水路
カパックは自軍の半数の兵士を警護のため砦に残し、残りの兵士たちを率いて側近たちとともに砦を出た。
山の中腹にある砦から続く険しい山道はすぐに途切れ、その先はかろうじて断崖を渡れるほどの細い獣道が深い渓谷へと落ち込んでいた。
谷底に降り立ち、狭い渓谷づたいに進んでいくと、いくつかの集落に出会った。
その辺りの集落はとくに秩序の整った国に属すわけではなく、ごく少数の家族が寄り合って原始的な生活をしているのであった。粗末な小屋で、彼らはスーユの軍隊を怖れることも知らず、大人も子どもも興味深く寄ってきては彼らの衣装や武器に触ってみる。
アリン・ウマヨックが長老らしき人物に、クスコから持ってきた織物や小物を渡し、身振りを使って『集落を豊かな南方の大国の一部としないか』と交渉すると、彼は喜んで申し入れを受けた。
野生に近い暮らしをする部族にとっては、スーユの兵士たちのいでたちも、彼らの持ってきた贈り物も、まったく見たことも無い驚くべきものだった。
カパックの軍はさらに北へと前進し、多様な部族と出会った。ときには攻撃的な部族もいて抵抗にもあったが、スーユの軍にかなうほどのものではなく、彼らはすぐに降参した。
北の小さな部族をスーユに併合しながら軍は先へと進んでいった。
日差しは北に進むごとに強くなっていく。しかしこれまで出会った部族は、自分たちに必要な糧をその都度必要な分だけ採って生活しているため、天候の異常をほとんど感じることなく暮らしていた。
「北の地の異常は私の思い過ごしだったのだろうか?」
彼らの平穏な生活を見ると、カパックはそう感じざるを得なかった。
ある日軍は、今までの狭い渓谷から突然開けた場所に出た。緩やかな谷の間に広い平原が広がり、その谷の斜面に沿うように家が建っていた。狭い谷に分散していたどの集落よりもずっと大きく立派な集落であった。家の数も多く整然と並んでいる。かなり昔から伝統を守ってこの土地に住み着いている部族らしい。
ところが集落の中に入っていくと、カパックの表情はこわばった。
家々の前に、やせ細った住人が座り込んでいる。子供も骨だらけの体で目だけが異様に大きく、怯えた様子でこちらを見ていた。痩せた母親が乳飲み子に乳を含ませようとしているが、その子どもは人形のように母親の動かすままにされている。おそらくもう生きていないのであろう。それでも母親は必死で子どもの顔を自分の胸に押し付けているのだ。誰も彼もがカパックたちに意識を向ける気力もなく、虚ろな瞳を泳がせていた。
その中でもまだ体力のありそうな若者に、アリン・ウマヨックが、身振りで村長の家を訊いてみた。
彼はふらふらと立ち上がり、何も言わずに集落の奥へ歩いていった。村長の家を教えてくれるつもりなのだろう。カパックたちは黙って若者に付いていった。
案内された村長の家も、同じように荒れ果てた光景であった。村長ははじめ、見知らぬ異邦人に警戒したが、害を加えないと分かると、黙って『ついてこい』と言うように目で合図して、家の外に出て行った。
集落から河原にかけて、緩やかに下っていく土地に、低い垣根のようなものが続いている。垣根に囲まれた黄色い地面には、痛々しい亀裂がいくつも入っていて、はじめはそこが何の場所なのか分からなかった。
よく見ると、亀裂の間から枯れた草が規則正しく生えている。いや、規則正しく植えられた作物が枯れて無残な姿となっているのだ。
そこは畑だった。
村長は畑を横目に見ながら、さらに下って河原へと案内した。岩だらけの河原には湿ったコケが生えているだけで、水はほとんど流れていなかった。
「カパックさま、やはり干ばつが続いているようですな。村人の痩せ具合からかなり長いものと思われます」
アリン・ウマヨックが眉間に皺を寄せて言う。
「ティムーの脅威も、首都の軍ではなくティムーに傾倒する部族が水を求めて襲ってきたのかもしれません」
「そうかもしれない。いずれにしても、ティムーの様子をワイナ将軍から聞くまでは動けない。その前にこの集落を救うことを考えよう」
カパックは集落のすぐ近くに陣を張り、方法を考えることにした。
クスコは二つの川に挟まれ、治水工事も行き届いていて、水が耐えることはない。クスコとは地形も気候も違うこの土地で、水を確保する方法はあるのだろうか。
