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再会(3)



 ミカイの家では、走り回っていたあの小さな弟たちが、みな父親と一緒に畑に出ていて、シンと鎮まりかえっていた。ゆりかごに寝ていた赤ん坊はミカイによく似た女の子で、もうよちよちと歩き回っていた。

 ミカイの母親はカパックの姿を見ると、大喜びで飛びついてきた。


「まあ、ユタ!修行に出ていたんですって?

 お帰りなさい。大変だったでしょう。

 でもまあ、なんて逞しくなったこと! ますますいい青年になったわねぇ!」


 まるで彼の母親であるかのような喜びようで、彼の胸や腕を両手でパンパンとはたいた。母親の記憶のないカパックは心がほんわりと温かくなるのを感じた。戦士だったという母は、こんな風に素朴に息子の成長を喜んでくれただろうか?


 夕方になって、畑に出ていた父親と弟たちが帰ってきた。

 しかし弟の一人が片足を引きずりながら入ってきたのだ。


「どうしたの?」


「間違えて、自分の足に鍬を打ち付けてしまったんだ」


 弟はゆっくりと敷き藁に横になったが、まだかなり痛むようでときどき苦痛に顔を歪めた。打ち付けた足の甲が、穴が開いたように窪んで血が滲み、見ているだけで痛々しい。

 弟を寝かせると、父親がカパックに気付き「久し振りだな。少年」と、相変わらずの口調で短く言った。

 カパックは軽く頭を下げて挨拶したが、ケガをした弟が苦しそうにうめくのを聞いて、またそちらに気を取られて顔をしかめた。


 ミカイは母親とともに弟の手当てに忙しくなってしまい、カパックはただオロオロすることしか出来なかった。


「湿布薬が足りないわ」


 ミカイがため息をついた。その言葉を聞いてカパックは、ミカイがくれたチャスカの花束を思い出した。


「ミカイ。私がもらったあのチャスカの花を家から取ってくるよ」


「ありがとう、ユタ。

 でもあれだけでは足りないの。それに傷が深いときは摘んだばかりの花が一番いいって大祖母さまは言ってたわ。私、山に行って取ってくるわ」


 ミカイは母親に許しを請うように向き直った。


「ダメよミカイ。この時期ではかなり高いところにしか咲かないのでしょう?」


 母親は止めるが、ミカイは聞き入れない。


「大丈夫よ。私は山に慣れているもの」


「お願いよ、ミカイ。

 お祭りの前に麓近くで取ってくるだけでも心配なのよ。あんな岩だらけの危険な山。

 それなのにそのもっと奥なんて。おまけにまだ雪があるじゃないの」


「分かったわ。だったらユタに一緒に行ってもらう。それならいいでしょ?」


 父親も母親も、カパック自身も、ミカイの突然の思いつきに戸惑った。


「ユタ。しばらく仕事休める?」


「……それはなんとか……」


心配そうなミカイの両親に目を遣りながら、カパックは小さく返事をする。


「じゃあ一緒に行ってちょうだい。

 頂上までは一日。戻ってくるには二日かかるから、それまであるだけの湿布で何とかしのいでね」


 一方的に事を決めるミカイに、怪我をした弟自身も困惑しているようだ。


「姉さん、そこまでしなくても大丈夫だから……」


「この村でいちばん病気や怪我に詳しいのは私なのよ。その怪我は、そのままにしておいたら歩けなくなるわ。

 私のことなら大丈夫。あんたは余計な心配はしないで寝ていなさい」


 ミカイがあまりにも張り切っているので、誰もそれ以上反対することはできなかった。


 

 次の日の朝早く、二人分の食料を持って、ミカイとカパックは出発しようとした。

 山はまだ真冬だ。

 母親は二人を引き止めて、ありったけの服やケープを着込ませ、リャマの毛皮で出来た丈夫なサンダルに履き替えさせた。その上、大きな毛織の毛布を持たせた。


「ユタ、頼んだわ」


それでもまだ心配そうに、母親がカパックの手を握った。


「はい、分かりました」


 緋の谷の平原の遥か向こうに、剣のようにそびえる険しい山々。ミカイは、太陽の祭り(インティ・ライミ)の前に、山の中腹辺りでチャスカの花を摘んでくるそうなのだが、時期が遅いのでチャスカはもう山頂付近にしか咲いていないそうなのだ。

 これから険しい山を登るというのに、ミカイは小さな子供のようにはしゃいでいた。


「私は随分小さい頃から登っているのだから、本当はひとりでも全然心配ないのよ。

 でもここのところ、父さんも母さんもやけにうるさくて」


「年頃の娘に何か事故でもあったら、大変だからね」


「ユタがいてくれて良かった。山に登りたくてうずうずしていたのよ」


「弟のためじゃないのか?」


「もちろん弟のためよ。でも折角だからユタに見てもらいたい場所があるの」


 カパックは呆れ顔でミカイを見たが、ミカイは気にせずに笑顔で弾むように歩いていった。


 いよいよ道は山の中へと入っていった。

 ミカイは慣れているだけに、足場の悪いところでもひょいひょいと登っていく。麓に近くても雪はまだかなり残っている。ミカイは器用に雪を避けて、岩から岩へと飛び移る。


「ミカイ。そんなに急ぐと危ないよ」


「やだ。職人よりはずっと山には慣れているのよ」


 南方の旅ではここよりも遥かに厳しい断崖を登ったカパックだが、ここではミカイを立てて自分はゆっくりと景色を楽しみながら登ることにした。

 木々の間から緋の谷のアイユが箱庭のように小さく見える。遥か彼方にクスコの石の城壁も見えている。


「天空にいるみたいだな」


「そうでしょ。まるで自分が神様に近づいたような気持ちになれるのよ」


 山の中腹で、少し開けた場所に出た。岩場に背の低い草が生えているだけで木々が無く、下の様子がはっきりと見渡せる。二人は、そこでいったん休憩することにした。


「いつもはね、この辺りでチャスカを摘むの」


 確かに、大きな岩の陰にチャスカの葉らしきものが繁っているが、もう花の陰は無かった。


「ユタ。南の国ってどんなところ?」


 突然、ミカイが訊いた。何から話そうかとカパックは迷う。


「そうだな。『湖』という、とてつもなく大きな池のようなものがあるんだ。水は空の色を映して深い青い色をしている。湖の上を吹く風はやわらかくて、とてもいい香りがする。風が吹くたびに水面(みなも)が揺れて、金や銀のように光るんだよ。とても美しいところなんだ」


