封じられた夢 ~小町~
「ただいまー」
玄関に入ると、薄汚れてところどころ傷ついたトレッキングシューズが目に入った。
私の心は舞い上がった。靴を放り投げて家に飛び込む。
「お兄ちゃん! おかえりっ!」
リビングに入ると、向こう向きに置かれたソファに腰掛ける大きな後ろ姿を見つけた。ソファの背もたれに飛びついて、興奮してその背中に呼びかける。
「よかった! 無事で!」
「なんだ? それ。俺が無事に帰ってこれないとでも思っていたのか?」
のっそりと振り向いたその顔には輪郭と口の周りを一重するように無精ひげが生えていた。 艶のないぼさぼさの髪は伸び放題で、とりあえず掴んだ束をざっくりとゴムでひとつに縛ったという感じだ。拾いきれなかった髪が幾筋も顔にかかっている。
飛びつこうとしたが、饐えたような匂いが漂ってきて、手前で止めた。
「うわぁ。くっさーい」
「ひどいな。二ヶ月ぶりに会えた兄に言う言葉か?
飛行機に乗る前にホテルでちゃんとシャワー浴びてきたんだぞ」
「それって、何日前のことよ! 飛行機で隣り合わせた人はよく文句言わなかったね」
「本当よ!」
私を後押しするように、お茶を淹れてきた母が言った。
大学二年生の兄は、長い夏休みを利用して、一人旅に出ていたのだ。
いわゆるバックパッカー。
観光地などにはあまり寄らずにほとんど観光客のいない地元を歩いて回る旅だ。特に細かい行程を立てず、地図だけを頼りに旅をする。
目的はアメリカ大陸太平洋岸の縦断。北米から太平洋側の地域を南下し、南米のチリ辺りまで行ったらしい。しかし、大きなことを言っていたにも関わらず、かなり飛行機を使ってワープした部分も多いようだが……。
兄の行動に合わせて、私もすっかり地図上の位置関係を頭に入れてしまった。
この二ヶ月、大きな町に立ち寄ったときにだけネットカフェからメールを寄越すが、それ以外は何日も音信不通ということがあった。家族は心配でならなかったのだ。
「心配して毎日外務省のホームページを確認していたわよ。特に南米は地域によっては渡航禁止区域があるじゃない? どこかで迷い込んでいやしないかって、この二ヶ月ずっと胃が痛かったのよ」
「いくら気儘旅だって言ったって、そんな場所くらいちゃんと確認しているよ。普通の旅行者の何倍も注意と情報確認が必要なんだから」
兄は余計な心配に気を揉んで具合を悪くしたという母に苦笑いしながら、おいしそうにお茶を啜った。
「はあ、やっぱり日本茶は最高だぁ」
私はようやく兄の匂いにも慣れてきて、ランドセルを背負ったまま兄の隣に坐った。ランドセルくらい置いたらと母に言われたが、部屋まで行くのが嫌で、とりあえずソファの横に下ろしてまた兄に寄り添った。
「はは。小町も心配してくれていたのか?」
「当たり前でしょ!」
私が口を尖らせて言うと、兄はくしゃっと笑って私の頭をぐりぐりと撫でた。
「じゃ、お詫びだ」
兄はテーブルに置かれた荷物の山から、ビニール袋をひとつ取ると私の膝に置いた。私は飢えた子どもみたいに慌ててビニールの口を開き、中のものを探った。
派手な色のジェリービーンズやチョコレートなどの菓子が詰め込まれた袋、訳の分からないキャラクターの描かれた鉛筆の束、キーホルダー……。あまりに色々な物がごちゃ混ぜに入っているので、私はその中身をテーブルの上にぶちまけた。
ガラクタと言っていいような小物の後から、ふわふわとした真っ白な毛でできたラクダのように首の長い動物の縫いぐるみが出てきた。
「うわぁ。かわいいー」
私はその縫いぐるみを取り上げると思わず頬ずりした。真っ白な毛が優しく頬を撫でた。
「ああ、それが気に入ったの? ペルー辺りの民芸屋で買ったもんだったかな?」
「辺りって……。買った国くらい覚えてないの?」
兄のいい加減さに、今更ながらよく無事に戻ってこれたものだと背筋が寒くなった。
私はほかの物をまた無造作に袋に戻したが、その縫いぐるみだけは大事に腕に抱えていた。
