母の面影
カパック・ユパンキがクスコの街の手前までやってきたとき、街全体が大変騒がしいことに気付いた。
ときどき人々の歓声が一斉に上がり、大音響となって周囲の山にこだまする。陽気な笛や太鼓の音が止むことなく響いている。
どうやら街を上げての祭りが行われているらしい。
この時期に何かの祭事があっただろうか。今まで祭事を執り仕切る役目にあったカパックでさえ思い当たる節はなかった。
カパックと側近たちがクスコの街に入る石の門をくぐったとき、その大歓声は耳をつんざくほどに大きくなった。
「カパック将軍、万歳!」
「パチャクティ皇帝陛下の跡を継ぐ、若きインカよ!」
「無事のご帰還何より!」
それは、すべて自分に向けられていた。
興奮した市民たちがカパックたちの列を取り囲み、一時は押しつぶされるかという状態にもなった。
慌ててやってきた宮殿の兵士たちがそこへ何とか割って入り、カパックと側近たちを宮殿まで擁護していった。
「やあ、これはいったいどういうことだ?」
「何だか知らないが、どうやら英雄カパックさまを讃える祭りみたいだぞ」
「ほう。なら俺たちも英雄の従者として讃えられているのか」
クッチとハトゥンが調子づいて市民に大きく手を振ると、市民たちはまた興奮して叫び出した。
「何と気分がいいぞ」
ハトゥンが子どものように飛び上がって両手を大きく振る。するとまた市民が騒ぎ出す。
「止めないか、ハトゥン。みっともない」
アティパイがしかめっ面をして、長い腕でハトゥンの巨体を抱え込み引っ張っていった。
ようやく宮殿に入ったカパックをワイナ将軍が出迎えた。
「驚いただろう。クスコの民は皆、お前の帰還を待ち望んでいたのだ」
「いったい、何故こんな騒ぎに?」
カパックが不思議に思って訊くと、ワイナ将軍が説明した。
カパックたちが西のチャンカの集落から南へと下るさいに築いた道は、彼らが通る以前はほとんどうち捨てられ、途中途中も遮断され、とても市民たちが移動できるものではなかったのだ。さらに盗賊が出て人を襲うこともあった。
しかし、カパックたちが道を築き、盗賊……おそらくスーユ軍を襲ったチャンカの残党のことであろうが……を始末したお陰で、西の状況も伝わるようになり、流通も盛んになったのだ。
そのお陰で市民の中にも、クスコでは手に入らないものが入るようになって生活が潤う者も出てきた。西から移民してきた者たちは家族に会うことも可能になったのだ。
ワイナ将軍の報告で、命掛けで戦ったカパックの武勇伝は宮殿に広がり、やがてクスコの市民の間にも広まっていった。そしてカパックの帰還予定に合わせて祭りが催されていたのだ。
広間では、皇帝が待っていた。
カパックたちが入っていくと、満足そうに何度も頷きながら、その姿を目で追っていた。
側近が皇帝から伝えられた労いの言葉をカパックに掛ける。
「南西に伸びる新しいコリャ・スーユ道の整備。その周辺を脅かしていた盗賊の成敗。そしてコリャ・スーユに於ける新しいアイユの建設。
この度のカパック・ユパンキ将軍の働きは実に見事であった。今後もタワンティン・スーユ国発展のため、如何なく力を発揮してほしい」
カパックは深く頭を下げてその言葉を聞いていた。
「しかし、まずはゆっくりと休息を取るがよい」
皇帝が側近の言葉を補って言った。
皇帝との接見を終えて広間を出たところで、カパックに飛びついてきた少年がいた。
「兄さま!ようやくお戻りになったのですね」
「トパさま」
カパックも嬉しそうにその身体を抱きとめた。
年の頃は十四、五。少年らしい細く華奢な体つきだが、腕や足の筋肉はしっかりと付いていて、幼い頃から鍛えられてきたことが分かる。
さらさらとした真っ直ぐな黒髪は耳の下辺りで綺麗に切り揃えられている。頭には細い麻のバンドを巻きつけて、額の前に真っ赤な細長い鳥の羽を一本差している。
耳に黄金をはめ込む穴が開いていないのは、彼がまだ成人を迎えていない証拠だ。
