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よみがえる夢 ~由隆~

前の『逃れられぬ夢』と今回の話の舞台は奄美の架空の島です。

台詞などにご当地の方言を活かしたかったのですが、

ご当地の方言があまりにも複雑で多様なので、標準語を使いました。

標準語での台詞に違和感があるかもしれませんが、ご容赦ください。

方言をご存知の方は変換して読んでみてください。


 あの男に確かに遇ったことがある。


 あれはまだ小学校の低学年だったと思う。

 何が原因だったかは忘れたが、父親に叱られて俺は家出をした。家出といっても、小さな島のこと。居所などすぐに知れてしまう。ただ家を飛び出して、付近の畑や野原をふらふらと歩き回っていただけだ。

 親もそんな俺の行動範囲などだいたい予測がつくのだろう。特に追いかけるでも探すでもなく気持ちがおさまって帰ってくるのを待っていた。


 だだっ広いさとうきび畑の中の一本道をひたすら歩き続けた。畑が途切れてもどうしても気持ちが晴れない。そのまま野原の中のけものみちを突き進んでいった。

 よく知っている場所をうろついているのはしゃくなので、わざと道を外れて背の高い(くさむら)の中に飛び込んだ。ほとんど俺の背丈と同じくらいの草の中を泳ぐように掻き分けながら、まったくどこへ出るのか分からないスリルに、怒りなど忘れて夢中になっていた。

 高い草の壁に囲まれ、ちょうど真上にだけ見える空は、いつの間にか赤く染まっている。

 ふと祖母の言葉が頭に浮かんだ。夕暮れの叢はハブが出るから気をつけろと……。

 急に心臓がどくどくと鳴って、早くこの叢から出なければと必死になって走り出した。


 無我夢中で走り出た叢の外れは、芝生のような草に青々と覆われた広大な平原だった。

 目の前を遮っていた草が急に無くなったので、勢い込んだ俺はその広い草野原に正面から思い切り転がってしまい、両膝と掌と顔を擦り剥いた。

 傷だらけの顔を上げると、草野原が途切れる先に水平線が見え、今まさに赤い太陽がそこに吸い込まれようとしていた。

 俺は沈んでいく太陽に導かれるように、痛む足を引き摺りながら海に突き出た断崖の先までやってくると、そこに膝を抱えて座った。

 海に沈む夕日など毎日と言っていいほど見ている。しかし迷い出たその平原の上から見る夕日はそれまで見ていたものとは全然違って見えたのだ。

 そのときは家出の原因も傷の痛みもすっかり忘れていて、島の友達も知らない秘密の場所を見つけたんだと、優越感にひたった。

 ふと、『自分だけの秘密の場所』にもうひとりいる気配を感じ、慌てて辺りを見回した。ひとりで宝物を見つけたはずなのに、それを誰かに見られていたとしたら、こんな悔しいことはない。


 俺の直感は正しかった。

 俺のいる断崖に並ぶように、少し離れたところにも同じような高さの断崖が海にせり出している。言い換えれば断崖の先は水平に続いているのではなく、ところどころが波に抉られて細かいギザギザになっているのだ。

 俺の立つ岬と並ぶように、すぐ脇にせり出した岬のその突端にひとりの男が立っていた。

 身体つきから男だと幼い俺にも分かったが、後ろに束ねた髪はかなり長く、強い潮風になびいていた。そのうえ奇妙なことに、まるで本島の民族資料館で見たような昔の島人(しまんちゅ)の格好をしている。

 縞模様の短い着物に、藁ぞうり。いまどき、祭りのときでさえ、そんな格好をする人はいないのに。

 この景色を使って何かの撮影をしているのかもしれないと思いついて、また辺りを大きく見回したが、男の周りにはカメラを回している人も監督もいなかった。


 そのとき、海を眺めていたその男が俺の視線に気付き、こちらを見た。鋭いが、どことなく優しそうな目で俺をじっと見ている。

 しかし、島の人も滅多に来ないこんな場所で、奇妙な格好でひとり立っているその男に警戒しないほうがおかしい。徐々に弱まっていく日の光の中で、こちらを見つめているその男が無償に怖くなった。


「ゆうれいだ……」


 思って逃げようとすると、急に手足の傷が疼き出した。走ることはできそうにない。下手に逃げてもすぐに追いつかれて捕まるだろう。そのときの俺の頭では、動かないでじっとしていれば、幽霊は何もせずに消えてくれると考えるのが精一杯だった。下手に視線を外すのも怖いので、俺とその男はしばらく見つめ合っていた。


 急にその男が後ろを向いて岬の突端から野原の方へと引き返した。

 ようやく幽霊の姿が消えると思うと、今まで張り詰めていた全身の力が抜けていった。完全に消えてしまうまで安心できず男の動きを目で追っていると、何と野原を回って今度は俺がいる岬にやってくるではないか。男が近づいてくると、今度は全身が金縛りにあったように身動きできなくなった。

