伝わらない想い(2)
トゥパック皇子がクスコを出発する日、奇しくもワヌコの王女がクスコへと出発した。
アリン・ウマヨックとアティパイと数十人の兵士、それに王女の側仕えの女たちが、クスコまでつき従うことになった。
細かく編みこまれた長い黒髪には色鮮やかなインコの羽がいくつも差し込まれてふわふわと揺れる。小さく艶のある額や両頬にはワヌコの祝いの模様がカラフルに描かれている。華奢な身体には美しい織りの布を何重にも巻きつけ、細い頸には小さな宝石を数珠繋ぎにした首飾りを幾重にも巻いている。
まだ幼い少女は、晴れやかな旅立ちを表すためにワヌコの婚礼の盛装を施されていた。
王女とともに、北方の宝石や鳥の羽など、宮殿にある限りの宝飾がクスコへの贈り物として託された。
兵士たちの担ぐ輿に乗ろうとする王女を王妃はしばらく抱きしめて離さなかったが、王が説得して泣きながらその手を離した。王もじっと涙をこらえていた。
ワヌコの王女リワは、まだ幼いのに気丈で、別れる時にも両親の前でひとつも涙をこぼさなかった。
王と王妃に深々と頭を下げ、
「わたくしはこれからスーユの国の者として幸せに暮らす事ができるでしょう。育てていただいた父上と母上に感謝いたします」
と丁寧に挨拶をすると、ゆっくりと輿に上って大きめの椅子にすっぽりと身をうずめた。
ワヌコの市民たちは王女のこの凛とした姿にうたれ、すすり泣く声があちこちから聞こえてきた。
カパックもこの王女の堂々とした仕草に自分がなんと小さい心を持っていたのだろうと思わずにはいられなかった。
「しかと頼んだぞ。二人とも」
カパックは、アリン・ウマヨックとアティパイに言った。
「かしこまりました。お任せを!」
「出発!」
隊はゆっくりとワヌコを出て行った。
王も王妃も、王女の隊が遠く見えなくなるまでその方向をじっと見守っていた。
ワヌコの市民たちも小さな王女の姿が消えるまで敬意を示す格好を崩さなかった。
同じ時クスコでは、カパックが見送られた時のように、いやそれ以上に街の者や近隣のアイユの者が押し寄せて、トゥパック皇子の出征に歓喜の声を上げていた。
皇子の率いる軍はカパックとワイナの軍を合わせた数とほぼ同じだ。その大規模な軍隊がぞくぞくとクスコから出て郊外の丘の向こうまで列を成している。街の中心部を黄金の冠と黄金の飾りを身につけた皇子が通り過ぎるとき、群衆から大歓声が上がった。
いまやクスコの市民にとっては、トゥパック皇子がスーユを救う英雄であって、カパックはクスコを滅ぼす悪鬼のような存在としてイメージが固まっていた。それに後押しされるように、トゥパック皇子も『雷神とティムーを、スーユに跪かせるのだ』という決意を固くした。
宮殿で共に武術に励んだ優しい『兄』はすでにいない。カパックのことを思い出せば思い出すほど、その身体に巣食った悪魔を必ず倒さなくてはならないという使命に燃えた。
歓声に応えるように何度も勇ましく斧を振りかざして、皇子は興奮気味にクスコを出て行った。
王女の供をするアリン・ウマヨックとアティパイは、王女の様子を伺いながら、山道を慎重に進んで行った。
「ご気分はいかがですか?」
アリン・ウマヨックが輿に近づいてときどき声をかけるが、そのたびに王女はにっこりと微笑んで首を振り、「大丈夫です」と答えた。
アティパイがその様子に感心して、
「クスコの皇族方にもないような、優雅な姫君ですなあ」
とアリン・ウマヨックに耳打ちした。
北の砦では、早足の伝令で王女の到着を知らされていた兵士たちが、リワ王女をもてなすためにご馳走を用意して待っていた。カパックたちが最初に開拓したアイユの人々も、姫君を是非一度見ようと押しかけてきて、砦は大賑わいになった。王女を楽しませようと集まった人々が勝手に歌ったり踊ったりし始めて、いつのまにか、にぎやかな大宴会となった。
道中、滅多に口を利かなかった王女だが、この時は満面の笑顔になってアリン・ウマヨックに興奮気味に言った。
「こんな楽しい事は初めてです。きっとクスコはもっと素晴らしいところなのでしょうね?」
アリン・ウマヨックもにっこりとして言った。
「そうですよ。王女様。楽しみになさっていてくださいね」
