ワヌコの国(2)
カパックたちとワヌコの市民の間に信頼関係が築かれつつあることを知ったワヌコの王は、ある夜、カパックを宮殿に招いた。
宮殿の玉座には、王だけでなく、若い王妃と七、八歳に見える幼い王女も並んでいた。
王妃も王女も、民と同じように栄養不足から痩せ細ってはいたが、決して貧相には見えなかった。
鮮やかな色のインコの羽と北方の美しい宝石を繋げた長い首飾りや腕輪が艶やかな褐色の肌に冴え、やわらかな笑みをたたえた表情は、この国が大変な危機を抱えていることを忘れるほどに優雅だった。
この国が豊かだったときには、おそらくこの高貴な王の一家のもとに、小さいながらもまとまった平和な国家が築かれていたのだろう。
ワヌコ王の前に進み出てカパックが跪いて挨拶すると、王はゆっくりと玉座を下りて近づいてきた。そしてカパックの前に膝を付くと、その手を取って微笑みかけた。
どうやらカパックたちの思いがワヌコの王にも通じたようだ。カパックも微笑み返して頷き、王の手をしっかりと握り返した。王は『頼んだぞ』というように何度も頷いて、握っている手に力をこめた。
クッチがクスコから戻ってきた。
北の砦に戻ったときにカパックがワヌコに滞在している事を聞いて、他の兵を砦に残して休息を与え、一人でやってきた。
カパックはクッチの姿を見ると喜んで駆け寄ったが、いつも元気なクッチの表情が沈んでいることに気付いて神妙な面持ちになった。
「何かあったのか? クッチ。皇帝陛下が何か?」
するとクッチは突然、その場にうつ伏して頭を地面に擦り付けた。
「カパックさま。申し訳ありません」
そしてときどき口ごもりながら、皇帝の命令を全て伝えた。カパックはそれを聞き終わると、全身の力が抜けたように膝をついて半立ちになった。
「なんということだ。兄上はどうして私を信用してくださらないのだ」
その夜、ワヌコの王宮の片隅に間を借りて、カパックと、アリン・ウマヨック、ハトゥン、ワラッカ、アティパイ、スンクハ、そしてクッチの六人の側近が、久し振りに顔を揃えた。
カパックは六人の前でうなだれていた。
「陛下はなぜいつも私のやろうとすることに反対なさるのだ。私は陛下の意向に背くようなことはしていない。その過程は違っても、かならず陛下が納得されるような結果を出しているつもりだ。
今回も、ティムーを征服する目的を忘れたわけではないのだ。それなのに……」
カパックは、あまりにも一方的な皇帝の命令に、情けなさと憤りを感じていた。
六人の側近にはカパックの気持ちが痛いほど伝わってきて、皆一同に下を向いて押し黙っていた。
「ワヌコの王女はまだ幼い子供だぞ。しかもこの飢饉で身体も弱っている。人質として一人でクスコに送るなど、王が承知するわけがない。
それにやっとここまでワヌコの街の開拓が進み、信頼関係もできてきたというのに、ここで私たちが手をひけばすべてが水の泡だ!スーユの人間の威厳にも関わることではないか。
やはりどちらの命令にも従うことはできない!」
いつも冷静なカパックが怒りをあらわにして語気を強めた。
しばらく沈黙が続いたのち、目を固く閉じて考え込んでいたアリン・ウマヨックが珍しくカパックの意見を覆すような言葉を口にした。
「私は陛下のお気持ちも分かります」
アリン・ウマヨックは顔を上げて、カパックの方にまっすぐ向き直った。
「この国の状況を見てしまった者としては、あまりにも無慈悲な命令に思えますが、皇帝の立場というのは、自国の民のことを一番に考えねばなりません。
スーユは大きな国とはいえ、まだ成長の途中。他の国のことまで考えていては、逆にスーユが脅かされることになるのです」
カパックは頭を振った。
「しかし、私にはそのような割り切った考え方はできないのだ。大地に生きる人間は、皆同じだと思いたい。どうしたらいいのだ? アリン・ウマヨック……」