しかし、どことなくカパックに似たその面持ちは、大人びていて理知的で、年の割りに彼が思慮深く、知性があることが分かる。
「兄さまに稽古を見ていただきたいのに、ちっともお戻りにならないから、教わったことをすっかり忘れてしまったではないですか」
カパックは拗ねる少年に笑いかけた。
「それは困った。早く稽古をつけて思い出していただかないと。成人の儀までに間に合いませんね」
「ええ、どんなにお疲れになっていても、私は離しませんからね」
カパックのことを『兄』と呼ぶこの少年は、パチャクティ皇帝の次男トパだ。
彼にとってカパックは『叔父』であるが、皇帝とカパックがあまりにも年が離れているために、むしろその息子のほうが年が近くなる。
兄と呼んでもおかしくない年の差で、さらにトパの本当の兄であるアマルーが病気がちで滅多に外に出ないので、トパはカパックを本当の兄のように慕っているのだ。
そして武術に長けたカパックに憧れて、いつも斧の稽古をつけてもらっていたのだった。
「ではこちらも、疲れて休もうとしても許しませんよ」
仲睦まじい兄弟は、肩を抱き合って笑いながら宮殿の廊下を歩いていった。
その晩、皇帝の遣いがカパックの部屋にやってきた。
「カパックさま、陛下がお呼びです。陛下のお部屋へいらしてください」
どんなに急ぎの用件でも、皇帝が自分を寝室に呼ぶことなどない。かえって何事かと不安になった。
黄金の縁取りが施された台形型の入り口の向こうが皇帝の寝室だ。
中に入ると、部屋の石壁には鮮やかな朱色の漆喰が塗られ、壁と天井の境には、ぐるりとラインを描くように金箔が貼られている。石壁に等間隔で開けられた窪みには、人間や動物を模った小さな黄金の置物がひとつずつ丁寧に飾られている。
薄暗いたいまつの明かりの中でも眩しさに目が眩みそうになるほど豪奢な部屋だ。
兄の寝室を訪れるのは何年振りだろうか。
幼い頃、自分の世話をしてくれていたばあやを亡くして泣きじゃくるカパックを、この部屋に連れてきて一晩中添い寝をしてくれたことがあった。
あのとき以来だ。しかしそれも最初で最後のこと。
特に臣下となったカパックがこの部屋に入ることは滅多なことでは許されなかった。
皇帝は、幾重もの毛皮が掛けられた幅広い石造りの寝台の真ん中に胡坐を組んで坐っていた。その格好は、当然のことだが、金銀や羽の装飾に身を包んで玉座に坐っているときとは全く違う。短い上衣と腰布だけの質素なものだった。
久々に見る『兄』の本来の姿だ。
カパックが幼い時分には、このような格好にやはり質素な柄のマントを軽く羽織っただけの姿で、カパックに武術の稽古をつけてくれたこともあったが。
カパックは寝台から少し離れたところで跪き、深く頭を垂れた。
「こちらにお召しになるとは。何か至急の用件でしょうか」
「いや。そうではない。立つがいい」
カパックが顔を上げて立ち上がると、皇帝は寝台を下りてカパックに近づいた。
「今宵は兄として話をしたかったのだ」
皇帝が前に立つと、兄の背がいつの間にか自分よりも低くなっていることにカパックは驚いた。
皇帝は自分を越えた弟の目を見上げてしみじみとした調子で言った。
「随分と立派になったものだ。
お前は私が望んだとおりの戦士になった。そして私の望み以上に見事な働きをしてくれている」
皇帝の目は、弟の成長を心から喜んでいるように細くなった。
「しかし……」
言葉を切って、皇帝は月明かりの差し込んでいる窓辺に立った。カパックはその姿を目で追って、続きの言葉を待った。
「……しかしお前は国をあげての戦いを経験したことがない。本当の戦いというものを知らないのだ。
本当の戦いは勝った側にも負けた側にも深い傷が残るものだ。目の前で多くの仲間を失い、嫌と言うほど血を目にし、自分の命すらどうなるか分からない。戦いとは、どちらか一方が生き残り、一方が滅ぶ宿命だからだ。