夕食のあと、落ち着いて兄の土産話を聞く時間ができた。父も帰ってきて、久しぶりの一家団欒。お風呂に入った兄はようやく臭わなくなった。腕にあの縫いぐるみを抱えて、兄にぴったりと寄り添って私は土産話をわくわくしながら聞いていた。
兄はデジカメの端末をパソコンに繋いで、撮ってきた写真を見せながらひとつひとつ説明してくれた。
はじめはどの写真にも興味を抱いて話を聞いていた私だったが、さすがに二ヶ月分の膨大な量の写真を見るのは大変なことだ。半分ほど見たところで、とうとう私は兄にもたれかかって船を漕ぎ出していた。
「小町、もう寝なさい」
母に声をかけられて、ふっと目を覚まし、頭を振る。
「ううん。だいじょうぶ」
半分呂律の回らない口で返事をする私に兄も同じ事を言う。
「また、ゆっくり話してやるよ。明日も学校だろう?」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ!」
意地になって無理やり開いた目に飛び込んできたのは、雪を被った山脈に続く広大な草原と、そこにぽつんぽつんと建っている小さな石造りの家の写真だった。
「ああ、懐かしい……」
私がぼそっと呟くと、兄が急に笑い出した。
「小町、六年生にもなって、日本語の使い方が分からないのか?『懐かしい』っていうのは、前に経験したことがあるものに対して使うんだぞ。こんな場所、絶対行ったことないだろうし、日本にはありえない風景なんだよ」
「だって、そう思ったんだもの……」
「はい、はい、ネボスケさんに何を言っても無駄よ。さあ、小町、意地張っていないで寝なさい」
母は、もうほとんど目の開いていない私に早く寝るようにと促した。仕方なく、ふらふらと階段を上がって部屋に着いた途端、猛烈な眠気が襲ってきて私はそのままベッドに突っ伏して寝てしまった。
その晩、私は夢を見た。
兄の見せてくれたあの写真の草原に立っていて、心地よい風に吹かれていた。
私は腕を大きく広げて、その風を思い切り吸い込んだ。
太陽に映える雪山を遠くに望み、緩やかな丘に挟まれて広い草原が広がっている。そして草原にはぽつんぽつんと石と泥壁で出来た小さな小屋が建っている。
「懐かしい」
やはり私の頭に浮かんできたのはその言葉だった。
目を凝らすと、遠くに兄のくれた縫いぐるみとそっくりの白い動物が何頭もいて草を食んでいる。私がその動物に向かって走っていくと、彼らは驚いて顔を上げ、一瞬飛びのいたが、逃げようとせずに向かってくる私の方を見つめていた。
私がその首にとびついて頬ずりすると、ふわふわとした柔らかい毛の感触が伝わってきた。
「みんな、元気だった?」
私は動物たちに順々に飛びついていった。彼らはまったく動じないで、逆に私のことを待ってくれていたかのように、顔を摺り寄せてきた。
……目が覚めるとすでにカーテンの向こうから弱い光が差し込んでいた。私の顔の横にはあの縫いぐるみがあって、やわらかい毛で私の頬を撫でていた。
「なんだ。そういうことだったの」
ただ単に縫いぐるみの毛に触れていたことで動物にとびついた夢を見た。そしてうとうととしながら見た兄の写真が印象深くてそんな風景を夢に見せたのだろう。
そのときはそう思っていた。
数日して、兄が写真の続きを見せてくれた。あの草原の風景に、私のもらった縫いぐるみに似た動物たちがいる。
「ああ、そうだった。この縫いぐるみはこの村の市場で買ったものだよ。ペルーの高原地帯の小さな村だ。この縫いぐるみはアルパカっていうんだ。これと似たリャマっていうのがこれだ」
兄は写真に小さく写る動物たちを指差した。
「標高が高いから高山病になりかけたが、それを除いたら広々として気持ちのいい場所だった……」
私に写真の説明をしながら、自分の旅を振り返って兄は遠くを見るような仕草をした。
「確かに、『懐かしい』っていう言葉も遠からずだな」
私の奇妙な夢は一回では済まなかった。次の日も次の日も、同じ光景を夢に見たのだ。