「川を遡って水脈を探していくしかないですな」
「この山地では水を引くためにはそれしか考えられないでしょう」
「では同時に麓から山に向けて水を流す水路を造りながら畑を築いていきましょう」
「時間がかかりますな……。その間にも他の部族の攻撃があるかもしれない」
カパックは周りの話にじっと耳を傾けていたが、決意して立ち上がった。
「この周辺に武装する可能性のある部族はないか、偵察隊を派遣することにしよう。残った兵士で出来るかぎり手を尽くすのだ。無駄かどうかはやってみなければ分からない」
次の日から、水脈を探すため山に登る隊と水路と畑の建設に取り掛かる隊に分かれ、作業が始まった。
もちろん周辺の様子には最大の注意が払われ、敵が襲って来たときにはすぐ戦えるように、武器を配備しての作業だった。
水脈を探す隊は若い兵士で組まれ、アティパイが率いて出発した。
畑の開墾はワラッカとハトゥンが指揮を執り進められた。
クッチとスンクハが率いる水や食糧を補給する部隊は、周辺の野山からそれらをかき集めるために奔走した。
限られた人数で、全員が持てる力を出し切って働かなければならなかった。それでも兵士たちはカパックの考えに皆同意し、懸命に働いた。
山を少しずつ切り崩し、平らな畑を作っていく。
段を重ねるように底辺の畑の上に石垣を組み、その上の斜面を均してまた平らな畑をのせる。やがて山の斜面に階段状の畑が織物の模様のように重なっていった。
偵察隊が時々もどってきては周辺の様子を報告し、交代して新たな偵察隊が出かけて行くのだが、幸いなことに近隣ではしばらく変わった動きは見られなかった。しかし干ばつの被害は、以北のほかの部族に広範囲に及んでいる様子が報告されたのだ。
工事の方は着実に進んでいったが、間断なく照りつける熱い太陽は、働き続ける兵士たちの体力を容赦なく奪っていく。兵士たちの体力も弱っていくが、何よりも辛いのは、長く地道な作業の間に次々と村人が命を落していくことだった。日照りの影響で周辺から得られる食料も本当に僅かだったのだ。
長期間にわたる工事で、畑とその間を通す水路の輪郭がほぼ出来上がってきていた。
しかしアティパイたちはまだ戻ってこなかった。水脈から水路まで水を通さなければ意味がない。とうとう体調を崩すものが続出し、やむなくカパックは工事の休止を指示しなければならなかった。
「敵が来ないのがせめてもの救いだ……」
しばらく兵士たちの休息が設けられた。水路の延長を残すのみで、兵士たちはつかの間の休日をゆっくりと過ごした。相変わらず太陽は乾いた大地をじりじりと照りつけていた。
兵士たちが休息を取っている間に、ようやくアティパイの隊が戻ってきた。アティパイたちは水脈を探しあてたあと、麓まで水路を通しながら山を下ってきていたのだ。
「水路が来た!」
兵士たちは一気に湧き上がった。
後は畑の間に張り巡らせた水路に水脈からの水路をつなげるだけだ。疲れていた兵士たちは活気付き、水路の工事に精を出した。
しかし兵士たちの努力も虚しく、思ったような結果にはならなかったのだ。水脈の水も極端に少なく、段々畑の上部しか潤すことはできなかった。
「我々のできることはここまでだ。後は天の力を借りるしかない」
大きく溜め息をつきながら呟くカパックをアリン・ウマヨックが慰めた。
「まあ、潤った上段の畑だけでも作物を植えつけることができるでしょう」
上段のわずかな畑に集落の家々に残っていた種をかき集めて蒔き、その成長を待つしかなかった。
工事を終えてから間もなく、カパックたちのいる集落からだいぶ北方へと偵察に行っていた兵士が戻ってきて、緊急の知らせを伝えた。
「ワヌコ国の軍が動きました! まっすぐにこちらに向かっています」
ワヌコはスーユとティムーの勢力圏のちょうど中間にある大きな部族だ。ワヌコも干ばつで民が苦しんでおり、南への遠征を始めたのだろう。これまでカパックたちが出会った部族とは、比較にならなかった。
「とうとう、この時がきたか。彼らは豊かな土地を求めてスーユの国境まで侵出してくるだろう。なんとしてでもこの場でワヌコ軍を食い止めるのだ」