アリン・ウマヨックは静かな声で答えた。
「カパックさまのお考えも大切なこと。非常に難しいことで、何が正しいとは言い切れませんが、クスコとの関係をこじらせては元も子もありません。
この場はまずワヌコの王女をクスコに送り、早々に開拓を終わらせて先に進むのが得策かと思います」
「あの王が姫を差し出すことに納得すると思うか?」
「難しいやも……じっくりと説得するしかありませんな」
アリン・ウマヨックも腕組みをして考え込んでしまった。
他の者たちは心配そうにカパックを見守ることしかできなかった。
次の日カパックは、アリン・ウマヨックとともに王に会いにいった。そして率直に、王女をワヌコの忠誠の証としてクスコで預かりたいということを申し出た。ワヌコの言葉がやっと分かりかけてきたところだったので、カパック自らも慎重に言葉を選んで伝えた。
緊張の時が流れた。
しかし意外にもワヌコの王はこのことをあっさりと承諾したのだ。
カパックは驚いて王を見つめた。
王は言った。
「戦いの続くこの世の中で王の子として生まれたからには、この娘にもそれなりの試練があると覚悟はできている。
はじめはあなた方を疑っていたが、もう迷いは無くなった。あなたの国ならば王女を大切にしてくださるであろう」
王の横で、まだあどけない顔の王女は、悲しみの色を見せることもなく、ただ静かに自分の運命の時を待っているようだった。
王との面会の後、カパックはアリン・ウマヨックに言った。
「私はまだ甘いということがよく分かった。王になるというのは厳しいことなのだな」
「カパックさま。今のカパックさまの真っ直ぐなお気持ちをすべてお捨てになることはないのです。貴方さまには貴方さまのやり方で、国同士のかけ引きを考える方法もございましょう」
カパックはアリン・ウマヨックの顔をしばらく見ていたが、クックックッと笑い出した。
「なんと! 難しい事を言うな。アリン・ウマヨック!」
アリン・ウマヨックも思わずクスクスと笑い出した。
「……うむ。そうですな。……そうかもしれません」
その頃、緋の谷では、長老がミカイの両親にある相談を持ちかけていた。
「長年の開墾のお陰で緋の谷は豊かな土地になり、多くの移民がやってきた。
そこで今後、この緋の谷を大きな集落としての認可をもらおうと思っておるのじゃ。
しかしそれには、私のような老いぼれの長老ではなく、若くて力のある首長が必要。
そこで、あなたに首長を引き受けていただきたいのだが……」
長老はミカイの父親に跡継ぎを頼みにきたのだ。
「しかし、首長になるためには……」
父親はそう言ってミカイの方を見た。
「そう、首長の権利をもらうためには、息子を宮殿の奉公人にするか、娘を太陽の巫女として皇帝に差し出さねばならない」
「なんですって!」
母親が声を張り上げた。
太陽の巫女とは太陽の神殿と宮殿に仕える少女たちのことだ。
神聖な儀式の際には巫女として祭事を行い、普段は皇帝や皇族のために、機を織ったり、聖なる酒を作ったりするのである。一度宮殿に召されると二度と故郷へ帰ることは許されず、時には皇帝の側室となったり、手柄のあった首領の后となったりすることもある。
アクリャには未婚で美しい娘だけが選ばれるのであった。
アクリャになれば、皇帝の赦しを得ない限り、皇帝以外の男性と会うことは固く禁じられていた。その禁を破れば最も残酷で重い刑が科せられるのであった。
「実は、ミカイがインティ・ライミで人々の噂に上ったときに、一度調査官からその話が持ち上がったのだよ。しかしその後、調査官が替わってその話は立ち消えていたのだ」
そう、その頃の調査官はクッチだった。
前任者の跡を継いで、クッチにも緋の谷のミカイを宮殿に上げる手筈を整える命が下されていたのだが、カパックとミカイの仲を知る彼は、その命令をうまく誤魔化していたのだった。
