再会(4)
二人はカルデラを見下ろす岩場で火を焚いた。
かがり火の明かりよりも月は明るく耀いて、チャスカの花の色を美しく際立たせている。ひとつの毛布に身を寄せると、二人は言葉もなく夢のような光景を眺めていた。
しばらくしてふと毛布の端のほつれを見つけたカパックが何かを思いついた。
それをうまく引き抜くと、長い毛糸を彼は器用にくるくると巻いて結び目をこしらえていく。同じ毛糸にいくつかの結び目が出来上がると、また一本引き抜いて違う形の結び目を作っていく。そうやって結び目をつけた糸が何本か出来上がると、それらの上端をほかの一本に結び付けてつなげた。結び目をつけた数本の糸が、きれいに並んで垂れ下がった。
「これは、何なの?」
「これは、縄文字さ」
「縄文字?」
「ああ、クスコの役人が使っているものさ。この縄文字には私たちの話している言葉が込められているんだよ。役人はこれを使って遠くの地域の様子を知るんだよ。大事な記録が記されたたくさんの縄文字を持って、伝達史が早足で伝言を運ぶんだ」
「言葉なの?これが?」
「そうさ。親方に縄文字の知識があってね。私も教わった。
これでミカイへのメッセージを作ってみたんだよ」
ミカイは差し出された縄文字を膝の上に広げると、カパックが結んでいった順にその結び目を指でなぞっていった。
カパックは、ミカイの手に自分の手を重ねて、まるで盲目の人に形を教えるように、結び目をなぞらせながら意味をひとつひとつ教えていった。
「きみ……チャスカ……はな、わたし……きぼう……」
ミカイにはさっぱりと意味が分からなかったが、カパックと一緒にゆっくりと言葉を繰り返していくうちに、ひとつの文につながっていくことを知った。
『きみは、私の、チャスカの、花。私の、希望の、光……』
ミカイはその意味が分かると、嬉しそうにカパックを見上げた。
「ありがとう。ユタ!」
輝くような笑顔を向けるミカイの耳元に思わず顔を近づけて、カパックはミカイには馴染みのないであろう都のことばで囁いていた。
『Qan ta munakuni,
Tukuy sonqoywan munakuyki.
K’acha chaska sipas, mikay』
(君を愛している。心の底から。美しいチャスカの娘、ミカイ)
ミカイはカパックの言葉が解ったのだろうか。それに答えるように言った。
「私もユタが大好きよ」
明るくて優しいミカイ。
はじめは好奇心で声をかけたのに過ぎなかったかもしれない。しかし、彼女の天真爛漫な笑顔は、多くの束縛の中で暮らす自分にまったく違う世界を見せてくれた。
彼女の笑顔が自分に希望を与え、どんな試練も乗り越える力をくれた。遠い南の地でも彼女の笑顔を思い浮かべ、いつか彼女に会えるという希望があったからこそ厳しい旅を乗り越えることができた。離れたからこそ、かけがえのない彼女の存在に気付いたのだ。
そして幼く無邪気だった彼女の笑顔は、今は穏やかで美しい女性のものに変わって自分に向けられている。
カパックはミカイをしっかりと腕の中に抱え、その顔を引き寄せて唇を寄せた。
一瞬、ミカイは躊躇って身を引いたが、カパックの眼に映る小さなかがり火をじっと見つめ、ふたたびそっと顔を寄せると自ら唇をカパックのそれに重ねた。
まだ乾季の明け切らない山の夜は耐え難いほどに冷え込む。しかしふたりにはその寒さなど感じられなかった。
月に反射したチャスカの花の色とかがり火の色が、二人の姿を小さな炎のように仄かに照らし出していた。
どのくらい時が経ったのだろうか。月が中空に掛かるころ、ザワザワと強い風が吹いてきて、カパックの腕に抱かれて眠っていたミカイは目を覚ました。
しっかりとつないでいるふたりの手を、しばらくぼんやりと眺めていたミカイだったが、突然驚いて叫び声を上げた。
「ユタ。これは、何?」
ミカイはカパックの手首を掴んでグイっと上に引き上げ、彼の掌を月の光であぶりだすかのようにゆっくりと回し始めた。
カパックの左の掌に大きな稲妻型のあざがある。それが月の光に呼応するように自ら青白い光を放っているのだ。
「ユタ、あなたは一体誰なの……?」
