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兄と弟

 神殿の一角には、壁面が黄金板に埋め尽くされた部屋がある。スーユの歴史を物語る場面が描かれた黄金のレリーフが、広く天井の高い部屋の壁一面に掲げられている。いわゆる資料室だ。

 そこは皇帝と大神官と、レリーフを制作するために集められた学者と金細工師しか入ることを許されていない場所だった。

 クッチとの会見のあと、パチャクティ皇帝はふと思い立ってこの部屋を訪ねた。

 部屋の前では数人の学者たちが歴史を編纂をするために額を突きあわせている。皇帝の姿を目にすると彼らは慌てて跪き床に頭を擦り付けた。

 皇帝は、学者たちに資料室から離れるように命じ、付き従っていた側近たちにも外で待機するように命じた。

 ひとりで資料室に入った皇帝の目に、一番奥の黄金の壁を無心に見つめるひとりの少年が映る。


「そこで何をやっている」


 皇帝が声をかけると、少年は怯えた目つきで皇帝を見、後ずさりした。


「ここは私の許しなく入ってはいけない場所だ」


 少年は申し開きもしないで上目遣いに皇帝を睨んだ。皇帝はそれ以上何も言わず少年に近づいていくと、彼が見つめていたレリーフに目を移した。


「この絵が気になるのか」


 人の背よりも高く、幅は大人が両手を広げても余るほどの大きさの金の板一面に、鋭いキリで付けられた点がびっしりと集まって、何かの形を浮き上がらせている。高窓から差し込む日の光が金板に光の筋を作り、その中に在る小さな戦士の姿を映し出している。

 高い山を見上げてひとつの花を掲げている戦士の姿。片腕で高々と花を掲げ、もう片腕を握り締めて胸の前に置き、片ひざをついて跪いている。特徴あるその小さな花に敬意を表している姿だ。


「昔、闘いに敗れた部族の長が、残った兵を率いて高い山の中に逃げ延び、この花を見つけた。険しい岩場に美しく輝くオレンジ色の一輪の花。それはまるで朝日が差して星々が消えていってもひとつだけ残る『明けの明星(チャスカ)』のようだった。

 長は、この花を手に取り山を降りると、奇跡的に敵に打ち勝ったのだ」


 少年はその話を聞いて目を輝かせると、またレリーフを見つめた。


「このチャスカの花がお前の心を捉えるのは、お前にこの花と同じ使命があるからだ。この花はスーユの戦士を守りこの国を勝利へと導いてくれる。

 お前もこの花にあやかって勇気ある立派な戦士となり、スーユを勝利へと導くのだぞ。

 ユタ……」


 ふと横を向くと少年の姿は消えていた。皇帝は軽くこめかみを押さえてかぶりを振った。


「昔の幻を見るとは、よほど疲れているらしい……」


 他の者には決して見せてはいけないと押さえ込んでいる分、カパックが将軍となってから皇帝の中の心配や苛立ちは制しがたいほどに大きく膨らんで、皇帝の心をかき乱しているのだった。

 皇帝は幻を見た金板の前を離れて、今度は入り口近くに掲げられたまだ黄金の輝きが目を射るほどに新しいレリーフの前に立ち止まった。

 先ほどの金板よりも細かい図柄が大きな金板一面にびっしりと描き込まれている。少し離れて見ればそこには、身なりの違う大勢の戦士が勢いよくぶつかり合っている姿が描き出されていた。

 まだ新しい歴史の記録……若きパチャクティが率いるクスコ軍とチャンカの戦いを描いたレリーフだ。

 戦士ひとりひとりの仕草や表情がそれは細かく描写されている。

 皇帝はその小さな人物たちのひとつに手をやってその形を指先でなぞった。その指の先には、戦士たちの先頭に立って戦うひとりの女戦士が描かれていた。


「あの子は何者にも侵されない頑な信念を持っている。

 そなたに似ているのであろうか。それとも……」


 かつて自分が愛した女戦士。赦されない恋の相手はその身体に宿った命を決して自分の子ではないと言った。しかしそれは彼女と子どもの立場に立ってみれば仕方のないことだった。

 たとえ弟と公言していても、実際にはその子の親代わりとなって育ててきたのだ。だからその頑な精神は、パチャクティのそれを色濃く受け継いでいるのかもしれない。


「しかしいま、その信念が間違った方向へ向けられているように思えてならないのだ」


 皇帝はその姿勢のまま、長いこと資料室の静寂のなかに立ち竦んでいた。


 


 ワヌコ王との面会のあと、カパックはワヌコの工事にますます精を出し働き続けていた。

 山のトンネルは後少しで貫通する。山の向こうでは、アンコワリョたちの後ろで豊富な水を湛えた湖が水路を仮に堰きとめてある石積みの後ろで今にも溢れ出そうと待っているのだ。


「兄上の気持ちに報いるためにも、早く水路を通してティムーへ向かうのだ」

 

