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北の砦

後書きにここまでの登場人物の一覧を載せています。

 クスコを出発した軍隊は、ひたすら北へ向かって歩き続けていた。

 途中途中のアイユでは、今までにない規模の軍隊の行進に、みな怯えて家の中に隠れているらしく、人の姿は見られなかった。

 カパックは、大軍隊の大将として、勇ましく行進していた。

 長い長い隊列である。それぞれの部隊を率いている側近たちは、行進している間も隊を前後しながら部隊全体の状況を確かめ、定期的に大将カパックにその様子を報告していた。

 カパックの隊のすぐ前の槍部隊を率いているアティパイが、カパックに報告に行ったとき、彼は逆にカパックの様子がおかしいことに気付いた。おかしいといっても、具合が悪そうだというわけではない。普段を知っているアティパイから見ると、カパックにどこか覇気が感じられないのだ。

 彼は気になって、カパックの傍にいるアリン・ウマヨックに耳打ちした。


「カパックさまは一体どうされたのだ?」


 もちろん、アリン・ウマヨックも、クスコを出発してからのカパックの様子が気になっていた。ふたりは隊を前後してほかの側近たちを集めた。ほかの者もやはりおかしいと思っていたのだが、気にするほどのことでもないのかもしれないと、深くは触れようとしなかった。しかし、皆が異常に気づいているほどならば、やはり放ってはおけない。


「たとえ僅かなものであっても将軍に迷いがあっては、いくら有能な戦士が集まったとしても戦に勝つことはできない」


 アリン・ウマヨックが呟いた。


「誰か心当たりはないのか?」


 ワラッカが仲間を見回しながら訊いた。


 ミカイとのことを知るハトゥンとスンクハは複雑な表情になった。ことの成り行きをすべて知っているクッチは、責任を感じて押し黙っている。

 スンクハが覚悟して口を開いた。


「私がカパックさまと話してみよう」


 スンクハはカパックのところへ近づいていった。ちょうど軍は狭い渓谷へと入ったところだった。今まで広い道幅いっぱいに広がって歩いていた行列は一列か二列になって進まなくてはならない。

 スンクハはカパックの横にさりげなく付くと歩調を揃えて歩き出した。そして両側に聳え立つ絶壁をぐるっと見渡しながら、話を切り出した。


「カパックさま、随分と険しい渓谷ですな」


「……ああ、そうだな。」


 カパックもつられて見上げたが、心ここにあらずという風に返事した。


「こんな渓谷にも、アイユがあるのですなあ」


 見ると、谷に張り付くように小屋が点々と見え、わずかに平らな場所を耕した畑らしきものも見えた。


「ああ、本当だ」


 カパックはその粗末な家々に関心を示したようだ。


「スーユはあのように小さなアイユにも、豊かさを分け与えることができるでしょうか?」


 突然の質問に、カパックはスンクハの方にまっすぐ顔を向けた。


「そうありたい。いや、そうでなくてはいけない」


 カパックは真剣に会話にのってきた。カパックの性格をよく読んだスンクハの機転だった。スンクハは続けた。


「この戦いで犠牲を払うものがあっても、それ以上多くの民に豊かさを分けることができれば本望。われわれが向かう道は、多くの民の幸せへとつながり、それぞれのアイユの幸せへとつながり……。つきつめればカパックさまの大切なお方の幸せへともつながる。そうは思えませんか?」


 スンクハを見つめるカパックの眼が大きく見開かれた。

 スンクハがミカイのことを言っているのが分かった。そのとき自分の心の迷いが部下たちに伝わってしまっていることに、初めて気付いたのだった。


「この軍隊はスーユへの想いに満ちています。兵士たちはスーユを救うという大義名分のもと、カパックさまを信頼してその命を預けたのです。当のカパック様のお心が他を向いていては、兵士たちの心はどこを向いたらよいのでしょうか?」


 カパックはスンクハの言葉を聞いて、顔を真っ赤にした。


「すまなかった、スンクハ。私は違うところを向いていたようだ。申し訳ないことをしていた」


 カパックはスンクハに謝った。


「いえ、私に謝られても筋が違います。どうか、この軍がひとつのところを目指せるように、強いお心をお持ちください!」


「分かった。私はもう大丈夫だ。心配をかけた」


 スンクハはにっこり笑うと自分の位置へと戻って行った。

 この時、やっとカパックは今まで迷っていた心の目指す方向が見えたのだった。


(今は迷っている時ではない。必ず勝利してクスコに帰るのだ)


