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逃れられぬ夢(1) ~由隆~

「ゆうちゃん、時間よ……。起きて」


 ドアの向こうから遠慮がちに響く優しい声に、布団の中で悪態をつく。


「とっくに起きてるんだよ。そんな起こし方じゃ、誰も起きないっつーの!」


 この苛立ちを面と向かってぶつけられたらいいのだが、それができないだけに余計苛々が募る。

 はけ口のない怒りを振り切るように、思い切って掛け布団を蹴飛ばすと、勢いよく起き上がって、極力感情を抑えながらドアの向こうに返事をする。


「ああ、起きたよ」


「そう……良かった。もう朝食が出来ているから、着替えたら下りてきてね」


 むしろ間抜けにも思えるような穏やかな声がそう告げて、階下に下りていく足音が消えていった。


「ちくしょう!」


 ドアに向かって、音が響かない軽い枕を思い切り投げつける。しかし意外にもボンと鈍い音が響いて急に焦る。

 なんだか分からない。分からないが怒りが湧いてくる。その怒りは誰にも見せてはいけない。ましてや俺のことを心底心配している姉にこんな姿を見せたら、その場で卒倒してしまいそうだ。だから硝子板の上を歩くように慎重に慎重に生活している。

 姉は俺が心を取り戻すには一番良い環境を選んであげた(・・・)と思っているのだろう。

 腫れ物には触れず、穏やかな声で「ちちんぷいぷい」とおまじないを唱えていれば、いつか傷は治ると信じているのだろう。

 お気楽で結構なことだ。

 そう言って自分の弱さを誤魔化すために何でもない振りをしている俺が一番お気楽なのだろうが……。


 階下に下りると、コーヒーの香りと焼けたパンの香ばしい匂いが漂っていた。実家の味噌汁と焼き魚の匂いとはまったく反対の洗練された朝の香り。そんな他愛もないことで、急に居心地が悪くなる。

 もう重症かもしれない。


―― ここに、いや、この世の中に俺の居場所なんて存在しないんだ ――


「ちょっと早めに行きたいんだ。まだ食欲が出ないし、飯はいいよ」


 台所で忙しく動き回る姉に軽く声をかけて、そのまま玄関に向かう。

 食卓で新聞を読んでいた義兄は、少し顔を上げて「またか」というような顔をすると、溜め息をついてまた新聞に目を落とす。

 姉は慌てて追いかけてきたが、玄関で靴を履く俺にどう声をかけていいのか分からないらしく、胸の前に手を組んだまま黙っている。


「じゃ……」


 黙って出て行くのも気が咎めるので、軽く声をかけて玄関を出た。

 閉められた扉の向こうで、姉はしばらくあの姿勢のままで考えこんでいるだろう。そして大きな溜め息をついて、とぼとぼと台所に戻っていくのだろう。


「ざまあみろ!」


 俺の中の悪魔は、やり場のない怒りを周りにぶつけることを小気味よく嗤っている。




―― 試合は後半戦残り五分を切ろうとしていた。

 春の大会の決勝は熾烈を極め、怪我人が続出し、かろうじて優勝旗は勝ち取ったものの、その後遺症が残ったままの練習試合だった。

 練習試合とはいえ、県内でいつも首位を争っているライバル校との戦いで、この試合の勝敗が次の大会にも大きく影響する。なんとしても負けるわけにはいかない。しかし今回は欠場せざるをえない選手が何人かいた。なんとか試合に出られるまで回復したものの、まだ本調子ではない選手が多く、途中で故障して交替する選手も続出した。


「お前はなかなか筋がいい。いざというときは頼むぞ」


 キャプテンからそう声をかけられたのはレギュラーの発表のとき。控えの中でも切り札として使うつもりだと言われた。まだ入学して日も浅い一年生を使うなど、J校もかなり逼迫した状態なのだと、相手校は苦笑するだろう。 しかしその一年生だからこそ、相手があっと驚くような活躍を見せてやれとキャプテンは笑って肩を叩いた。


 生まれ育った小さな島では、小学生と中学生がひとつの校舎で勉強する小さな学校しかなく、ラグビーどころか、テニスさえも人数が足りずにやることができなかった。

 たったひとりの同級生、森かなたは、東京の一流進学校を目指すのだと猛勉強中で、スポーツの相手などしている暇はなかった。放課後、下級生や小学生も一緒になってサッカーをやるのが部活動のようなものだった。

 しかし、昔、鹿児島のJ校でナンバーエイトとして活躍したことのある父が、幼いころから俺にラグビーの動きを仕込んでくれた。父にとっては趣味のようなもので、俺をダシに漁の合間の息抜きをしていたのかもしれないが、俺にはその時間が何より楽しみで、いつか自分もJ校でラグビーをやるのだと思うようになったのだ。


 父から仕込まれた動きは体に染み付いていた。

 ほとんどが初心者の一年生、もちろん俺も初心者なのだが、その中で俺の動きは先輩たちの目を引いたらしく、入部してまだ一ヶ月しか経っていない俺を控え選手(リザーブ)に抜擢したのだ。