リワ王女はアリン・ウマヨックの言葉にますます目を輝かせて、まだ見ぬクスコの街に憧れを抱いた。
リワ王女を守って進むアリン・ウマヨックたちの隊は、北の砦を出てクスコの領内を進んでいく。
クスコへは深い渓谷に沿った細い道を進んでいくしかない。したがって、当然途中でトゥパック皇子の大軍隊と出会うことになる。
その時がついに来た。
それは北の砦を出たアリン・ウマヨックたちが、両側に絶壁のそそり立つ狭い山道を慎重に進んでいたときだった。
アリン・ウマヨックもアティパイも、正面から向かってくる同胞の大軍隊に気付き、何か異変が起こったことを察して隊を止めた。
皇子の軍の先駆けの兵士たちが、アリン・ウマヨックらの姿を確認すると、槍を突きつけて何重にも彼らを取り囲んだ。身に付けているものが同じなのでスーユの者だとすぐに分かるはずなのに、槍を向けているのが何故なのか、アリン・ウマヨックたちには検討もつかなかった。
「これは一体どういうことだ? 我らは皇帝の命令に従ってワヌコの王女をクスコに送る途中だ! 道を開けよ!」
アリン・ウマヨックが叫んだ。
先陣を仕切る指揮官が、他の兵を掻き分けてアリン・ウマヨックの前に立った。
「ご苦労であった。カパック将軍の側近よ。ここで王女は我々がお引き受けする。しかしカパック・ユパンキ将軍とその側近には謀反の疑いがある。反逆者として捕らえ、クスコで裁判を行う」
アリン・ウマヨックは、あまりにも突然のことに呆然と立ち尽くした。
不安気な王女が皇子側の兵士に囲まれ、輿に乗せられたまま皇子の軍隊の後ろの方へと連れていかれた。リワ王女は何度も振り返り、自分の味方だと思っていた人たちが縛られていく様を、怯えた目つきで見ていた。
アティパイは、皇子の兵士たちに縛られながら思わず北の空に向かって大声で叫んでいた。その声はカパックに届くはずがないと分かっていても、そうせずにはいられなかった。
「カパックさまー。逃げろー」
アティパイの声は深い谷間に虚しくこだまするだけだった。
「水だ!」
ワヌコの街に水が流れた。
湖の石垣が取り払われ、堰き止めるものの無くなった水は、一斉に流れ出し、細かく造られた水路を伝って、多くの畑やため池にどんどんと広がっていった。
ワヌコの市民は皆、抱き合って歓声をあげ、王はカパックの手をしっかりと握り締めた。
ワヌコではその日、記念の祭りが開かれ、一晩中盛り上った。
クスコの兵士たちが必死になって調達した食糧のお蔭で、まだ貧しいながらも、もう飢えて衰弱している人はほとんどいなかった。
ワヌコの市民たちはカパックたちに感謝の気持ちを表すため、陽気に歌ったり踊ったりしてもてなした。
しかしそんな楽しいひと時も束の間だ。カパックの一行は次の朝早々には街を発たなければならない。
「もう少しゆっくりしていかれては?」
ワヌコの王は名残惜しそうに言った。
「いいえ。私たちは一刻も早くティムーへ向かわねばなりませんので」
「ティムーに行かれるのですか……。
ティムーはその昔大変栄華を極めた大国で、この国も盛んに交流しその恩恵を受けてきました。しかし私が王位に就いたときには内乱が続き、国は乱れていました。その後も衰退の一途をたどるのみ。さらに最近、嵐によって海の水が都を襲い、壊滅寸前だという話も聞き及んでおります。
干ばつや洪水……北方の国々は邪神に祟られているというようなことを説く呪術師もいるくらいです」
ティムーの嵐のことはこのワヌコにも届いていたのだった。
「我々はこのワヌコのようにティムーの民も救いたいと思っています。しかし、王はわれわれと同盟を組むことを拒んでいる。さらに肥沃な土地を求めて南下し、スーユの領土を脅かすかもしれない。もしこれ以上拒み続け、スーユを脅かすようであれば、この先で一戦を交えることになるかもしれません」
カパックが言うと、ワヌコの王は
「もしそのようなことになったときには、我々も残る兵力を集めてあなたたちに加勢いたしましょう」
と協力を申し出た。
ワヌコの王は満天の星空を見上げて言った。
「おそらく天は、何かの変化を私たちに教えているのでしょう……」
カパックはその変化が自分にも降りかかってこようとは、そのとき夢にも思わなかった。