 カパックはまっすぐに北を向いて歩き続けた。




 渓谷は、北へ向かうほど険しくなっていった。

 最北端の砦までは、いつも伝達史たちが行き来しているため、道はあるのだが、一人通るのがやっとという場所もかなり多い。

 南へ向かった時と同じように、道幅を広げ足場を固めて進んで行く。泥の道には石畳を敷いて固める。渓谷にかかる朽ちかけた橋は丈夫なつり橋にかけ直す。断崖をえぐるように通された狭い道の幅を広げ、がけ崩れで壊れたところには石を積んで修復し頑丈に補強する。南へ向かった時よりもはるかに難所が多いのだが、今回は老人も子供もおらず、屈強な兵士ばかりなので、道を拓くのは前よりも時間はかからなかった。

 カパックとワイナの軍隊は、立派な王道を築きつつ、どんどん北へと進軍していった。

 

 やがて軍は北の砦へと到着した。

 険しい山の中腹に設けられた砦。片側は深い渓谷に陥り、片側は絶壁となっている。

 砦は、クスコから派遣される何十人かの兵士が交代で守っていたが、最近、ティムーの小軍隊らしき賊が押し寄せてきたこともあり、ところどころ壊れ、数人の死体が転がっている有様だった。砦の見張りは奇襲に怯えていたが、クスコの軍隊の到着にようやく安堵の色を見せた。


「なんという有様だ」


 ワイナは想像以上の惨状にため息をついた。


「先ずはこの砦を広げて頑丈にし、守りを固めねばならないな」


 カパックは壊れた砦の残骸の前で呟いた。


 犠牲となった兵士たちへの祈りの儀式を済ませると、カパックとワイナは砦の改修を指示した。石細工の経験を積んだワラッカを指揮官として、改修を行う隊が編成された。

 石の細工には、大変な技術をもつスーユの労働者たち。そこから集められた兵士もたくさんいた。兵士たちは険しい山の石切り場から石を切り出しては運び、きれいに削っては積み上げ、また切り出しては運び……。

 やがて砦の城壁は以前よりもずっと大きく頑丈な姿となっていった。それはさながら、山の中腹に突然現れた空中宮殿のようだった。

 

 砦の工事を進めている間にも、これからの進路が幾度も話し合われた。

 カパックは、ワイナと主だった者たちを前にして、自分の推測を述べた。


「私が気になるのは、北部のアイユの作物が急に不作になっているということだ。もちろんティムー軍に荒らされた影響もあるだろうが、果たしてそれだけだろうか?

 そもそもなぜ裕福で温暖な気候のティムー国が、わざわざ南下してきたのか。彼らの国にも何か生死にかかわるような問題が起きているのではないか?」


 ワイナがその言葉を聞いて、連想される事を呟いた。


「干ばつ、か……」


「おそらく、何か空や雲に関係するのではないかと私は思う。それならば、北部のアイユの不作も、ティムーが危険を冒してまで寒く乾いた土地に南下するのも納得がいく」


 それを聞いてアンコワリョが進み出た。


「私は、ティムーの国の都を一度見たことがあります。彼らは『海』という水が大地一面を覆う場所と隣り合わせに暮らしています」


「海か……」


『海』……クスコにも海で取れた貝殻などが運ばれてきて大変貴重な装飾品として扱われている。しかしワイナやカパックのように各地を遠征したことがあるのでなければ、高原に住むスーユ人の中に実際に『海』を目にした者などほとんどいない。ましてや海岸地方の暮らしなどを想像することは難しかった。


「私は海岸の国チンチャの出でございます。『海』のことならよく存じておりますよ」


 アンコワリョの話を継ぐようにクッチが言った。


「そうであったなクッチ。皆に『海』のことを詳しく説明してくれ」


 クッチはクスコから遥か西の外れにある海岸の国チンチャの出だった。

 ハトゥンの出身地コヤに頭の形を変える習慣があるのと同様、チンチャにもその習慣があり、チンチャの場合は頭頂をへこませて左右にせり出した型にするのが慣わしだった。それでクッチの頭はハート型をしているのだ。

 クッチは海を見たことの無い他の者にも分かるように説明した。


「『海』というのは、大地よりも広大な水の原です。海と大地との境は曖昧で、水は大きく大地に流れ込んできたかと思えば、また引いていくのです。平素はとても美しく多くの恵みを与えてくれます。その水を飲むことはできないのですが、われわれは水に浮かぶ舟を作って海に漕ぎ出し、海の生き物を取って生活の糧にします。それは大変豊かな恵みです。

 海の傍に造られた街は滅多なことでは海の水が流れ込まない場所にあるのですが、天候に異常が生じると、ときにその街にまで水が襲ってくることもございます。水が襲ってくればその威力は凄まじく街が瞬時に消えてしまう・・・。美しい水の原が恐ろしい魔物に変わるのです。それでも海岸に暮らすものは、そのたびに街を作り直して生き延びているのでございます」


「なるほど。山の干ばつは天候の異常。ティムーでは水の災害が起きていることも考えられる。どちらにしても広大な北部全体に異常な天気が起きているのかもしれぬな。もしそうであればティムー軍は生き残りをかけて必死なのだろう」


 ワイナは頷きながらそう言った。


「ワイナ殿、このまま進軍して北の領地を奪おうとするのはいかがなものでしょうか?