「ミカイを宮殿に入れるなんて、とんでもないわ!」
宮殿に入ったらもうミカイと会う事はできないと、母親は猛反対した。
「会えないのは辛いだろうが、アクリャはまるで皇族のように人々に崇め奉られる尊い巫女なのだよ。宮殿ではそれはそれは大切にしてくれる。
アクリャの仕事は、皇族方の機を織ることや、式典での祭司の役。中には皇帝の側室になって、高い地位につくことさえある。そしてアクリャを差し出した家は、代々、首長を受け継ぐ権利がもらえるのだ。
私には子供がいないので、息子がたくさんおるそなたが適任だと思ってな」
これは長老のミカイに対する心遣いでもあった。
「それでもミカイを差し出すなんてできないわ」
母親はどうしても納得できない様子だった。
長老はミカイの方を向いて直接訊いた。
「ミカイ、毎度『求婚の宴』を欠席しておるそうじゃな?しかし、いつまでも断り続けることは出来ぬぞ。年頃になった男女は求婚の宴で相手を決めて結婚するのが緋の谷の慣わしだ。もし、どうしても結婚する気が起きないのなら、アクリャに上がるのはお前のためにもなるのではないかな?」
ミカイは一瞬バツが悪そうに顔を伏せたが、もう一度顔をあげるときっぱりと言った。
「確かに……。私は誰かと結婚する気はありません」
「お前はこのアイユの中でも特に美しい娘じゃ。それに美しい機を織る。
私は、その腕を是非、宮殿で発揮してもらいたいのだよ。このまま誰とも結婚せずに、この田舎に埋もれているのは勿体無いと思うのだが……」
父親はしばらく時間をくれるようにと頼んで長老を見送ると、ミカイに訊いた。
「ミカイ。まだあの兵士のことを想っているのか?」
ミカイはしばらく考えて首を振った。
「もう、とっくに済んだことです。私が結婚しないのは自分の意志なの。
……アクリャとなって、父さんの役に立てるなら……」
ミカイは言いかけたが、まだ迷いがあるようで言葉をつまらせた。
父親はミカイの肩に手を置き、言った。
「こちらのことを気遣う必要はない。まず第一に、お前がどうしたいかをよく考えるのだ。」
ミカイの心は複雑だった。
『宮殿に上がれば、遠征から帰ってきたユタを見かける機会があるかもしれない。いつもユタの近くで、同じ宮殿の中で働くことができる。
しかし、アクリャになった女性は、皇帝の許しなしでは、結婚することも男性に会うこともできないのだ。すぐ傍にいながら会うこともできない。そんな日々に耐えられるだろうか。ユタが后を迎えたら、自分は平穏な心でそれを祝福できるだろうか。
それならば、誰かと結婚し、二度と会わない方がいいのではないか』
どちらを選ぶのもミカイには難しかった。
―― 君の幸せを心から祈っているよ ――
ユタの最後のあの言葉が何度も頭の中に響いてきた。
「意地悪なユタ。あなたがいなければ、幸せになんてなれない」
遠い北の空を眺めながら……。
葦笛を吹きながら……。
機を織りながら……。
それからミカイは、自分がこれからどうしていいのか、毎日、毎日考え続けた。
ワヌコの灌漑工事の作業はかなり難関に差し掛かっていたが、ワヌコの市民たちの応援を背に、兵士たちの意気込みは増していた。
さらに、王の計らいで健康なワヌコの男たちが集められ、この作業に加わる事になったのだ。労働者の人数は一気に増え、朝早くから日暮れまで交替で休憩を取りながら、工事は絶え間なく続けることができるようになった。
トンネルはとうとう山の中央辺りまで掘り進んだ。
段々畑がゆるやかに高度を上げて山の方へと延びていった。美しい曲線を描くように、いくつもの筋が畑を仕切り、畑脇には頑丈な水路が通されて、水が来るのを今か今かと待ち構えていた。
女たちも働いた。食糧を補給する軍に付いて山を越え、食べ物になりそうな物を見つけては運んだ。
ワヌコは干ばつを乗り越えて、ひとつになって生き返ろうとしていた。




