別れ(1)
宮殿は不気味に静かだった。
ときどき慌てて走っていく召使いとすれ違うだけで、しんと静まり返っている。
カパックは尋常でない緊張を感じた。
急いで部屋に行き、身支度をする。髪を整え、耳の黄金版をはめ込んで、腕に銀のブレスレットを巻いていく。正装を身につけていくごとに、緋の谷での記憶がぼんやりと薄れていくような思いがした。最後に長いマントを羽織り、羽冠を被ると、カパックは高窓から空を見上げて唇を噛み締めた。
(私はスーユの将軍なのだ。はじめから農民になれるはずなどないと分かっていながら……。
ミカイ……すまない)
ふわふわと心地良い夢物語の世界を飛んでいた自分はいま、本来の場所に降り立った。ただ、言い様のない咎が、心の奥底に澱のように溜まっていくのを感じていた。
宮殿の広間に、重臣たち、ワイナ将軍、部隊の隊長たち、調査官、神官……さらに遠方の砦の伝達史まで、あらゆる要職の者たちが顔を揃えた。
それぞれ違う役職に付いていたカパックの六人の側近たちも皆顔を揃えた。
「カパック、これを」
ワイナ将軍が、各地の調査報告が編みこまれてある縄文字の束を何組か手渡した。キープは膨大な量でずっしりと重い。カパックはそれをいくつかに分けて、ひとつひとつに目を通し始めた。
縄文字は本来、キープカマヨックと呼ばれる書記官が読み上げるものだが、カパックは書記官に劣らぬほどキープを自在に操ることができる。また将軍としてその情報をどう読み解くのか、周囲のものはその判断に期待していた。
最初のキープの束は、アンコワリョたちが働くクスコ近郊の鉱山をはじめ、スーユの所有する金、銀、銅などの鉱山の報告書であった。ここ何年かの産出量の推移がびっしりと記録されていた。報告書を読み解いていくうちに、カパックは眉をしかめた。いずれも生産量が落ちてきている。
もうひとつの束には、北方にあるアイユやグランカ(アイユよりも少し大きな村)の農産物の生産量が記されている。こちらは最近になって突然ひどく落ち込んでいる。ほとんど収穫のないアイユもあった。
最後のキープは北の砦からの緊急の伝言であり、北の大国ティムーの小軍隊が、国境付近にたびたび現れ、脅威を与えているという内容だった。
「このキープを運んだ伝達史は、砦から命からがら逃げ延びてきたが、クスコで息を引き取った。砦の脅威は相当深刻なようなのだ」
ワイナが付け加えた。
カパックは、これらの報告書を揃えた皇帝の真意を見抜き、国があるひとつの重大な結論を出そうとしていることに気づいた。皇帝の正面に向き直ると冷静さを崩さずに訊いた。
「陛下。北方のティムーを手に入れるおつもりですか?」
「カパック、お前ならすぐに察すると思っておった。その通りだ。
わが国の金や銀をはじめとする鉱物は年々減りつつある。このままでは祭事の道具や武器を作る貴重な金属がいずれ底をついてしまう。
北の大国ティムーは、豊かな鉱山をいくつも持ち、金銀の細工師も他の国には無い高度な技術を持った者が多いと聞く。環境はここよりもずっと温暖で作物の実りも豊富。我々にとって、これほど魅力的な土地はない。
幸運かどうか、ティムーの方から動き出してきたのだ。この機を逃さずに、一気にティムーに攻め入り、我がタワンティン・スーユの傘下に入れるのだ」
「陛下、ティムーには以前から、同盟を結ぶための交渉に使者が贈り物を携えて何度も赴いているではないですか。今一度使者を送り、ティムー王の結論を待たれてはいかがですか。
それにティムーはスーユよりはるかに大きい国です。そう簡単に負かせる相手ではありません。
まず国境の警備を固め、そこに侵入してくる敵を追い払いながら、もう少し様子を窺ってはいかがかと」
ティムー……それはスーユのはるか北西の海岸地帯に築かれた大国で、スーユよりも古い時代から強力な勢力を誇っていた。
金細工の技術に関してはスーユなど比較にならず、金銀に溢れる大変豊かな国だ。
その周辺の部族たちはこの大国の恩恵を受けようと進んで同盟を結んだ。北方の国々はほとんどこの大国の同盟者であり、ティムーを相手にすれば、数知れないその同盟者たちとも敵対する。
南のタワンティン・スーユ、北のティムーの衝突は、大地の覇者の座をかけた大戦になることは間違いなかった。
「ティムーは自国に豊富な財産を持っておる。王がこちらの贈り物を快く受け取って、自ら我々と同盟を結ぶと思うか?