 もし憶測が正しければ相手は命がけの戦いをしかけてきます。我々にも分が悪く、さらに災害に見舞われた民の犠牲を増やすばかり」


「その通りだな。やみくもに進軍するよりも、軍隊を細かく分け、周辺の調査をすることからはじめたほうがいいだろう」



 数日後、砦の修復が終わった。

 今度は砦を基点にして、各方面に調査に向かう軍が編成し直された。

 砦の向こうには大小さまざまな部族が住んでおり、砦に近いほどティムーにもスーユにも属さない小部族が多かった。

 カパックは、北の地で何が起きているのかを知るため、砦に最も近いアイユを調査することにした。他方ワイナは、ティムーを知るアンコワリョを従え、その首都である海岸都市チャンチャンへと偵察に向かった。

 いよいよ、それぞれが未知の北の大地へと足を踏み入れていった。



登場人物


●カパック・ユパンキ(ユタ)

タワンティン・スーユ帝国(インカ帝国)の皇帝の弟。

十六歳で成人し皇帝の片腕として働く。若いが並外れた武術の腕前と統率力を持つ。

のちに将軍となりスーユの軍を率いて遠征に出る。

幼名はユタ。

ユタという名の職人と名乗り農民の娘ミカイに会いに行っていたが、

北の大遠征に出発する日、ミカイに素性を知られてしまう。


●ミカイ

緋の谷に住む農民の娘。明るく活発な少女。

首都クスコに花を売りに来てユタと出会い、ユタに想いを寄せる。

織物が得意で、薬草に詳しい。

カパックが遠征に出るときに、偶然彼がユタであることを知ってしまう。


●パチャクティ皇帝

タワンティン・スーユ帝国の皇帝。カパックの腹違いの兄にあたる。

絶対的な権力を持ち、逆らう者を容赦しない冷酷さもある。

しかしその裏で、兄として弟カパックの身を案じている。


●ワイナ将軍

古くからパチャクティ皇帝の片腕として数々の戦いを経験してきた勇敢な戦士。

カパックとともに二大将軍として軍を率いる。

カパックの武術の師でもある。


●マス大神官

太陽の神殿に仕える神官の中で最高位の神官。

カパックの左掌の痣に気付き、カパックが雷神に惑わされているのではと疑う。


●トパ皇子=トゥパック・インカ・ユパンキ

パチャクティ皇帝の次男。カパックとは皇族の中で年齢が近いため、兄弟のように育ってきた。負けず嫌いで、早く遠征に出て活躍したいと願っている。


●ワコ

カパックの母親。勇猛な女戦士。

近隣部族のキリスカチェからスーユの皇帝に嫁いだが、カパックを産んですぐチャンカ族との戦いに出征し、戦死した。


(カパックの側近)

●アリン・ウマヨック

軍の参謀として活躍する老貴族。

様々な部族の言葉が分かり、通訳として活躍する。


●スンクハ

鋭い目つきと尖ったあごを持ち、近づきがたい印象を与えるが、

常に冷静な判断力でカパックを助ける。

武器のひとつ、星型の石をつけた棍棒マカナの達人。


●クッチ

柔軟な体と敏捷性を持つ、陽気な小男。

頭頂がくぼんで左右が横にせり出したハート型の頭をしている。

スーユの西方にある国、チンチャの出身。

調査官としてたびたび緋の谷を訪れては、カパックとミカイの仲立ちをしていた。


●ハトゥン

とがった頭をした、力自慢の大男。

南方にあるコヤの国の出身。クッチとともにカパックとミカイを見守る。


●ワラッカ

小柄だが頑丈な体をもつ、無口な男。石加工の技術に優れ、土木工事などを指揮する。

武器のひとつ、投石器の達人。


●アティパイ

長い手足をもつ長身の男。

長槍の達人。


(チャンカ族)

●アンコワリョ

チャンカ一族の長。せむしの大男。

カパックに忠誠を誓う。


●キータ

チャンカ一族を率いる呪術師。

予知能力があり、カパックの運命を最初に会ったときから見抜いていた。移住した南の地で命を終える。


(緋の谷)

●大祖母さま

ミカイのアイユを見守る老婆のミイラ。人の頭の中にメッセージを伝えて会話する。人の未来を見抜くことができる。



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