雷神(1)
ガグッ!
鈍い音が響いて腕に衝撃が走る。
頑丈な板に厚い皮と布を幾重にも重ねた盾が見事にまっぷたつに割れていた。
「トパさま!」
うずくまる少年にカパックが慌てて駆け寄った。カパックと同時に、傍で見ていたスンクハも駆け寄る。
「っつぅ……」
少年は手首を押さえて苦痛に呻いている。斧がかすめた跡から血が滲んでいる。
しかし、痛みだけではない悔しさが少年の顔を歪めていた。
「兄さまが本気を出したら、私など到底敵わない!」
「す、すみません! トパさま。私は何ということを……」
カパックはトパの手の傷を押さえながらひどく動揺した様子で言った。
トパ皇子はカパックに斧の稽古をつけてもらっていた。いつもの合わせ稽古で、カパックは決して本気になって攻撃することなどしない。トパに疲れが見えてくるとわざと手を抜いて彼に花を持たせてやるくらいだ。
しかし今日のカパックは何かに気を取られていた。始めのほうはどことなく稽古に集中しておらず、トパに押され気味になっていた。そして勢いづいて向かってきたトパに、突然本気で斧を振るってしまったのだ。
しかも、稽古のために斧を合わせるのではなく、まず防御のための盾を打ち砕くという、本当の戦で敵の命を狙うための攻撃を仕掛けてしまった。本当の戦いならば、盾を砕いて素早く相手の首を狙い、命を奪っていたところだ。つまり瞬時にトパの命を狙っていたことになる。カパックが我に返るのが遅ければ、取り返しのつかないことになっていた。
「とにかく、手当てをいたしましょう。あちらへ……」
スンクハがトパの身体を支えて手当てを受けさせるために連れて行こうとすると、カパックも慌ててその後を追う。スンクハはカパックのほうを振り返って厳しく言った。
「カパックさま、大変お疲れのご様子が見られますよ。これ以上無理をなさってはいけない。
トパさまのことはわたくしに任せて、お部屋に戻って休まれたほうがよろしい」
スンクハの言葉にトパも頷いた。
「私がご無理をお願いしたばかりに。どうかしばらくお休みになってください。私のためにも。
私もまだ命が惜しいですからね」
そう付け加えて笑ったトパを見て、カパックはそれ以上ふたりに付いていくことができず、まだ動揺が収まらない様子でふたりを見送った。
トパの傷は薬師を呼ぶほどでもなく、スンクハは皇子を部屋まで送って手当てをしてやった。
手当てをしながら、スンクハがトパに語りかけた。
「いやはや。カパックさまほどの方でもあの病には勝てないらしい」
「病? 兄さまは何かご病気を患っていらっしゃるのか!」
トパは驚いて大声を出した。
「ご心配には及びません。時が経てば自然と良くなる。
カパックさまの病は、恋の病ですゆえ」
「こ、い、だと?」
トパの声が急に裏返った。そして口をあんぐり開けたままスンクハを見つめた。
その様子を見てスンクハが高らかに笑った。
「やはり皇子も意外に思われますか」
「当たり前だ! 私の苦労は何だったのか!」
「苦労?」
急に声を張り上げた皇子の言葉を不思議に思ってスンクハが訊いた。
「そうだ! これまで私が兄さまと親しいことを知っている女きょうだいや宮殿内の姫たちから、どれだけたくさんのサンダルを託されたか。直接本人に渡せばいいものを、わざわざ私を通して兄さまに気持ちを伝えてほしいと頼むのだ。
私は兄さまがそのようなことを好まない、ときに不快な顔をされることを知っているゆえ、そのサンダルは私の部屋に置いておくしかなかった。お陰で部屋が女物のサンダルで埋まりそうになり、慌てて宮殿の隅で燃やしたのだぞ!
このようなこと、側仕えにも頼めないからひとりで!」
この国の慣わしでは、男女はお互いのサンダルを交換して結婚の証とする。その慣習から、宮殿の女性たちの間ではどうやら、意中の相手にそっと自分のサンダルを渡して告白するのが流行っているのだろう。
それにしても……まだ年少ながらもパチャクティ皇帝の跡継ぎと目される有能な皇子が、宮殿の隅でひとり山のようなサンダルを燃やしていたとは……。
スンクハはついクックと笑いがこぼれてしまった。
「笑い事ではない!