私が戦士として遠征を繰り返していたころは、まだお前は幼く、どのような残酷なことがあったかは知らないであろう」
「はい。おっしゃるとおりです」
確かにそうだと思った。
カパックは、パチャクティ皇帝が命を懸けて戦い、拓いてきた土地に、使徒として赴き開拓しているだけなのだと。
「お前はそのような残酷さや絶望を知らない。そして恨みの根深さや裏切りの恐ろしさも。
私は怖いのだ。その無知な純真さが。
相手を信じることも大切だが、これまでのようにうまくいくことばかりではない。いや裏切られることのほうが多いかもしれぬ。
何事にも、もっと警戒して進むのだ」
かつて、パチャクティ自身が南方に赴き、南の部族を武力で征服した。壮絶な戦いの末、コリャ・スーユの土地を勝ち取った。
しかしカパックは武力に頼らず、説得と懐柔でチャンカ族をコリャ・スーユに融合させた。これにはパチャクティも一目置いていた。
しかし若いときから命がけで国を守り、悲惨な戦争も数多く経験してきたパチャクティには、カパックが平和に事を収め、それを疑いもせず当前としてしまうことに危機感を強く感じていたのだ。
パチャクティが振り返って厳しい目を向けると、カパックは目を伏せ、唇を噛み締めた。
その姿を見て、パチャクティは再び穏やかな調子に戻って言った。
「お前を責めているのではない。私は兄としてお前のことが心配でならないのだ」
「ええ。兄上が直々に忠告をくださるのは幸せなことだと存じています。
しかし私には分からない。
何故そのような残酷な戦いをしてまで相手の領土を手に入れなくてはならないのですか?」
「……この大地は広い。スーユなどほんの一部に過ぎない。
私はこの大地をひとつにしようと思うのだ。
東、南、西、そして北……それぞれの地域には全く違った恵みがある。その恵みを国がひとつにまとめ、それをすべての民に分け与える。そうすればどの地域の民も等しく豊かになれるのだ。
今もこの大地の中には、無能な指導者によって愚かな争いを繰り返している部族がいる。そんな長のもとでは、民は声も上げられずに苦しんでいる。彼らを征服しこの国に引き込むことで、その民にはスーユの豊かさを与え、争い以外の方法で生きる術を教えてやることができるのだ。
太陽神の子である私とクスコの地が、その中心となるのだ」
その話を聞いた瞬間、カパックの脳裏には、コリャの地で新しい希望を見出したチャンカの人々の笑顔が浮かんでいた。
「しかしな、カパック。この理想はそんなに美しいことではない。その信念を貫く過程で多くの犠牲を払うことも覚悟しておかなければならない。守るものが増えれば当然、犠牲にしなくてはならないものも増えていく。
多くの民を率いる者は、その醜い部分を避けては通れないことを常に覚悟していなくてはならないのだ」
カパックはいつの間にか顔を上げて熱心に皇帝の話に耳を傾けていた。その真剣な表情を見つめて皇帝は言った。
「お前は確かに見事な働きをしている。ただ本当の勇者は本当の怖れも知っている。いくら武術の腕があっても怖れを知らなければ、ただやみくもに突き進む愚か者になってしまうのだ。
カパック。私が、数いる兄弟の中で、とくにお前に期待をかけているのは何故だか分かるか?」
パチャクティとカパックの父、前皇帝のビラコチャには、百人近くの子どもがいた。そのため、兄弟の間に権力をめぐる争いは絶えなかったのだ。
パチャクティにも、今の地位に上りつめるために異母兄を陥れたという噂が付き纏っていた。さらに前皇帝が生存中にその権力を奪い取ったのだという噂も……。
もしそれが本当なら、カパックにとってこの兄は父親の敵である。
しかし、カパックには父親の存在はまったく未知のものであり、すでに物心付いたときには皇帝はパチャクティであった。そしてこの兄の背中を見て育ったのである。カパックには父と言ってもいいような存在だった。
今までそれを疑問にも思わなかったのだが……。
カパックは静かに首を振った。