 沢山の民を救うため、そして兄の信頼を得るため、働き続けるカパックだった。

 カパックには(必ず、スーユの役に立ってみせる)という意欲がみなぎっていた。




 その頃クスコでは、カパックの疑惑を証明しようと神官たちが慌ただしく動き回っていた。多くの者から得た証言はカパックを疑う神官たちにとって大変都合よく結びついていった。そしてもう疑う余地もない事実として、ひとつの結論を指し示していた。

 とうとう神官たちが、皇帝に事の詳細を申告する時が来た。神官たちに呼び出された皇帝が神殿に入ってくると、一同は跪いた。


「緊急の用とは、何か?」


「はい。実は、弟君、カパック・ユパンキ将軍のことでございます」


 神官の代表は自信を持って今まで得られた証言を皇帝に進言した。


「カパック将軍はおそらくチャンカの呪術師に何か呪術をかけられたのでしょう。もはや弟君ではなく、雷神の化身となっております。   

 雷の神イリャパは、この国では恵みを与える重要な神とされていますが、同時に太陽を覆い隠し、大地を破壊する強大な力をも持っているのです。異民族たちは、とくにその力を欲して雷神を崇拝しているのです。

 チャンカ人はカパック将軍にその力を宿して、スーユをその内部から破壊せんと企んだのでございます。南方で力を得た将軍は、折りよく北方に出征することとなった。その機会を利用してチャンカ人を従え、やがて北方の異民族を味方にすることでしょう。

 多くの信者を従えた雷神(イリャパ)はやがて、太陽神(インティ)をその足許に跪かせようと、このクスコに攻め込んでくるに違いありません。

 この国に太陽神以外の神がそれ以上の力を持つなどということは由々しきこと!早々に将軍を討たねば、クスコに危険が及びます」


 皇帝は思いもよらない話に驚いた。公然と弟を非難する神官の首を思わずその場で切り落としてやろうかと腰を浮かせたが、理性が何とかそれを抑えた。

 皇帝の表情に明らかな動揺を見て取って、大神官がゆっくりと進み出た。


「皇帝。思いも寄らぬ話に驚かれるのは至極当然のこと。はじめは私もよもやそのようなことはあるまいと信じることはできませんでした。

 しかし、将軍に関わったものたちの話を聴くうちにそれは疑いようのない事実と分かったのです。

 チャンカの呪術師と将軍が深く関わっていたこと。南へ移動するさいに将軍が雷に打たれ、瀕死の状態にあったにもかかわらず、復活したこと。そして、ワヌコ戦で見せた膨大な力。何よりも私は、その手に妖しく光る呪術の跡を見た。

 弟君に対する情に流されて打つ手をこまねいているうちにこの国が取り返しのつかないことになるのですぞ。今一度、ご自身の立場をお考えになってください」


 皇帝に次ぐ地位であり、皇帝の父とされる太陽神に仕える大神官マスは、皇帝に意見することも認められている。その口調は穏やかではあるものの、内容は皇帝を厳しく叱咤するかのようだった。

 皇帝はひどく険しい顔になってマスの顔を睨み、それから正面の高窓に目を遣った。

 いくら自分の意向を理解しないことに憤りを感じていても、それはカパックに対する期待の大きさと彼の身の安全を危惧するがゆえのことだ。

 しかし……。


 ふと違う視点に思い当たり、表情を変えた。

 しかし、もしも本当に異民族の邪神が弟の身体に巣食っているとすれば、大切な弟の身体を冒した敵は決して赦すことはできない。

 皇帝は呆けたような顔で高窓を見つめたまま、重たそうに口を開いた。


「……もしそうだとしたら大神官。私にどうしろというのだ。

 私はあれに信頼を置いてクスコ軍の全権を任せているのだ。あの軍を率いる将軍を討つ手立てはあるまい」


「トパ皇子はもうすぐ成人の儀を迎えられますな。

 皇子が成人したら、新たな軍を率いて将軍の討伐に向かっていただきましょう」


 皇帝が鋭い視線をマスに投げつける。マスはまるで動じることなく続けた。


「皇子自身が率いる軍ならば、カパック軍の兵士もこちらに従わざるをえません。

 要は将軍自身を倒しその軍を解放すれば良い。皇子には、将軍を倒したのち、全軍を指揮してそのまま北方の遠征に進んでいただくのです。

 これは神殿にも大変関わりのあること。新たな徴兵についてはわれわれが責任を持ちましょう」


「トパは誰よりもカパックを慕っておる! 彼が納得しないであろう!」


 半ば叫ぶような声で皇帝が言った。


「その辺りは私にお任せください」


 マスは冷静に答えると、今まで反り返り気味だった背中をにわかに折り、深々と頭を垂れた。

 皇帝が話に乗ってきた時点で、神官たちの策はほぼ完成形に近づいていた。



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