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雷神(2)

 季節は雨季を迎えた。

 緋の谷のアイユでは、芽吹き始めた畑の手入れや新しい畑の耕作で、皆忙しく働いていた。

 カパックはアイユを開墾したときに建てた労働者の宿舎にしばらく滞在し、アイユの農作業を手伝うことにした。


 晴れた日には、男たちは朝早くから日暮れまで総出で畑に繰り出した。芽を出した作物の手入れをし、さらにこれから植えつける作物のために新しい畑を耕す。

 女たちは夏毛に替わるアルパカの毛を取って糸を紡ぎ、その糸を色とりどりに染めて布を織る。

 厳しい労働でも、アイユの明るい仲間たちと一緒に働いていると、充実感に変わる。そして一日の労働を終えれば、夜は焚き火を囲んでアイユの男たちと酒を酌み交わし、陽気に歌って踊り、疲れをほぐす。

 雨の日は、共同のテントの下で雑談をしながら農具の手入れや種の選別を行う。

 そんな仕事も無い日には、暇をもて余してミカイとふたり、大祖母の祠でのんびりと一日を過ごしていることもあった。


 カパックはすっかり緋の谷のアイユに溶け込んでいた。

 ゆるやかに穏やかに緋の谷での時間は流れていく。そんな生活が、悩み苦しんでいたカパックの心を徐々に解きほぐしていった。


 ミカイは、相変わらず美しい模様を織り込んで帯やケープを作ってはユタに贈った。

 アイユのものたちは、ふたりの仲むつまじい様子をほほえましく見守っていた。

 どの村人も、当然二人がもうすぐ結婚するものだと思っているのだった。


 しかし、幸せな時を過ごせば過ごすほど、カパックの心の奥底に抗いがたい罪悪感が募っていく。

 いつかはミカイに本当のことを話さなければならない。しかし、そうすればこの夢のような時間がすべて崩れ去る。愛しいミカイとも離れなくてはならない。


 もう少し、あと少し……。


 どんな敵にも怖れを感じたことなどないカパックであっても、このかけがえのない時間を手放す勇気はどうしても湧かなかった。



「農民になりたいな……」


 畑仕事を一休みしているとき、カパックがミカイにボソッとつぶやいた。


「ユタ。自然の好きなあなたには、職人より合っているかもしれないわね」


「ミカイはこの土地が好きかい?」


「ええ、好きよ。だってこの土地しか知らないもの。

 でも私はいろいろな場所を知ってみたいわ。ユタが話してくれた南の国とか、もっともっと違う世界を見てみたい」


「このスーユがもっと大きな国になって遠くまで道がつながり、誰でもいろんなところへ行けるようになったら、ミカイは行ってみるのかい?」


「そうしたら素敵だわ!」


 ミカイはまるで夢でも見ているように嬉しそうな顔で両手を合わせて空を見上げた。

 はるか向こうに見える山脈は頭に白い万年雪をかぶって高く聳え、その向こうにある未知の世界は素晴らしいよとでも誘うように光り耀いていた。

 空に大きなコンドルが舞って、高い山をゆうゆうと越えていく。


「鳥はいいわね。どこへでも行けて」


 小さくなっていくコンドルの姿を目で追いながら、ミカイが言った。


「あの鳥の行く北の方にはどんな場所があるのかしらね?」


「さあ……。

 北は暑く乾いた土地が多いんじゃないかな? 太陽に近いからね」


「太陽?

 じゃあきっと太陽の下には、神様が集まる国があるんじゃないの?」


 ミカイが夢のようなことを思いついて、目を耀かせてカパックを見た。

 カパックは驚いた顔をしてミカイを見る。


「ミカイ。君の考える事は壮大だね。そんなこと、普通の人では思いつきもしないよ」


 カパックはミカイの想像力に感心していた。


(北か……考えたこともなかったな)


 小さなアイユで穏やかに地道に働くことを望む将軍と、知らない世界を見ることに夢を抱くアイユの娘。

 二人は立場も夢見ることもまるで正反対だった。




 カパックが緋の谷に行っている間に、宮殿で小さな事件が起こっていた。

 ある日、スーユ北端の国境を護る砦から伝令を持って伝達史(チャスキ)がやってきた。

 伝達史(チャスキ)は砦と都を頻繁に行き来している。それ自体、別段変わったことではないが、問題はそのチャスキが体中に傷を負い、瀕死の状態で都に辿り着いたということだった。

 チャスキは宮殿に、砦からの伝言を記した縄文字(キープ)を届けると、こと切れた。宮殿の重臣たちは書記官に命じてその縄文字キープを読み解かせると、その内容を知らせに皇帝のもとに走った。

