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それぞれの空の下で

 衝撃的な再会からミカイの心はしばらく閉ざされたままだった。

 しかし一年も過ぎると、思い出すだけで心が抉り出されるように辛かった出来事も、徐々にその痛みがやわらいでいく。

 以前のような明るい笑顔にはなかなかなれないものの、少しずつ元気を取り戻し、何とか日常の生活を送れるようになってきていた。

 

 アイユの人々とあまり会話をしなくなったミカイは、ただ黙々と織物をしていることが多かった。皮肉にもそのせいで、ミカイの織物の腕前はさらに磨かれていった。

 アイユの人々も、都から訪れる調査官も、ミカイの織る織物の美しさに目を見張った。

 彼女の創り出す、花、鳥、木々、太陽、稲妻、星……様々なモチーフが鮮やかな色で描かれ、複雑に配置された織物は、宮殿の貴族たちが身につけている織物にも劣らぬほど見事であった。

 長老と両親は、以前のような明るさを失ってしまったミカイを見るたびに心を痛めていた。彼女がまだユタのことを忘れられずにいることが気がかりだった。そしてユタのことを忘れさせる良い方法がないかと常々話していた。

 長老はミカイの織る美しい布を見て、ある考えが浮かんでいた。そして、いつかミカイと両親にその相談を持ちかけようとしていたのだった。

 

 ある日ミカイは久し振りに外に出て、村の入り口の立ち木のところに立って、ふとユタからもらった葦笛を口にしてみた。そっと息を吹き込むと、その音色は風に乗って優しく響いていった。しかしその音にユタを恋しく思い出してしまい、大きな溜め息をついた。

 その時、平原の彼方から誰かがやってくるのが見えた。

 見覚えのある懐かしい姿。それはクッチだった。

 ミカイはその姿が分かると驚き、そして困惑した表情になった。


「お久しぶりですね」


 クッチはミカイの傍に来ると、笑顔で挨拶した。ミカイはわずかに目をそらして軽く頷いた。


「カパック・ユパンキさまは……」


 クッチがその名を告げた途端、ミカイはさっと顔を上げクッチを見つめたが、その瞳は悲しげに揺れていた。


「お元気ですよ。安心してください。これはカパックさまからのお届け物です」


 クッチは北方の河原で取れる薄緑色のヒスイの石をミカイに手渡そうとした。


「私、あの……」


 ユタのことを忘れようとしても忘れられずに苦しんでいたので、ミカイの心は大きく揺れ、素直にそれを受け取ることができないでいた。

 クッチはそんなミカイの心を察していた。


「あなたもカパックさまも同じ人間です。身分などありません。あの場であなたに会ってしまったことで、カパックさまもかなり苦しんでおられたのですよ。      

 しかしあなたへの想いが強いからこそ、北方の遠征を成功させ、必ず戻ると言っておられました。

 北方の地には様々な部族がいます。困っている民には手を差し伸べ、スーユを脅かす敵とは果敢に闘い、カパックさまは北の地の安泰のために力を尽されています。

 私はいま、北方の小国との戦いでスーユ軍が勝利したことを宮殿に報告に来た帰りなのですよ」


 ミカイはまだ複雑な面持ちでクッチを見つめている。

 クッチは立ち木の根元に腰を下ろして一息つくと、空を見上げてまた話し始めた。


「実は私は、ここよりもずっと西にある国、チンチャの民なのですよ」


 突然クッチが話題を変えたので、ミカイは不思議な顔でクッチを見、話の続きにじっと耳を傾けた。


「チンチャの民は、自分の土地で採れた物をほかの地域に持っていき、その地域の物と交換して生活しています。

 海という広い水の大地の民と山の民とがお互いに糧を交換し、その土地にはない物を手に入れる。するとその恵みは何倍にもなるのです。そういう豊かな生活をする民なのです。

 私もそういう暮らしをしていました……」


 ミカイは興味を惹かれて自分も隣に腰を下ろし、真剣に聞き始めた。


「ある時、異邦人がやってきた。それまで見たこともないような立派ななりをして、物騒な武器を携えている。

 はじめ私たちは彼らに警戒しました。

 しかし彼らは、高地で採れる珍しい作物や、石の装飾品や、動物など、彼らの土地の特産物や貴重品を私たちに渡すと、私たちと親しくしたいと申し出たのです。

 チンチャはそれまでも何度も異民族に脅かされてきたので、そう言う彼らをすぐには信用できなかった。すると彼らは武器を置き、チンチャの民に混じって働き、同じ生活を始めたのですよ。何日かすると彼らはすっかり私たちの生活に溶け込んで仲良くなっていた。