あれだけ宮殿の女性の話題を集めておきながら、まったく女性に興味のなかった兄さまが、恋の病などと……。 サンダルを託した姫たちが知ったら大事になるぞ。
それで、相手はどなたなのだ? 私のきょうだいか? それとも遠縁の姫か?」
「そこまではわたくしにも分かりかねます。ただカパックさまのご様子からそう察したまでのこと」
スンクハは冷静に答えた。
「兄さまはいつまであのご様子なのだろうか。私の稽古はしばらくお預けになりそうだ」
トパががっくりと肩を落とした。
「皇子、上官のおかけしたご迷惑はわたくしが代わって償わせていただきます。マカナの稽古でよろしければ、お付き合いさせていただきますよ」
トパの顔が急に晴れた。
「そうか。マカナの達人が教えてくださるなら、こんなに有難いことはない」
緋の谷から戻ってきて以来、カパックはずっとふさぎこんでいた。
ミカイが怖れた左掌のあざは夜な夜な怪しい光を放ち、カパックの心を悩ませた。
(雷神の祝福を受けた自分の存在は、一体、何を意味するのだろう。
忠誠を誓った六人の側近たち。
自分に力になりたいと言ったチャンカの首領アンコワリョ。
新天地に希望を見出した移民たち。
キータの言葉。
美しいコリャ・スーユの風景。
復活した緋の谷のアイユ。
……愛するミカイ……)
いろいろな人の顔や風景が、カパックの脳裏に浮かんでは消えていった。
それは、白い月が明るく照らす晩だった。
カパックは宮殿の中庭に立ち、中庭の空から差し込んでくる月の明かりを見上げていた。そして例の左手をそっと上げると、掌を自分に向けて月と重ね合わせるようにかざした。
月の明かりを背にした左手は黒い影になっている。しかしその中心にある稲妻の模様は、相変わらずぼんやりと青白く光っている。今度は掌を月に向け、月を掴むように大きく広げて叫んだ。
「月よ!
私は一体何者なのだ。教えてくれ!」
カパックはそのまま左手を右手で握り締めると、中庭の端にうずくまり頭を抱えた。
そのとき中庭にもうひとつの人影があった。
宮殿の用を終え、太陽神殿へと帰る途中の大神官マスであった。
欠伸をしながら中庭に面した回廊を歩いていたマスが、ふと中庭の向こうを見遣ると、ひとりカパックが立っている。天を仰いで左手を上げている彼の様子を訝しく思ったマスは、立ち止まって目を凝らした。そしてカパックの掌が上に向けられた瞬間、「うぐっ」と声にならない叫びを発し、そのまま手を口に押し当てて走り去った。
宮殿を飛び出し、走って走って太陽の神殿へと勢いよく駆け込んだマスは、太陽神の像の前でぜぇぜぇと荒い息を吐いた。そして狂ったように祈りの言葉を唱え続けた。
(なんという、恐ろしいことだ……)
太陽に仕える神官にとってその光景は、悪魔の姿を目撃したのと同じくらいおぞましいことだった。
―― 太陽の子孫であるはずの皇族が、自らの手に刻まれた稲妻の印を月にかざしていた。
そして月に向かって呪いの言葉を唱えていた! ――
マス大神官はこの夜の出来事以来、カパックに疑念を持ち、常にカパックの様子を窺うようになった。
神官の中で最も権力のあるマスが疑念を抱いた瞬間から、カパックの運命は大きく変わっていく。
しかしその時には、そんな運命が待ち受けていることなどカパックには知るよしもなかった。
「お届け物です!」
もう季節も変わり始める頃、ふたたびクッチがカパックの部屋の高窓から顔を出した。あり得ない場所から突然やってくる訪問客にはいつも驚かされる。
「お前は、突然現れて私を脅かすのが楽しいのか?」
カパックは早なりしている胸に手を当ててあえぐように言った。
「まあ、それもありますがね」
クッチは高窓を飛び越えて入ってくると、カパックの反応を楽しんでからかった。
「それより早くこれを渡さないと、キーキーとあの娘に小言を言われますんで……」
差し出したクッチの手には細長い帯が握られていた。
「ミカイからか?」
「もちろん。他に誰がいます?
クスコの見習い職人は、ちっとも約束を守らないと言ってプリプリしておりましたぞ。見習いとはいえ金細工師の仕事は忙しいのだと、言いわけまでしてきたんですから。感謝してくださいよ!」
帯を広げると、そこには稲妻の模様が色とりどりに織り込まれてあり、その稲妻の模様の間には、チャスカの花をかたどった模様が施されていた。
「ほう、見事なものですなあ。気が強くてやんちゃな割には器用な娘ですわ……」
クッチが覗きこんで、えらく感心している。
しかし次にはキッと睨むように顔を上げると、カパックに叫んだ。
「しかしカパックさま。考えてみればあまりにも無礼な話ではないですか!
たかが小さなアイユの娘が、こともあろうに皇帝の遣いである調査官に、一介の職人の見習いとの恋仲を取り次げとは」
カパックは吹き出した。
「それもそうだな。なんと無礼な娘だ。
クッチ、お前にはもう面倒はかけないよ」
カパックの心は、急に晴れやかになった。
帯に織り込まれた、稲妻と星の花の組み合わせ。
(自然はすべて、ひとつにつながっている。
雷神のあざを持っていようと、私は太陽の敵などではない。恐るべき存在などではない。
すべて自然の流れのひとつなのだ)
カパックは、側仕えの者にしばらく留守にすると言い残し、緋の谷のアイユへ向かった。
緋の谷に着くとまっすぐにミカイの家を訪ねた。
突然の訪問に驚くミカイに、カパックは言った。
「しばらくアイユの畑仕事を手伝いにきたんだ。労働者の宿舎に滞在するよ」