息で話す。
カパックがマントを裂いて血を抑えようとしたが、ワイナはその手を押し戻した。
「しかしこの首は相手に取らせなかったぞ。ティムー王は逃がしてしまったが彼も瀕死の重傷を負っている。残るティムー軍ももうわずかだ。
お前のほうはクイスマングに打ち勝ったようだな。この戦いはスーユの圧勝だ。
これからお前は軍を一度クスコに帰すのだ。この戦いの捕虜と戦利品を持って堂々と凱旋するがいい。皇帝はさぞお喜びになるだろう。そしてふたたび軍を立て直し、今度はまっすぐにティムーの首都に入城するのだ。今度こそティムーはスーユのものとなる」
ワイナは弱々しく腕を上げた。
カパックがその手を握ると、ワイナは最後の力を振り絞って、ゴツゴツとした黒い手でギュッと握り返してきた。
そのとき、数々の戦いを制してした勇者は、北の大地に散ったのだ。