 変わった侵入者でございましょう?」


「本当ね。何が目当てだったのかしら?」


「彼らの指揮官はこう言いました。

 『お互いの力を分け合えば、豊かな世界をもっと広げていけるのではないか』と。

 そのときにはもう、私たちはこの人物の言うことなら信頼できると思っていたので、喜んでその申し出を受けたのです。

 そして彼らの国から民がやってきて移り住み、私たちの民も彼らの国へと移り住んだ」


「その国は……」


「そう、この国、スーユでございますよ。

 何百人という屈強な戦士を従えた指揮官は、まだ少年のような若さでした。しかし若いといってもその信念は素晴らしく、チンチャの多くの民の共感を得たのです。

 私はこのとき、この指揮官にすっかり心を奪われてしまいましてね。以来ずっと付いて回っているのですよ。

 その少年指揮官がカパックさまでございます。

 あれはカパックさまにとって初めての任務だったのでしょうね。おそらく西の辺境の地を征服する命を受けていたのでしょう」


 緋の谷で働くユタの姿と、その少年指揮官の姿はぴったりと重なる。


「ユタらしいわ」


 ミカイは思わずクスッと笑った。


「カパックさまはずるい方ですよ。あちこちで信ぼう者を増やしておきながら、ご自分はさっさとわが道を進んでいってしまわれる!」


 ミカイはとうとうコロコロと笑い出した。


「そのとおりだわ」


「遠征はまだ続きますが、カパックさまは必ず戻ってきますから……」


 クッチは先ほどのヒスイをミカイの手に握らせた。ヒスイの中に、北の地の人々とともに働くユタの姿が見えるようだ。

 クッチはミカイの笑顔を見て安心すると立ち上がった。


「兵を先に行かせてありますので、急ぎ戻らねば。私はこれで」


 クッチは笑顔で軽く会釈をすると踵を返し、まっすぐクスコへ走っていってしまった。


 クッチがミカイに渡したヒスイは、彼の償いの気持ちだったが、カパックの贈り物だと信じるミカイは、いとおしむようにそれを両手でそっと包むと、胸元に押し当てた。

 クッチの話を聞いて、自分の知るユタと変わらないカパック将軍の素顔を知ったミカイは、心の中が温かくなっていくのを感じていた。

 悲しい再会と別れで暗く閉ざされていたミカイの心に、小さな明かりが灯った。




 クッチがクスコに行っている間に、カパックは砦に戻ってワヌコへ向かう準備を整えていた。

 その間に丁度ティムーに偵察に行っていたワイナ将軍とアンコワリョが砦に戻ってきた。


「ティムーの首都チャンチャンではひどい嵐が起きている。海から押し寄せた水が街を飲み込んでしまい、いまや壊滅寸前の状態だ。多くの民が犠牲になったらしい」


「やはり北の地ではみな、災害に翻弄されていたですね……」


 カパックは自ら予想を立てたものの、やはりそれが現実だと分かったとき、改めて衝撃を受けた。


「王の一族と主だった者たちは、親交のあるクイスマングに身を寄せたそうだ。

 クイスマングとは、ティムーよりもさらに北の熱帯地域に暮らす部族が多数寄り集まって成り立つ共同体だ。

 北の部族は性質が荒く、大変凶暴だ。それに多くの部族が寄り集まっているゆえ、戦士の数はわれらをはるかに上回ると思われる。彼らとティムー王が結託したら、非常に手ごわい相手になる。しかも暑い地域での戦いはわれらにはまったく不利だ。おそらく勝ち目はないであろう」


「焦って攻め入っても、敵味方どちらにも無駄に死者を増やすだけです。

 私が今気になるのは、飢えて苦しむワヌコの人々なのです。

 そのような状態ならば、しばらくの間ティムー軍は動けないでしょう。その間、出来る限りワヌコの国の復興に手を貸したい。ワヌコを復興させ同盟を組めば、強力なティムー帝国を制する足がかりにもなる」


「カパック、お前らしいな」


 かつての教え子は、控え目に見えるが一度決意したことを曲げない頑固さがあった。将軍になったいまも変わらないカパックに、ワイナ将軍は思わず苦笑いした。


「分かった。

 ではその間、私は自軍をまっすぐ北へ進ませ、クイスマングの様子を確かめることにしよう。道中に存在する小さな部族にスーユへの併合を説得し、地道に味方を増やしていくことにする。お互いの健闘を祈る」


 ワイナはカパックの肩を叩いた。


 ワイナはクイスマングの偵察のため再び北方へ軍を率いていった。

 チャンカ人を加え、再び隊を組みなおしたカパックは、ワヌコの国へと向かって行った。



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