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南へ(3)

※第7部に登場人物と用語の一覧を載せています。



 奇襲によってスーユ軍が受けた被害はあまりにも大きかった。

 かなりの数の同志を失ったうえ、将軍が瀕死の重傷を負うという事態に陥ったのだから。

 実は、スーユに従ってここまで旅してきたものの、チャンカの民のすべてがスーユ人を信頼しているわけではなかった。パチャクティ皇帝がそうであるように、先の戦争によって生まれた両国の因縁は根深く、一朝一夕で解決するものではない。とくに戦士としてスーユを相手に戦った経験のある年配のチャンカ人にとっては、恨んでも恨みきれない思いが残っている。古くからチャンカの命運を占い、権力者たちを蔭で支えてきた偉大な呪術師キータの決意ならば……と仕方なく気持ちに蓋をした者も多かった。

 無理矢理押し込んだ思いは、過酷な旅で身も心も疲れてくると、再び頭をもたげ始め、事あるごとにスーユ人に反抗的な態度を取る者がいた。

 さらに、『ずる賢い将軍にうまく丸め込まれたのだ』と言って、密かに反乱や逃亡を企てている者さえいたのだ。

 しかしそんな彼らも、今回チャンカの民を守るために命を張ったスーユの兵士たちの姿を目の当たりにし、過去のことに捕らわれている心の狭さを恥じるようになっていた。

 特に、自ら移民を指揮してきて彼らのために戦い、今は命さえ危ぶまれる状態のカパックには何としても助かってほしいと素直に思うようになっていた。


 スーユの兵士たちは、軍の柱であり兵士たちの精神的な支えでもあるカパックの回復を何よりも願い、スーユの兵士と同様にカパックに信頼を寄せるチャンカの民も、彼らの恩人の回復を心から願っていた。

 皮肉にもこの事件をきっかけに、スーユ人とチャンカ人の間に本当の意味で信頼関係が生まれたのだった。


 カパックは、左手の傷の痛みのためか落雷の衝撃のためか、一旦意識を取り戻したあと再び昏睡状態に陥り、三日三晩生死を彷徨った。

 キータはすぐ傍らで眠らずに祈りの言葉を唱え続け、スーユの兵士や労働者とチャンカの男たちは、遥か遠くまで薬草を求めて歩き回った。ようやく僅かな薬草が手に入ると、すぐさま女たちがそれを煎じて薬を作り、カパックの口に少しずつ流し込む。

 隊のすべての者が協力し、カパックを助けようと必死になっていた。


 そのお陰で、四日目の朝に再び目覚めたカパックは、熱が下がり顔に血の気も差して、危機を脱していた。

 カパックが目覚めたことを知ると、隊の者は皆喜んで歓声を上げた。


 カパックとほかの傷ついた兵士たちが回復するまで、隊はしばらくその平原に留まることとなった。


 広大な大地一面に生える丈の低い草以外、何もない草原。

 少し離れた林から木を切り出してきて柱を立て、持ってきた布を縫い合わせて掛け、簡単なテントを何張りか拵えた。その中でスーユ人もチャンカ人も肩を寄せ合って生活した。

 男たちが鳥を獲り、野生のリャマをしとめ、女たちは野草を摘んで、協力しながらなんとか食料を繋いだ。

 子供たちは、我慢ばかりの旅から解放されてようやく羽を伸ばせると、毎日毎日広い草原を走り回って思い切り遊んだ。

 質素ではあるが、隊の者たちには、過酷な旅の合間に期せずして訪れた穏やかな時間であった。



 カパックは、その後は順調に回復していった。


 左手が動かせるようになったとき、カパックは掌を広げてまじまじと見つめてみた。傷は塞がっていたが、盛り上がった皮膚はさらにはっきりと稲妻の形を浮かび上がらせている。

 そのとき丁度、キータがアリン・ウマヨックとともにやって来た。カパックはキータに気になっていたことを尋ねた。


「キータ殿。あの敵はどこの部族の者だったのでしょう?」


『あれはおそらくチャンカの残党、我々と分かれた一派なのでしょう。

 スーユとの戦いに敗れたあと、チャンカの民は散り散りになりました。その中で一番規模の大きい一族が、我々アンコワリョの派のものです。我々の次に大きな 一派だと思います。山に篭ってスーユに攻め込む機会を伺っていたのでしょう。