「すごいわ。神の国みたいなところなのね。

 私はここに初めて登った時、神の国に来たかと思ったわ。でもここよりも美しい場所があるのね。見てみたいわ」 


 ミカイは、遠い空を眺めて言った。


「そうだ」


 カパックは、ミカイに聞かせてやろうと懐に入れてきた、あの葦の笛をとりだした。

 そして、おもむろにそれを吹き出した。


「まあ、面白い音。なあに、それ?」


「その湖に生える葦で作った笛だそうだ。向こうの国でもらったんだよ」


 カパックは、即興で作ったメロディーを吹いて聴かせた。ミカイがそれに合わせてハミングする。


「ねえ、この笛の音、人の囁き声に似ていない?」


「そういえばそうだね。何か語りかけてくるようだ」


「南の国の人が挨拶しているんだわ。きっと」


「面白いことを言うね。君は」


「私は山と草原しか知らない。いつかいろんなところに旅してみたいわ」


 そんなミカイの言葉を聞いたとき、突然カパックの頭の中に皇帝の言葉が浮かんだ。


  ―― 大地をひとつに…… ――


 

 ひとしきり休むと、二人はいよいよ深い山奥へと入っていった。

 今までとは違い山の陰はほとんど雪で覆われている。陽の当たる斜面の雪は溶けていても、そこは大岩ばかりの山肌だった。

 時には狭い大岩と大岩の間をくぐり、滑り落ちそうな岩壁をよじ登り……。こういう場では、体が小さく軽いミカイの方がはるかに有利だった。ミカイの山登りの腕前に、カパックはすっかり感心していた。


「一体、なんだって、こんなところに来た事があるんだい?」


 カパックは、肩で息をしながら訊いた。


「父が怪我したときも今と同じ季節で、もうチャスカは山頂にしか咲いていなかったの。大祖母さまから険しい山の上だけに咲く薬草があると聞いて、藁をもすがる思いで取りに来たのよ。

 怖いなんて感じる間もなかったわ」 


「大祖母さまは、君のことが心配ではなかったのか?」


 ミカイは笑った。 


「大祖母さまはそういう方よ。本当に必要なことなら心配なんてしないわ。たとえ私が山で命を落とすと分かっていても、ここに来ることを勧めるでしょうね。私が本当に望んでいることを知っているから」


 それは、幼い頃から厳しい苦労を乗り越えてきたミカイの『強さ』だった。


 月が出始めた頃、二人はようやく切り立つような山の頂上に立っていた。

 月の明かりに照らされて、雪の斜面が青白く弱々しい光を放っている。この時期には珍しく、山は穏やかだった。しかしその先は漆黒の闇が支配しているだけだ。

 カパックは心配になって、ミカイを止めた。


「ミカイ、これ以上は危ないよ。チャスカを見つけるのは日が昇ってからに……」


 言いかけたカパックの腕を、突然ミカイが強く掴んだ。


「見て!あれよ!」


 カパックは慌ててミカイの指差す方向を向き、目を凝らした。

 頂上から少し下ったところが、一面うっすらとオレンジ色の光を放っている。月の光に反射しているのだろうが、闇の中ではまるでそこだけがぼんやり浮かび上がっているかのように見える。

 近づくとそのオレンジ色の一帯は、果てしなく続く平原かと思うほど広大なものだった。頂上のカルデラ一体を、何かが覆いつくしているのだ。


「これは一体?」


「チャスカの花の群れよ」


 カパックは、悲鳴とも感嘆とも取れないようなうめき声を上げた。


「こんなに沢山のチャスカが一斉に咲いているなんて!私は夢を見ているんじゃないか?」


 カルデラの雪原は岩が多く、雪から突き出た岩の割れ目に根を伸ばし茎を伸ばして、チャスカたちは一斉に花を咲かせているのだ。おおよそ植物の育つような場所ではない。しかしチャスカはその逆境を利用して、自分たちの楽園を作ることに成功したのだ。

 ミカイは、カパックの腕を掴んだまま嬉しそうに彼の顔を見上げた。


「私だけしか知らないところ。今はユタと私だけしか知らないところ……。

 ユタに、是非ここを見せてあげたかったの」


 そういうとミカイはカパックから手を離し、ひらりと小高い岩の上に飛び乗った。それから岩の上に膝を付くと、片手を胸に当ててそっと目を閉じ、しばらくの間囁くように小さな声で何かを唱えている。大地に祈りを捧げているのだ。


「神聖な場所を荒らしたら神様に怒られてしまうけれど、弟のために少し分けてもらうように頼んでみたわ」 


 そう言って岩場を下っていくと、雪原に屈んでチャスカの花を摘みはじめた。そして袋がいっぱいになると、また岩に登ってじっと祈りを捧げるのだった。

 カパックはその間、ただ呆然とこの世のものとは思えない光景に目を奪われていた。


 



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