 体育座りで顔だけを後ろに向けたまま、俺は固まっていた。


 空はもう薄闇に覆われている。

 子どもながらに、もう俺の人生はこれで終わるんだという覚悟をした。叱られたまま、両親にもう会えないんだと思うと、無償に悲しくなった。


 男は俺の前に来るとしばらく立ったままで俺を見下ろしていた。

 背が大きいので遠くから見たときにはおじさんだと思っていたが、顔を見るとお兄さんと呼べるくらいに若く見えた。

 髪の色も目の色も黒いが、日本人とは少し違う顔立ち。割合彫りの深い島の人間とも違う。幼い俺が見ても『かっこいい』と思うほど整った顔だった。

 しかしそれが余計に人間離れしていて、ますます幽霊に思えた。


 きっとあのとき俺は怯えきった顔で彼を見上げていただろう。それなのに俺をしばらく見つめたあと、彼は急に柔らかい笑顔を作った。突然くるりと後ろを向くと、俺に背中を向けてしゃがみこみ、手を背中に回してポンポンと叩いた。

 男は背中に乗れと言っているらしい。俺をおぶって送ってくれるつもりなのだろうか。

 幽霊の背中になんて乗れるはずがない。

 そう思っていながら、体は勝手に動いて男の背に手を伸ばしていた。


 すっかり暗闇に包まれた辺りは、月の明かりでようやく近場が見えるくらいだった。

 彼が幽霊だろうと、ここにひとりでいるよりはマシだ。俺は男の背中に抱きつくように身体を預けると、その首筋にしっかりと腕を巻きつけた。

 男は片手で首に回した俺の手をもち、もう片手で俺の尻を下から支えて、立ち上がった。

 男に背負われた俺の視界は一気に高くなり、今まで歩いてきた林のような叢もただの草原に見えた。


 幽霊だと思っていた男の背中は温かかった。

 彼が血の通った人間であると分かると、ようやく俺は安心した。

 可笑しな服装や、今は肩の前に垂らしている長い髪も、きっと何かのイベントがあって仮装しているのだろうと、子どもなりに都合よく考えた。

 彼にどんな事情があったとしても、今はこの人に助けてもらわなくてはいけないのだ。幽霊じゃないかぎり、そんな事情はどうでもいい。

 男の大きな背中に支えられている安心感と、男のゆっくりとした歩調に合わせて起こる心地よい振動で俺はいつの間にかうとうととしていた。

 うつらうつらと半分夢をみているような俺の耳に、男の背中を伝って声が聞こえてきた。低く落ち着いた感じの声だった。


「ここは、本当にのどかで美しいところだ。海があり、山も草原も緑豊かで、人々は自然に囲まれて素朴に暮らしている。ずっとこんな場所に憧れてきた。

 こんな場所に生まれて来て、幸せだな」


 最後の科白(せりふ)は、俺に向けられたものらしい。そんなニュアンスを感じ取って、俺は「うん」と大きく返事をした。

 しかしそれが最後の頑張りだった。その後俺は深い眠りに落ちていった。


 気付いたときは、自分の布団で朝を迎えていた。何事もなかったように母が起こしに来た。

 母は昨日のことなど全く気にしていないらしく、いつもどおりに布団を俺から引き剥がし、さっさと片付けてしまった。

 あの男が母にうまくとりなしてくれたのだろう。しかし何を言ったのかとても気になる。


 朝食の席で、俺は両親に訊いてみた。


「昨日、ぼくを家に連れてきてくれた人、なんて言ってた?」


 両親は驚いた顔で揃って俺を見て、それから黙って顔を見合わせた。

 父親が溜め息をついて話し始めた。


「お前はそこの植え込みの陰に隠れて寝ておった。

 自分でふてくされて家を出ていって、結局戻ってきて庭先で寝ていたんだろう。暢気な奴だ」


 父親は呆れ顔でそう言うと、また黙々と食事をし始めた。


 結局俺は、家出など大それたことができずに、庭の植え込みの下に隠れていた。

 そこに無理やり潜り込んだ時、手足と顔を擦り剥いた。

 その後そこで眠ってしまい、夢を見ていた。

 母親が気付いて、ぐっすり眠る俺を抱き上げて布団まで連れていき、傷口に消毒をして着替えさせたのだ。

 

 あの男は単なる夢だった。


 しかし、それから数日経って、俺は偶然あの男に会った場所を発見したのだ。

 背の高い叢の先に広がる緑の草野原。そしてその向こうにある海を見下ろす断崖。

 その場所は夢とまったく同じだった。


 それから大きくなるまで、俺は何か悩みがあるとひとりでその場所に行った。

  でも、あの男は二度と現れなかった。




 ―― あのおかしな格好をした男の夢を、再び見ることがあるとは思っていなかった。

   でもそれは確かな記憶となっていま、俺の中に蘇ろうとしている ――







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