事実、ティムーからは何の返答も無い上に、小部隊がたびたび国境を脅かしに来ておる。これは申し入れを拒否したものとみなせる。ティムーは我々に挑戦状を突きつけておるのじゃ」
「しかし、わが国とティムーが敵対すれば、必ずや大きな戦争になります。多くの兵士の犠牲と、戦地となった多くのアイユの壊滅につながります。我々にとって、長い目でみれば不利に……」
「カパック。お前は戦士なのだぞ。戦うことが仕事なのだ。領土としたあとの復興は、皇帝である私が考えることだ。同行する兵士も同じ事。スーユのために犠牲になった者は、太陽神への犠牲になったのも同じ。永遠の至福を与えられるというものだ。
これを機に北方の部族すべてを統一し、タワンティン・スーユをこの大地に君臨する一大国家に発展させるのだ」
兄弟の意見の食い違いは、このときに決定的に現れることとなった。
その後カパックに意見する暇を与えず、側近が皇帝の決定を叫んだ。
「カパック将軍、ワイナ将軍に告ぐ。
各自、一万人の軍隊を率いて出征し、ティムー帝国、そして北方の部族の征服に向かうよう」
カパックは、自分の思いとは全く逆の流れに押し流されていくしかなかった。
皇帝の前で、ただこぶしを握り締めてその命令を聞いていた。
その夜、密かに会わせたい人がいると、クッチがやってきて告げた。
カパックがクッチに付いて街の外れまでやって来ると、そこにはアンコワリョが待っていた。
「カパック殿。クッチ殿から、今回のことを教えていただきました。
以前私がお約束したことを、覚えておいでですか?」
「お前たちが、私の役に立ちたいという?」
「はい。いよいよ、その時が参りました。
チャンカ人は、ティムーとの交易が盛んでしたので、私たちチャンカ人の方が、スーユ人よりも情報を持っております。鉱山の仕事についたチャンカ人たちをいったん引き上げさせ、あなたに同行できるよう、お計らいを」
「分かった。皇帝に申し入れる。アンコワリョ、頼んだぞ」
「分かりました。こちらも準備を整えてお待ちしております」
アンコワリョは満足そうに頷くと、素早く闇の中に消えていった。
次の日、カパックの申し入れにまたも皇帝は驚かされることとなった。
「何故、チャンカ人をそこまで信用するのか」
「彼らはもともと優秀な戦士です。それにティムーの情報に精通しているのです。
ティムーは手ごわい。少しでもこちらの利になるのなら、利用しない手はありません。
どうかこれだけはお許しください」
皇帝はしばらく頭を抱え込んでいたが、何度も説得を重ねるカパックに、最後には折れて頷いた。
「……分かった。
あの鉱山も今はほとんど仕事がない。チャンカ人たちの移住先に悩んでいたところだ。
軍隊を率いるのはそなただ。そなたの思うように隊を組むがよい。しかしその代わり、必ずティムー国の征服を成し遂げるのだ」
「かしこまりました」
宮殿の広間を出て部屋に戻ろうとするカパックを、凛々しい顔の少年が追いかけてきて呼び止めた。
トパである。
「兄さま! どうか私も遠征に連れて行ってください。
稽古でいくら腕を磨いても、戦いを経験した戦士には敵いません。この機に、私も本当の戦を経験したいのです」
トパは真剣にカパックを見つめた。
「トパさまはまだ若過ぎます。成人の儀も終えていない。もう少しお待ちになってください」
しかしトパは譲らない。その性格は父の皇帝によく似ていた。
「いいえ。もう立派に戦えます。どうか」
カパックは、トパになんとか思いとどまってもらいたくて、説明した。
「トパさま、貴方はスーユの第二皇子です。
皇帝陛下に万一のことがあれば、皇太子アマルーさまとともにこの国を守らなくてはなりません。しかしアマルーさまはお体が弱い。最後にスーユを守れるのは、トパさま、あなたしかいないのですよ。
今回の遠征は今までのものとは全く違います。クスコに戻ってこられる保障はないのです。
スーユのために、どうか思い留まってください」
トパ皇子は悔しそうにうつむいた。
カパックはトパ皇子の肩を強く掴むと、
「兄上……皇帝陛下とスーユのことをよろしく頼みます」
と言って微笑み、自分の部屋へ戻って行った。トパはまだ納得できずにその場に立ち竦んでいた。