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別れ(2)



 今度の大遠征のための準備は大変なものだった。

 武具の調達。食糧の調達。進路の検討。

 ティムーに辿り着く前にも、スーユに抵抗すると考えられる部族はたくさんいる。国境の砦を越えれば、どのようなものが道を阻むのか予想もできない。軍の出発に先駆けて、砦近くの倉庫には大量の食料や物資が運び込まれ、長期戦への備えが成された。神殿には沢山の供物が備えられ、遠征の成功と兵士たちの無事を祈る儀式が何日も盛大に行われた。

 太陽神の前で遠征の成功を祈る一方、ミカイが幸せになってくれるようにと密かに願うカパックだった。


 長らくの準備を終え、大軍隊が出発する日となった。

 カパックは、胸にチャスカの押し花を入れ、ミカイにもらった帯をしっかりと腰に巻き、将軍の証である黄金の冠と仮面を被ると、部屋を後にした。


 クスコの街には、大軍隊の出発を見送ろうと押しかけた民衆がひしめき合っていた。

 大勢の兵士たちは広場に入りきれず、クスコの大通りの外れまで整然と列を作って待機している。その兵士たちを励ます声や別れを惜しむ声が、ざわめきとなって街を包んでいた。

 広場の中央のひな壇に皇帝の玉座が設けられ、大勢の従者を従えて皇帝が現れた。広場の対岸から激しい歓声が上がる。

 つづいてワイナとカパックが現れ、また歓声が大きくなった。

 カパックは跪いて皇帝から黄金の矛を受け取ると、立ち上がって今度は軍隊のほうを向き、それを天に向かって高々と突き上げた。それを見て兵士たちが一斉に雄叫びをあげ、士気が高まっていく。雄叫びと歓声がクスコの街を大きく震わせた。

 喧騒の中、カパックとワイナは、ひな壇からそれぞれが率いる軍隊の中に下りていき、出発の時を待った。


 出発の合図のほら貝が低い音を響かせると、列がゆるゆると動き始めた。

 ゆっくりとクスコの街を出て行く行列に市民たちはあらん限りの声を張り上げて声援を送る。

 先陣のワイナの軍がすべてクスコの街を出ると、続いてカパックの軍が宮殿前の広場を出発した。

 カパックの側近には、アリン・ウマヨックをはじめとして例の六人の姿があり、アンコワリョが率いるチャンカ兵数十人もこれに続く。

 長い長い列はクスコから出て、遥か彼方を目指して帯のように続いていく。軍隊の中心を歩くカパックが通り過ぎるとき、市民の大歓声はより一層、熱を帯びた。


 クスコの大通りも終わりに差し掛かり、いよいよ街を出ようという時、群集に押し出されてひとりの娘がカパックの前に転がり出た。転んだ拍子に、彼女が手にしていたピンがカパックの足元に転がってきた。

 カパックはそれを拾い上げ、驚いて娘の顔を見た。

 そのピンはカパックがミカイに託したもの。そしてそこに倒れこんだ娘は、ミカイだったのだ。


 カパックが突然アイユを去ったあと、彼女は『ユタ』を探して街中の職人を訪ね歩いていたのだった。彼女の美しい顔は疲れきってやつれ、土埃にまみれていた。


 彼女を列の外につまみ出そうとする兵士に、カパックは「待て!」と声をかけた。

 カパックは困惑した。

 まさかこんな風に彼女に会ってしまうとは思っていなかったのだから。しかし帰れるあてのない戦いに出るいま、彼女にきちんと別れを告げる時なのだと悟った。


 カパックはミカイの前に跪くと、それを握った左手をそっと差し出した。

 顔を上げたミカイが目にしたものは、差し出されたピンとそれを持つ掌に刻み込まれた『稲妻の形のあざ』だった。

 ミカイはそれを見て息を呑み、慌ててピンを受け取ると、恐る恐るカパックの姿を見上げた。

 黄金の冠をかぶり黄金の仮面をつけてその顔は分からない。しかしその腰に巻かれているのは、紛れも無くミカイの織った稲妻とチャスカの帯だ。そして彼はゆっくりと仮面を上げた。


 そこに現れたのは、まさしくユタの顔だったのだ。


 ミカイは、その姿に目を疑った。

 そして口を両手で覆い、悲痛なうめき声をもらした。


「……ユタ……なの?

