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伝わらない想い(1)



 クスコの街では久々に盛大な祭りが催されていた。


 その数日前、スーユの男子が成人を迎えるための儀式ワラチコが行われたのだ。

 成人の儀式といっても単に大人になったことを祝う式典ではない。成人候補の少年たちは、足場の悪い険しい山を転げずに走り抜けなくてはならない。麓では少年の親族の男たちや屈強な兵士が武器を持って本気で少年たちに襲い掛かる。その過酷な試練に耐えたものだけが大人になることを赦されるのだ。

 ワラチコは毎年行われ多くの少年が参加するが、その年の儀式が大変盛り上がったのはパチャクティの第二皇子トパが参加するためだった。

 宮殿でも大変有能なと称されるトパは、その姿を見たことのないクスコの市民たちの間でも噂になっていた。そこで多くの者がこの機会にその勇姿を見ようと儀式の会場に集まったのだ。


 噂どおりの美しい容姿を持つトパは、その日の儀式ではどの少年よりも早く儀式に合格した。市民の多くが歓声を上げて皇子の合格を讃えた。

 見事に成人の儀を通過し、成人貴族の証である金板を耳に嵌め込んだトパに、皇帝は『トゥパック・インカ・ユパンキ』という新しい名を与えた。

 十六歳のトパは、この日立派な成人皇族になったのだ。

 もともと大人にも負けないほどの武術の腕前と知性を備えたトゥパックには、遅すぎるくらいであった。

 クスコでは、新しい青年皇子の誕生に連日祝いの祭りが催された。市民の心はすっかり若きインカに奪われていった。


 青年皇子の誕生を切に待ち望んでいた者がいる。太陽神殿の神官たちである。


「何事も順調ですな」


「これでクスコを揺るがす雷を追い払うための手筈が整った」


「しかし皇子をどうやって説得するのですか?

 さらに陛下は、まだ弟君への想いを捨てきれずにいらっしゃるようだ」


「将軍の裏切りを強く印象づける出来事でも起これば全てうまくいくのだが……」


 マス大神官は腕組みをして鋭い目つきで空を見上げた。

 


 どこから漏れ出すのだろうか、あるいは故意に拡げられたのであろうか。人の口に戸は立てられない。

 その後、カパックが雷神を味方につけて太陽の都クスコを襲うという噂が宮殿の貴族たちの間にひろまり、そのうちクスコの市民たちでさえその噂を知らないものはないほどになっていた。怯えた市民たちの間では、早く雷神を始末してほしいという話が盛んに飛び交っていた。


 そしてとうとう、マス大神官の思惑を実現させるような事が起こった。

 太陽の神殿に雷が落ちたのだ。

 神殿は全焼を免れたものの、藁葺きの屋根が焼け落ちて黒く焦げた壁だけが残る無残な姿となった。太陽を崇拝するクスコの民にとっては、世界の破滅を予感させるような恐ろしい出来事だった。

 神官たちに最も衝撃を与えたのは、正面に掲げられていた黄金の太陽神像が半分熔け、見る者を呪うかのような恐ろしい姿に成り果ててしまったことだ。

 神官たちも貴族たちも、一斉に宮殿へと押しかけて皇帝に訴えた。


「皇帝! これは、雷神の挑戦です!」


「もはや一刻の猶予も許されませんぞ!」


「今すぐトゥパック皇子に北の敵を倒していただきたい!」


 神官たちの『敵』という言葉に、皇帝は動揺の表情を見せた。

 隣に控えていたトゥパックは突然指名を受けて酷く驚いた顔になった。


「北の敵とは……」


 皇帝には、神官たちの『敵』という言葉が誰を指しているのかすぐに分かったのだが、認めたくない気持ちが言葉を濁らせた。


「もちろん、雷神に心を奪われた弟君、カパック・ユパンキ殿です!

 北方の国が雷神にひれ伏す前に、皇子のご出立をご決断ください」


「どういうことだ? 何故、兄さま……叔父上を倒さねばならないのだ!」


 トゥパックは興奮して神官のひとりに駆け寄ると、その胸倉を掴んだ。

 今にも神官の首を締め上げようかという皇子の腕を、マスが掴んで引き離した。その腕を掴んだまま、冷徹な表情で皇子を見た。


「カパックの噂を聞いたことがおありでしょう、皇子。あの噂のとおりです。

 将軍カパックはチャンカの呪術でもって雷神の魂を植えつけられてしまったのです。南から戻ってきた将軍が何やら様子がおかしかったこと、一番近くにいた皇子なら気付かないはずはないでしょう」


 もちろん噂は耳にしていた。そして叔父の名を穢すような風評を流した者たちに激しい憤りを感じていたのだ。

 しかし威圧的な大神官の目に射抜かれると、それが根拠のないただの噂ではないのではないかという不安が襲ってきた。

 トゥパックは焦って記憶を辿り始めた。すると、一度だけ稽古の最中にカパックに命を狙われたことに思い当たった。しかし自分を遠征に連れて行ってほしいと懇願したときには、カパックは心からクスコのことを案じ、自分に都を守ってほしいと誠実に頼んだのだ。


「叔父上はいつもと変わりありませんでした! そんな噂など信じることはできない!」


「本当にそうでしょうか? 