カパックは、突然知られたくない秘密を暴かれて動揺したが、出来る限り平然を装って答えた。
「……これは作業の時に怪我した痕だよ」
「違うわ。月が教えている。これは普通の怪我のあとじゃない」
信心深いミカイは、それが禍々しいものを意味すると思い込んでいるようだ。すっかり怯えてカパックの言葉など聞こうとしなかった。さっとカパックから身を引くと、凶暴なプーマを見るような目で彼を睨んだ。
「ミカイ。どうしたんだい?」
「あなたは、雷神なの?」
「違う! 普通の人間だ!」
カパックは必死で首を振った。
「でもそれは雷神の印でしょ? ただの怪我の痕ではないわ!」
カパックは何か言おうとしたが、言葉を飲み込み、悲しげな目をミカイに向けた。
そして今度は自分で掌を月にかざして、まじまじと眺めた。
どの方向に向けても、その不気味なあざは、月に反応するように青白く浮かび上がった。
しばらくそうしているうちに自分でも恐ろしくなってきて、左の手を右の手できつく包み込み、やっとのことで口を開いた。
「…………実は。
南へ行く途中、雷に遭った。手に稲妻が当たって気を失い、生死を彷徨った。回復したとき、一緒に旅していた占い師が、このあざのことを『雷神の祝福だ』と言っていた。
しかし君が、これがあることで私を怖れるのなら、私はこの手を切り落としてもいい。本当だ」
カパックの真剣な様子をじっと見つめていたミカイは、『手を切り落とす』という言葉に驚いて、ワッと泣き出した。
「疑ったりしてごめんなさい。ユタはユタなのに」
ミカイは嗚咽しながら、自分で自分を納得させるように続けた。
「それにイリャパは、作物を実らせる神だもの。怖いはずないわ」
それからまたそっとカパックに近づいていって、ぎこちなく肩にもたれかかった。しかしミカイの体は、まだそれを拒否するように小さく震えていた。
カパックはため息を大きく吐いて目を閉じ、ミカイにも自分にも「大丈夫」と言い聞かせるために、ぎゅっと力を込めてミカイの肩を抱いた。
月の明かりに照らされたチャスカの花は、そんな二人を慰めるように風に揺れ、優しい光を放っていた。
次の日、日の出とともに二人は山を下りた。しかしその道すがら、二人は一度も言葉を交わすことはなかった。ただ黙々と、緋の谷のミカイの家まで歩き続けた。
弟の具合は思ったよりも良くなっていた。ミカイは早速チャスカの花を煎じて、湿布を作り始めた。カパックは父親の手伝いをさせてもらえるよう自ら願い出て、納屋で藁を編んだり作物を運んだりしていた。
山を下りてから二人が口をきかないのを不思議に思って、母親がミカイに尋ねてきた。
「どうしたの、ミカイ。ユタとけんかでもした?」
「いいえ、疲れただけよ」
ミカイは、引きつったような笑いを浮かべて母親をかわした。
その次の日、ミカイは街へ帰るカパックを送って行くために一緒に家を出た。二人のことを気にしていた母親は、ほっとひと安心して笑顔で二人を送り出した。
しかし、やはり途中まで二人は言葉を交わすことは出来なかった。
黙って並んで歩いていた二人だったが、緋の谷の外れに着いたとき、ようやく決心したようにミカイが口を開いた。
「ユタ。私、信じることにしたわ。
あなたは万能の雷神なの。だからいつでも私を見守っていてくれる」
自分の言葉に自分で頷いて、ミカイはいつもの笑顔を取り戻した。
「ミカイ、私はただの……」
「いいの。そう思うことにしたの。
だって、あなたが来てから緋の谷のアイユは栄え、皆活き活きとして働くようになった。偶然なんかじゃない。
何よりも、私が誰かを大事に思う気持ちを知ることができたのだもの」
ミカイが晴れ晴れとして言い放つ一方で、カパックはこんなにも純粋なミカイに嘘をついている自分がとても醜いものに思えた。
「また、逢いに来て」
以前と変わらない無邪気な仕草で、ミカイはカパックの手をぎゅっと握りしめた。
カパックはミカイの笑顔に救われて、いつものように返事を返した。
「分かった。約束するよ」
カパックは笑顔で大きく手を振り、丘の向こうに消えていった。
ミカイはカパックの姿が見えなくなっても、いつまでもそこに立って手を振っていた。