 どう……して……?」


 口に手を押し当て、目を見開いたまま、ミカイはぼろぼろと大粒の涙をこぼし始めた。


 それは彼女にとって絶望的な再会だった。

 職人のユタが修行に出るところなら、ミカイはまた「何年でも待っている」と明るく約束できるはずなのに……。

 そこにいるユタは、今まさに戦地に出発しようとしている軍隊にいるのだ。そして最悪なことに、彼はその将軍なのだ。

 カパックも目の前が霞んでいくようだった。しかしいつかはこんな日がくることは分かっていたのだ。ミカイに嘘をついたときから……。

 その罪を少しでも償おうと、彼はミカイに精一杯の優しい笑顔を向けると、言った。


「さようなら、ミカイ。君の幸せを心から祈っているよ」


 それ以上は何も言葉がみつからない。きつく眼を閉じ、その場から逃げるように立ち上がると、勢いよくマントを翻して隊の中に戻っていった。

 二、三人の市民が、ミカイを腕を掴んで群衆の外へ引きずっていった。ミカイは呆然としたまま、その場に倒れこんでしまった。

 もう、何の音も、彼女の耳には入らなかった。

 



 ミカイを心配してクスコに探しに来ていた父親と弟が、往来の隅に倒れこんでいるミカイをみつけたのは、軍を見送る人がはけて街が静かになったときだった。


「ミカイ!」


「ねえさん!」


 父親と弟が抱き起こしても、ミカイはぐったりとして目を閉じたままだった。顔は、涙の跡に埃がついて真っ黒に汚れていた。 

 しかし、手にはしっかりとユタのピンが握られていた。


「ミカイ!ミカイ!」


 父親の呼びかけにうっすらと目を開けたが、その瞳は虚ろで、「ユタが……。ユタが……」と力なく繰り返して、また気を失ってしまった。

 父親たちは、ミカイを荷物のようにリャマの背中にロープでくくりつけると、緋の谷に連れて帰った。

 朝方、到着したミカイの姿を見て母親は驚き、泣き叫んだ。


「一体、なんでこんなことに?」


「分からん。ユタと会って、何かあったらしい」


 父親もそう答えるしかなかった。


 それから三日間、ミカイは目を覚まさなかった。時々うなされてユタの名前を呼ぶだけだった。

 狭いアイユでは噂はあっという間に広がる。


「あのユタという男がミカイを騙したらしい。……なんてかわいそうなミカイ」


 そんな話が勝手に囁かれていた。


 三日後、ミカイがようやく目を覚ました。それはちょうど、長老が見舞いに来ていたときだった。ミカイは母親に支えられて、やっと体を起こした。


「ミカイ。良かった。気分はどう?」


 母親が優しく訊いたが、それには答えず、ミカイは虚ろな顔で話し始めた。


「ユタが、戦争に行ってしまった……」


 また、ミカイの目から涙が溢れてきた。

 それを聞いて、長老が慌ててミカイの枕元に寄ってきた。


「なんと、ミカイ。ユタは職人ではなく兵士だったのか?」


 父親も母親も、この話に驚いた顔をした。

 ミカイはポロポロと涙をこぼして、


「もう、会えないの。もう、会えないの」


 と繰り返し、また屈みこんでしゃくりあげた。

 長老がミカイの背中を優しく撫でながら、ミカイを慰めようと言った。


「ミカイ。辛かったな。

 だが今回の軍は、我々のアイユを救ってくださったカパック・ユパンキ様が率いているというではないか。

 きっと勝利して、その兵士たちも無事に戻ってくるじゃろうて。きっと、また会えるよ」


 ミカイは、それ以上のことを言ってはいけないことは分かっていた。

 たとえ無事に戻ってきても、相手は皇族。決して結ばれる事はない。そして本当のことを知ってしまった以上、もうユタとして彼がここに来る事はないのだ。


 ミカイは虚ろな顔のまま、ずっと握り締めていた青銅のピンを指で回してもてあそんでいた。


 家の外に出て、長老はミカイの両親に言った。


「なんてかわいそうなことに。

 ああは言ったが、兵士ならばいつ命を落とすか分からない。

 ミカイにはユタのことを忘れさせるのが一番いいだろうな」


 両親も深く頷いた。





 【 第一部 完 】



 ここまでお読みいただきありがとうございました。

 



 


 北方の未知の土地へと足を踏み入れたカパックを待つものは・・

 残されたミカイの運命は・・・

 

 第二部も、引き続き、2,3日間隔で投稿していきたいと思っています。

 

 今後もどうぞよろしくお願いいたします。



 まだまだ勉強中ですので、気になる部分などありましたら、

 遠慮なくご指摘ください。

 感想等いただけたら励みになります。


  

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