広大な草原を走り回る夢。あの不思議な動物たちと無邪気に遊ぶ夢。
やがてその夢は、夢とは思えないほど現実味を帯びた物になっていく。風の匂い、草の匂い、動物や短い草の生えた大地の感触、空の色、山の雪の色、すべてが鮮やかに映し出される。目覚めたとき、しばらくどちらが現実だがすぐには判断できないときもあった。
そして夢が鮮やかになるにつれて、現実の生活が虚ろになっていった。
「小町、このごろ変よ。いつもぼんやりして。どこか具合でも悪いんじゃないの?」
顔色の悪い私を見て、母は心配そうに訊いた。
「どこも悪くない」
私は素っ気なく答えた。
「それにね。気になっていたんだけど、毎晩小町の部屋から笑い声が聞こえてくるのよ。お母さん気味悪くて……」
「別に何でもない。いつもとても楽しい夢を見るの。ただ、それだけ!」
母はさらに複雑な顔をした。
ついにその夢が現実の私を苦しめることとなった。
学校の帰り、ぼんやりと歩いていた私は、赤信号を無視して車道を渡ろうとし、車と接触しかけたのだ。直接車には触れなかったが、驚いて転んだ拍子に軽い怪我をした。車の運転手と通りかかった人が私を家に送り届けてくれた。
大した怪我ではないとはいえ、事情を聞いて母の顔は蒼ざめ、今にも倒れそうだった。
「小町、やっぱりあなたおかしい!
一体ぜんたいどんな夢を見ているの!ちゃんと寝られていないから、こんなことになるのよ!
早く何とかするべきだった。
お母さん、知り合いに当たって誰か催眠術かお払いが出来る人を探してくるわ」
母は早速どこからか情報を仕入れてきた。
「電車で二十分くらいの場所に有名な催眠術師が住んでいるそうなの。おかしな夢に取り憑かれた小町を救ってくれるわよ」
母はようやく救いを得たというように嬉しそうに言うが、私は少し切なかった。だってあの夢の中の風景が本当に好きで、毎晩あの世界を走り回ることを楽しみにしていたのだから。
でも、それが『取り憑かれている』ということなのだろう。
まだ幼かった私は母に抵抗する方法も分からず、母に従ってその『催眠術師』の元を訪ねた。
マンションの一角、西の角のおそらくほかの世帯より大きめに作られていると思われる部屋が、その『催眠術師』のオフィスだった。エキゾチックな衣装を身に纏い、その派手な衣装にも負けない美貌の女性が私たちを出迎えてくれた。
―― 私の世界を壊す人! ――
わたしとは違う自分が、彼女に警戒するように忠告した。
しかし、その女性は控え室らしき部屋に母を通すと言った。
「これは娘さんの問題で、彼女ひとりで解決しなくてはなりません。お母さまもご心配でしょうが、どうかここで待っていていただけますか」
親に頼らず自分のことは自分で向き合え……そう言われているような気がした。
背伸びしたい年頃の私には、一人前の人に見てもらえたことが何より嬉しかったのかもしれない。このことでまったく初対面の彼女に、私は信頼を寄せたのだ。
小さな部屋にひとり通されると、目の前に長いソファが置いてあった。私はそこに坐って身体の力を抜いて楽にするようにと言われた。ソファに腰を下ろすと、一度大きく背伸びをしてふうっと息を吐き、力を抜いたつもりになった。
『催眠術師』は、そんな素直な私の姿にクスッと微笑みながら、線香立てのようなもの、水が入ったアンティーク調の甕、聖書のように分厚くかなり年代ものと思われる本などをその周りに手際よく並べていった。
香が焚かれ辺りに匂いが漂い始めると、私の瞼は重たくて仕方がなくなった。ふと、あの『懐かしい草原』が思い浮かぶ。思わず私の目に涙が溢れてこぼれ落ちた。
「お願い。私の故郷を消さないで!」
私自身が言ったのか、誰かが言わせたのか……。私はそう叫んでいた。
美貌の催眠術師は、不思議な魅力を放つ瞳で私の顔をじっと見つめ、静かに言った。
「大丈夫。時が来ればまた必ず蘇る……」
―― 思い出したのだ。いま。
あのとき封印した『故郷』を……。
こんなときになって…… ――