 皇帝はその伝言を聞くと難しい顔で考え込んだ。


「すぐに遣いをやって、他の地域の情報も集めるように。その報告が集まった時点で再び会議を開く」


 重臣たちは皇帝の命令を受けて、すぐさま手配を始めた。

 今まで平穏だった宮殿が急に騒がしくなったのだ。




 霧雨に煙るある日、アイユの外れの新しい土地の開墾を手伝っていたカパックは奇妙なものを見つけた。

 くすんだ白色をした石灰石のようだ。

 湿った土を払うとそれは見た目よりも大きく、大部分が土の中に埋もれている。何故か気になって、カパックはその『石』を土の中から掘り起こした。

 それを手にしたカパックは震えた。それは人の頭蓋骨だ。

 慌てて近くで作業をしていたアイユの男を呼んで、それを見せた。男は涼しい顔で言う。


「ああ、ここがそうか。これ以上畑を拡げることはできないな。諦めるか」


 いったい、どういうことなのかとカパックが聞くと男は答えた。


「ここは緋の谷と『死の野原』の境さ。ここから向こうは、スーユとチャンカの激戦が行われた場所なんだ。ちょっと掘るとこんな骨がわんさか出てくるぞ。

 『死の野原』は土地の守り神(ワカ)も破壊され、神々に見放された呪われた土地だ。下手に入ると恐ろしいことになる」


「この荒地が戦場だったところなのか……」


「ああそうだよ。わしらのアイユ一帯がどうして『緋の谷』と呼ばれたか、知ってるかい?」


「夕陽に染まる美しい土地だからと思っていたのだが……」


「違うよ。緋の谷の緋色は血のことだ。死の野原から逃げ延びた多くの戦士が血を流しながら通ったからさ」


 カパックの手から落ちた骨が、乾いた音を立てて転がった。

 白いもやの向こうまで果てしなく続く灰色の大地を見渡してみる。耳元に強く吹きつける風の音が、泣き叫ぶ声に聞こえてくる。


(この荒地のどこかに母が眠っているのかもしれない)

 


 その帰り、カパックは大祖母の祠を訪ねて行った。

 あの戦の時代から緋の谷を見守ってきた大祖母なら、母親のことも知っているかもしれない。そう思ったのだ。

 祠の簾を上げると、大祖母は来客を待ちかねていたかのように声をかけた。


『やはりいらっしゃいましたな』


「大祖母(ぎみ)、私が何故ここに来たのか解るのか?」


『貴方が何かをお聞きになりたくていらしたということは解りますが、どうやら私に答えられることはあまりないように感じますな』


「チャンカとの戦があったとき、ここで戦ったかもしれない私の母を……キリスカチェ人の女戦士、ワコをご存知ではないか?」


『私は、生きていた時分よりただの農民にすぎませぬ。この姿になって多少人の心を見抜く力を授かりましたが、農村の人間には変わりませぬ。その私に、皇族(インカ)や戦士のことが詳しく分かるとお思いですか?』


「…………」


『ただ……。

 あの戦いの凄惨さは、脳裏に焼きついております。死の野原での人間のものとは思えぬ叫び声、大地を踏みならす音。そして、逃げ延びて戻ってきた戦士たちの目を覆いたくなるような姿。この祠からでもその様子は分かりました。村人も戦士も私に救いを求めにやってまいりましたゆえ……。

 戦いは、この土地ばかりでなく、もっと広大な西の大地でも行われたと聞いております。死の野原のような土地は、ほかにも無数に存在するのです。

 貴方の母上を直接は存知あげませんが、緋の谷に逃げ延びた戦士の中には女たちも多くいたことを覚えております。緋の谷で亡くなりこの土地に葬った者もおりました』


「私の母は、緋の谷か、死の野原で眠っているのかもしれない」


『そうかもしれませんな……。

 しかし、インカの御子よ。母の面影に囚われてはなりませぬぞ。

 あの戦いがあってスーユがこの一帯に平和をもたらし、そして貴方の活躍があって、今こうして緋の谷が生き返ったのでございます。それは緋の谷の運命。そして貴方の運命。

 人には、そのときどきに進まなければならない道がございます。過去に囚われては先には進めませぬ。どうかそのことをお忘れになりませんように』


「私は、運命に従って先に進まなければならないということか」


『運命の道筋は変えられませぬ。

 しかしその人の強い想いが、その道筋に花を添え、実りを与えることでしょう』




 それから数日経って、カパックの緋の谷での穏やかな日々は、突然終わりを告げることになった。

 その日、クッチが作物の調査の振りをしながら密かに皇帝からの伝言をもってきたのだ。


「陛下がカパックさまをお探しです。至急宮殿にお戻りください。

 何か大変深刻な事態が起きているらしいのです。他の大臣や貴族たちも急遽大勢召されております」


 悪い予感がした。


(ここには二度と戻ってこれない……)


 自分の中でそんな確信を得ていた。

 いつもなら「また来るよ。」と自然に出る言葉を、今回は決してミカイに言ってはいけないように思うのだ。しかしミカイを目の前にしたら、この気持ちを誤魔化してまた約束を交わしてしまいそうだ。だからと言って『もう会えない』などと、彼女に向かってとても言えそうにない。

 このままユタが消えて二度と戻って来なければ、しばらくは辛くてもいつか忘れてくれるだろう。それが一番彼女を傷つけない方法かもしれない。


 結局カパックは、ミカイに渡してもらうように、宿舎の仲間に青銅のピンと葦笛を預け、「ユタが『さよなら』と言っていたと伝えてほしい」と伝え、夜の明け切らないうちに緋の谷のアイユを去った。


 ミカイが朝一番にユタに持っていこうと、前の日に織った帯を持って眠っている間に……。


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