 前回の大会で怪我人が続出したため、層の厚いJ校も、さすがに二、三年だけで賄いきれなくなった……というのが本当のところだが。


 左ウィングの中村先輩が倒された。

 もともと足首を捻挫していたため、今回は立ち上がれそうになかった。


「宮、入れ」


 キャプテンから声が掛かり、いよいよ俺のデビューがやってきた。

 今回の試合、点数はなかなか動かず、相手チームが前半のペナルティキックを入れて獲得した三点にとどまっていた。時間は迫っているが、トライが決まれば逆転できる。

 ロスタイムに入ったとき、俺の実力を試すかのようにパスが回ってきた。しっかりとボールを抱え込んで真っ直ぐにゴールラインを目指す。相手のタックルもうまく切り抜けた。あとはゴールに飛び込むだけだ。

 まるでそれを阻止するように、急に雨が降り出した。

 午前中の夏日から一転、午後には夕立ちがあるだろうと、天気予報が警告していたが、その雨は突然バケツをひっくり返したような豪雨になった。

 あと少しで勝負は決まる。雨の膜を切り裂くように突き進んでいく俺の耳に、突然轟音が響いた。


ドガーン


 そのあとの記憶が途切れた ――




 混み合った電車は自分だけの世界を作るにはちょうどいい。

 窮屈で暑苦しいが、身動きも出来ない状態では余計な刺激は入らず、自分の記憶を深く掘り下げることができる。

 しかしあまりにも苦しい記憶を掘り当てたとき、それを打ち消すのが難しくなった。

 

 息苦しくなったのは、この酸欠気味の狭い空間の所為か。それとも……。


 そんな俺を救うように、ちょうど目的地の駅名を告げるアナウンスが流れる。自分で蘇らせてしまった悪夢を振り切り人と人の合間を無理やり分け入って、電車の外に飛び出した。

 まだ少し動悸が早いが、間一髪で命拾いした。

 気を取り直して駅の出口に向かう。


 スー……トン


 何かが靴の先に当たった。

 携帯電話だ。

 これでもかというくらい派手にいろいろなアクセサリーが付いたもの。電話に縫いぐるみが付いているのか、縫いぐるみに電話が付いているのか分からない。そのクマが仰向けになって能天気な顔で俺に笑いかけている。

 俺はそれを拾い上げると、持ち主を探そうと周囲を見回した。


 目の前に座り込んでいる女子高生がいた。電車から降りる拍子に転んだのだろう。膝を打ったのかうまく立ち上がれず、座り込んだまま周囲を見回している。

 俺は彼女の前に携帯を差し出してやった。彼女は差し出された携帯をすぐに受け取ろうともせず、不思議そうな顔で俺を見上げた。


 小さめの丸顔は、健康的に焼けているのでさらに小さく見えるが、その割に目がくるりと大きく目立つ。短く刈り上げたような髪は、いまどきの女子高生には珍しく洒落っ気がなくて無造作。派手な携帯の持ち主とはちょっとイメージが違う。それでもこの状況からして携帯の持ち主は彼女に間違いないだろう。

 よほど足が痛むのか、彼女はいつまでもその姿勢のまま動かない。仕方なく手を貸してやって、彼女を引き起こした。

 目の前に立った彼女は頭ひとつ小さく……そうは言っても百八十センチ強の俺の背と比べれば、彼女も女の子にしては大きい方だろうが……何かを連想させた。


 動物番組で観た、何とかモンキー……そうだ。ピグミーモンキーだ。


 ピグミーモンキーの彼女は頭も打ったのか、今度は立ち上がったままの姿勢で俺の顔をぼんやり眺めている。


(まいったな……)


 あまり関わらないほうがいいかもしれない。

 俺は彼女が肩から提げている鞄の脇に携帯を押し込んでさっさとその場を後にした。



 新しい学校は活気に溢れていた。

 J校も街の中心地にあり、スポーツも盛んなので活気があるが、何と言うかやはり東京の学校は違う。全てが整った秩序の中で正しく躍動している。そんな表現が浮かんだ。

 急な転入で、しかも手続きはすべて姉がやってくれたので、俺が東京に来たのはおととい。そんな事情から制服の注文もできずに、前の学校のものを着てくるしかなかった。

 初日から目立つことはしたくないので、まだ生徒の少ない時間にやってきたのだ。


 ふとラグビー部を覗く。この学校のラグビー部はあまり部員数もなく、和気藹々とした雰囲気で練習していた。

 部員のひとりが俺の姿に気付き、じっとこちらを見つめた。その視線で、また忌まわしい過去が蘇りそうになり、逃げるようにその場を後にする。


「なんでここに来てまでラグビーのことを考えているんだ。俺は!」


 誰もいない校舎の裏で、俺は頭を抱えて座り込んだ。




 ―― 気付いたときには、救護室のベッドの上だった。

 キャプテンと監督が覗き込んでいた。


「大丈夫か?」


「はい。すいません。あの……試合……」


 聞くまでもない。あのあと、誰が点数を入れられたというのか。


「まあ、気にするな」


 そう言いながらもキャプテンの顔には翳が差していた。

 これは天災なのだ。避けようもない。ゴール目前にフィールドに雷が落ちた。それでも試合は無効にならなかったのだろうか。ほかに怪我人はいなかったのだろうか。


「あの落雷で、ほかの人は大丈夫でしたか?」


「落雷?」


「ええ。凄い音がして。俺、直接は当たらなかったようだけど、それでも意識を失ったくらいですから」


「雷なんて落ちてないぞ」


「え?」


 今まで心配して覗き込んでいた監督もキャプテンも、急に険しい顔になった。

 監督が溜め息をつきながら言った。


「宮。いくらリザーブだからと言って舐めるな。体調管理くらいしっかりやれ!」


 その日から、俺の悪夢に追い回される日々が始まったのだ ――





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