 相手も自分の素性をすべて晒してしまうほど間抜けなことはいたしません。少しでも思い当たる節がおありなら、それが平素の姿に隠された本性なのですぞ。敬愛していた叔父上の身体を奪い取った敵を憎いとは思わないのですか?」


 まるでトゥパックの心にある僅かな迷いを見透かしたかのように、マスがトゥパックを睨みながら言った。トゥパックはその言葉に答える術が見つからなかった。


 黙りこんでいるトゥパックから手を離し、皇帝の正面に向かって立つと、マスはさっとマントの裾を後ろに払って片膝を立てて跪いた。そして片手の拳を握り、叩きつけるように自分の胸にあてがって深々と礼をした。

 そして宮殿を低く震わせるような声で皇帝に向かって叫んだ。


「クスコを救うためです。即刻、ご決断を!」


 マスの言葉を聞いて、堰を切ったように神官や貴族たちが口々に叫び出した。


「ご決断を!」


 皇帝は眉間にしわを寄せ腕組みをして、じっと目をつむっていた。もはや膨れ上がってしまった神官や貴族たちの疑念を無視することは許されなかった。


 どれほどの間、沈黙が続いただろうか。

 それは、兄弟の情を断ち切って、ただ皇帝と反逆者という立場に徹するまでの覚悟の時間だったに違いない。

 次の瞬間、うっすらと目を開いた皇帝の顔は、まるで感情を全て失って天を仰ぐ偶像のようだった。

 皇帝の言葉を受けた側近は、勢いよく立ち上がるときっぱりと言い放った。


「二万の兵士を用意するよう各人に申し伝えよ。

 トゥパック・インカ・ユパンキを総指揮官として、謀反人カパックとワイナ両将軍の討伐、そして北方の征服を指示する!」


 皇帝の宣言の前に、トゥパックは反論することを赦されなかった。拳を握り締めて唇を噛み、射るように鋭い瞳で床を見つめている。その心の中では、自分自身に暗示をかけるように、彼の中で沸き起こる様々な思いを封印する理由を考えていたのだ。


―― 容赦なく自分に襲い掛かってきたあのカパックが、今の彼の本当の姿。優しい兄さまはもうどこにもいない。

  自分は雷神を倒す使命があったために、遠征に出たい気持ちを抑えてクスコに留まらなくてはならなかったのだ。

  その大きな使命をようやく果たすときが来た。――


 そして最後に決意した。


―― 兄さまの(かたき)を必ず討ってみせる ――



 皇帝の命を受け、今まで水面下で密かに、しかし着実に練られてきた計画が一気に動き出した。兵士も武器も、実はすでに整えられていたのだった。神官たちは、もう随分前から国中の地域から若者を集めさせていた。あらゆる地方の職人に武具の製作が命じられていた

 皇帝の一言が、かろうじて設けられていたもろい堰を破り、濁流となってクスコの街をひとつの方向に押し流していくようだった。




 ミカイは、少しずつ前の明るさを取り戻していた。そして気持ちはアクリャとして宮殿に上がる方向に傾いていたのだった。


(例え会うことができなくても、ユタの近くにいられるだけでいい。そして私の織った帯をユタが締めてくれるなら……)


 決意が固まったとき、両親にこのことを伝える前に、ミカイはひとりで長老のところを訪れた。


「ミカイ。よくぞ、決意したな。これでお前の家も栄え、お前自身も立派に役目を果たせることだろう。

 クスコの調査官がやってきたら、早速報告することにしよう。そうすればいずれ、宮殿から正式に召される事になる。それまで織物の腕をさらに磨いておくとよい。きっと向こうでは大事にされることであろう」


 長老は自分の娘のことのように喜んで、涙を流した。


「はい。長老様」


 ミカイの心にもう迷いはなく、晴れ晴れとした気持ちで宮殿での新たな生活に希望を抱いた。

 家に帰ると、ミカイは父親に頼んだ。


「父さん、今日は(キリャ)の神殿のお祝いだったわね。アクリャたちが神殿の前に出てきて祈りを捧げるのよね。

 私、宮殿に上がるために、遠くからでいいからアクリャたちの様子を見てみたいの」


 父親は、今までミカイがアクリャのことについて一言も口にすることはなかったので驚いた。


「ミカイ。宮殿に上がることにしたのか?」


「ええ。私にはそれが一番いい事だと分かったの」


 ミカイは父親にきっぱりと宣言した。

 父親は黙って頷き、早速ミカイを連れてクスコへと向かった。娘が宮殿に上がる事を決意したことに寂しさを感じながら。


 クスコに到着したミカイ親子は、その静けさを不思議に思った。神殿で祝いの祭りが行われている様子は全くなかったのだ。


「すまん。(キリャ)の神殿の儀式は、今日ではなかったかな?」


 父親が道行く人を呼び止めて訊いた。


「ああ、もう終えたらしいよ。今年は神殿の中だけで簡単に行われたらしい。それどころじゃないだろうよ。明日、トゥパック皇子様が大軍を率いて北方の遠征に出発されるからな」


 ミカイが慌てて口を挟んだ。


「え? 北方にはカパック将軍が遠征されているのでは?」


「そうそう、そのカパック将軍が皇帝に謀反を企てているとかで、将軍の討伐に向かうらしい」


「そんなはずない! あの人はそんな人じゃない!」


「何だい、いきなり。私に言われてもわからんよ!」


 ミカイが掴みかかったので、相手は驚いて乱暴にミカイの腕を振り払うと、一目散に逃げて行ってしまった。


「父さん!」


「ミカイ、今日はここにいるべきではないな。それに、こんな物騒な世の中でお前を宮殿にやるわけにはいかん。アクリャの話は無かったことにしよう!」


 ミカイは父親に抱えられて、足早にアイユへと戻って行った。

 ミカイは何度も心の中で叫んでいた。


(これは何かの間違いよ! 夢よ! 夢を見ているんだわ……)



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