「単なる血のつながりだけではないのだ。
お前に、勇敢な戦士であった母親の血が流れているからなのだ」
カパックは驚いた。
皇帝の口からカパックの母のことが語られたのは初めてだったのだ。
それどころか今まで誰の口からも母のことを聞くことはなく、いつしか自分から母のことを聞くのは罪なのだと思うようになっていた。
今になって真実が明かされるとは思いもよらなかった。
「お前の母は、スーユとゆかりの深いキリスカチェ族の首領の娘だった。
キリスカチェとクスコが同盟を結ぶために父の側室になったのだが、彼女は幼いころから戦士になるために鍛えられてきたのだ。そして実際に素晴らしい腕前だった。
彼女はクスコで多くの若い戦士を育てた。私も彼女に教えを受けた。
彼女がお前を身篭ったとき、チャンカ族の大軍がクスコに迫ってきたのだ。父王は一部の貴族と家来を率いてクスコを捨てて逃げてしまった。
私はクスコを守るために残された貴族たちと兵を挙げたが、到底勝てる兵力ではなかった。絶体絶命の危機に、お前の母がキリスカチェに援軍を求めたことで、チャンカに打ち勝つことができたのだ。
チャンカに打ち勝ったその日、お前が生まれた。
その後、我々がチャンカ族の本拠地である西の大平原に攻め込むとき、お前の母は、まだ出産後間もないというのに戦士として立ち上がったのだ。自らをクスコの伝説の女戦士『ワコ』と称して。
ワコは先陣に立って戦った。そして我々は勝利したのだ。
しかしクスコに凱旋したキリスカチェ軍の中に、ワコの姿はなかった。
ワコはお前とクスコを守るために戦い、散っていったのだ」
カパックは瞬きもせずに皇帝を見つめていた。
「お前はワコの……。勇敢な戦士である母親の血を受け継いでいるのだ。
幼いお前が残されたとき、私は確信した。この子が成長すれば必ずやワコのように勇敢な戦士となり、このスーユを拓いていく要となるのだと」
カパックは皇帝が話し終えると、マントに刺した青銅のピンに目を落とした。それはカパックに遺された唯一の母の遺品と聞いている。今までそのピンを常に身につけていたものの、それほど大事には思っていなかった。その姿を見たこともぬくもりを感じたこともない母の物だと言われても愛着はわかず、骨董のアクセサリーを身につけている感覚だったのだ。
今の皇帝の話からすると、それは宮殿で平和に暮らしていたころの母が使っていたものなのだろう。戦士となった母は他には何も遺さずに大平原に散っていった……。
思いがけず、カパックの眼から涙がひと粒こぼれ落ち、ピンを濡らした。
彼は眼を閉じ母の姿を思い描こうとしてみたが、もちろん姿も声も、何ひとつ感じることはできない。ワコというその女戦士の壮絶で悲しい運命に同情はできても、母として情を抱くことはできなかった。
「お前は、母から受け継いだ戦士の天性を持っている。
しかし、その天性ゆえに疑うことを知らな過ぎるのだ。
ワコがそうしたように、お前も何を置いても国を護るのだという信念を持て」
皇帝はカパックに向かって強く言い聞かせた。そしてまた窓の外に目を遣って、思い出に耽るように月を見上げた。
ふとカパックは、皇帝が自分の中にワコの幻だけを追い求めているような気がした。
兄は母に特別な感情を抱いていたのだろうか。そうでなかったとしても、おそらく戦士として最も敬愛していたのだろう。
自分は兄に認められるために必死に稽古をしてここまでの技術を身につけた。しかし、兄は自分の中に偉大な女戦士の幻を追い求めている。
やり切れない寂しさがカパックの胸に溢れてくる。
一方皇帝は、カパックの身を心から案じていた。
今までひた隠しにしてきた母親のことを打ち明けることで、カパックがその才能に自信を持つことが出来るだろうと思っていた。そして母の命掛けの行動を知れば、過信せずに慎重に行動することを考えるのではないかと思っていたのだ。
想いは食い違ったまま、ふたりはその後、黙って同じ月を見上げていた。