疑惑
ワヌコとの戦いのあと、クッチが一部の兵を率いて、ワヌコ軍の大将と捕虜たち、そして今まで併合した少数部族の代表たちを連れ、クスコに向かった。
カパックは、兵士たちの体調と軍の態勢を整えるため、残りの部下や兵士を連れていったん北の砦へと戻った。
その時クスコでは、水面下でとんでもないことが起こっていた。
カパックが遠征に出た後、太陽神殿の神官たちの間で穏やかならざる話が持ち上がっていたのだ。
それは、神官たちの最高位であり神殿のみならず国中の人々から畏敬の対象とされている大神官マス自らが、神官たちを前にして警告したことに端を発する。
「カパック将軍は、いずれ太陽神を滅ぼす存在になるであろう。
私は確かに見たのだ。月の光に青白く光る雷神の証を掲げて、月に向かって呪詛を唱えていた」
それを聞いた他の神官が、「そう言えば……」と口を開いた。
「将軍の南方遠征に同行した兵士から聞いたところに拠りますと、チャンカの呪術師が、負傷したカパック将軍に呪いの言葉をかけ、雷神の力を与えて蘇らせたそうです」
「しかし雷神はスーユの民にとっても恵みを与えてくださる大切な神ではないですか。カパックさまがその力を持っていらっしゃるなら、民に恵みを与える存在になるのではないですか」
「雷神と言うのは語弊がある。本来なら太陽神の子孫である皇族が雷神の子となることはできないはずなのだ。同じ雷神でも、おそらくはチャンカの崇拝する邪神であろう。それを証拠に、カパック将軍の掲げていた証は自ら禍々しい光を放っていたのだ。
カパック将軍がチャンカの盗賊を諌めにいったとき、なぜあんな少人数で大勢の敵を降伏させることができたのか、不思議だとは思わぬか?」
次第にほかの神官も疑念を持ち始めた。やがて神官たちに不安が広がっていき、皆口々に叫び出した。
「カパック将軍はそのときにチャンカと密約を結んだのではないか。チャンカと結託して南に仲間を作り、今は北方で呪術を使って仲間を作っているのかもしれぬ」
「クスコは挟み撃ちではないか」
「皇帝陛下は弟君に最も信頼を置いていらっしゃる。それでは皇帝陛下まで雷神に惑わされるということか?」
「そのうちこの国は、雷神に支配されてしまうぞ!」
このときから神官たちは揃ってカパックのことを怖れ、何とかしてカパックからクスコを守る手立てはないものかと策を練り始めた。
神官たちの動きが慌ただしくなったころ、ちょうどクッチがクスコに到着した。
ワヌコの大将をはじめ、北の地の様々な部族を従えたクッチの隊はクスコの人々に驚きを与えた。
皇帝は、カパックが遠征してから一年以上経つものの、無事に進軍している様子を伝えてくるだけで、北の地の征服が進んでいるかどうかも分からず、気を揉んでいた。
そんな折での突然の勝利の報告だ。皇帝は大変喜んで、カパック軍の成果を褒め称えた。
しかしカパックが送ったキープの内容を、書記官が読み上げるのを聞いているうちに、徐々に険しい顔になっていった。
皇帝に代わって、側近がその内容をクッチに問い糾す。
「どういうことだ?クスコから労働者を派遣し、作物の種を大量に持たせてくれとあるが……」
「はい。実は北方の地では今、大干ばつで民が次々に死んでおります。ワヌコ軍も、民を救うため豊かな土地を手に入れようと南下してきたのです。カパックさまは、大将を捕らえる代わりにワヌコの開拓を約束されたのです」
「なんだと? 正式にスーユの傘下となることを誓ったわけではない国に、なぜ恩恵を与える必要がある!
お前たちはティムーの征服を命じられているのだ。ワヌコの開拓などしている暇は無いはずだ! 北方が天災で混乱しているのならば尚のこと! 今が責め時であろうが!」
側近は皇帝の怒りの言葉をそのままクッチに投げつけた。
「カパックさまは、敵であろうが味方であろうが、苦しむ民をなるべく救いたいとおっしゃって……」
「この要求には応えられぬ!
まず傘下に入ったという証にワヌコの王の子を人質としてクスコによこすのだ。そのあとの復興は私が責任を持つ。余計なことに時間を費やさずに軍を即刻ティムーへ向かわせるよう、戻ってカパック将軍にしかと伝えよ」
皇帝の命令には、クッチは唇を噛み締めて、「はい。」と従うしかなかった。
皇帝は苛立った。
今はクスコの街の再建事業や辺境の地域の開拓、道路網の整備など、広大なスーユの領土を平等に管理するため、あらゆる地域の整備に心血を注いで取り組んでいるときだ。スーユの皇帝の恩恵を待つ民は星の数ほどもいるのだ。
それなのに国民を後回しにして、まだ敵か味方かもわからない部族のために貴重な労働者を貸すことはできなかった。
一方で弟の想いも理解できなくはない。目の前で苦しんでいる民がいれば、何とかしてやらなければと思うのは当然だろう。
しかしカパックはスーユの利益のために遠征に赴いたのだ。むやみに他の民を救うことは、良くすればスーユの同盟者を増やすことになるだろうが、同時に相手に利用され、スーユが危機に晒されることも考えられる。
膨大化していく国を支える皇帝の焦りと怯えに似た感情が、まだ若い弟へのもどかしさと激しい怒りとなって現れていた。
悪いことは重なるものである。
それから数日のうちにワヌコの大将の裁判が行われた。
大将の尋問を請け負ったのはマス大神官だったのだ。取り調べでワヌコの大将の話を聞くうち、マス大神官の顔色が変わっていった。
「何? 一人で数百人の兵士を生き埋めにしたとな?」
「はい。それはものすごい力で。
その後、まるで雲を呼んだかのように雷鳴がとどろき、大雨が降りだしました。私はもう逆らってはいけないことを悟りました」
「…………なるほど。やはりそうか」
マス大神官は自分の考えがまちがいでないことを確信し、ニヤリと笑った。
「これで証拠は揃った。堂々と皇帝に進言することができるぞ」