 チャンカ一族は太古の昔から雷神を崇拝しておりました。しかし今回の戦いで、雷神はチャンカの首領を罰し、貴方の味方をした。このことは彼らにとって最大の制裁となったはずです。この後は武器を捨て、狩猟民族としておとなしく暮らすことでしょう』


「キータ殿。雷神(イリャパ)の祝福を受けた私は、太陽神(インティ)の敵になったということなのですか?」


 カパックが恐る恐る訊いた。


『ほほほ……』


 キータが笑い出した。それから空をまっすぐ指差した。

 真っ青な空に雲が風に流されていく。太陽に照らされ雲が光を放つ。


『スーユの国では、太陽を特別な存在として崇めていらっしゃるようじゃな。

 確かに、まずは太陽があり大地があって世界が作られる。しかし太陽と大地だけでは命は育たない。太陽と大地から生まれ出た、雲、雨、風、そして雷。全てのものは一体。それはどれも等しく大切なものでございます。

 雷は雨の中で生まれ、大地に大きな変化をもたらす。あなたは、太陽から生まれた改革者、雷の使命を受けた。しかしそれは破壊ではなく、豊かな恵みをもたらそうとする大変大事な存在なのです』


「改革者。私の使命……」


 カパックは左手の(あざ)を見つめていた。それは祝福の証というよりも今後の自分を支配しようとする恐ろしい烙印のように見えるのだった。



 カパックとほかの怪我人たちがすっかり回復すると隊は新たに組みなおされ、草原を後にした。キータの言うとおり、例の渓谷には敵は一人も現れなかった。そしてその後も、隊が敵に襲われることはなかったのだ。


 それから歩く事、数ヶ月。

 やがて乾燥した高地とは違う、湿ってひんやりとした空気が感じられるようになった。そしてその先に、やわらかい緑色に覆われた湿地帯が見えてきた。

 さらに進んでいくと、遥か地平線に太陽の光を反射してキラキラと眩しく輝く大地が見えてきた。高原に育った、隊の者の多くが、初めて見る景色。それは広大な湖だった。


「水だ!」


 隊は散り散りになり、広大な水の大地に向かって一目散に駆け出した。湖のほとりに駆け寄って、水を(すす)る者、(すく)い上げて頭から浴びる者、浅瀬に入って水を掛け合う者、今までの我慢を解放するように、皆おもいおもいにはしゃいだ。

 タワンティン・スーユ国の最南端の地、コリャ・スーユ。そのほとんどの部分を巨大な湖が占めている。

 スーユが支配する前、この湖の沿岸にはコヤという大きな国があった。コヤはスーユよりも古く伝統のある国だった。

 パチャクティがこの地をスーユに併合して以来、クスコからコヤに移る民とコヤからクスコに移る民が入り混じり、異なる文化が混在する独特の雰囲気を生み出した。しかし湖の対岸の未開の地には、未だ太古からの文化を守り続ける部族が多くいた。

 

 コヤ……いやこの湖の周りにあった多くの部族が、パチャクティ皇帝がこの地を平定しようとしたとき激しく抵抗して戦った。熾烈な争いは何年も続き、最後までスーユに支配されることを拒み、全滅した部族もあったのだ。一方、スーユに降伏した部族は、反乱を防ぐためこの地から離され遠い地に移住させられた。

 そんな経緯からカパックは、皇帝がこの地に積極的に移住者を送ろうとしていることを知っていた。南の地は気候も穏やかで土地は肥沃。入植者には大変住みやすいと言われていた。それでチャンカ人の移住先として思い当たったのだ。


 湖の畔で、隊の皆は旅の疲れを癒すため、ゆっくりと寛いでいた。湖を眺めながらハトゥンが、その巨体をさらに広げるように大きく伸びをして、大声で叫んだ。


「帰ってきたぞ! わが故郷へ!」


「ハトゥン!」


 それを聞いてスンクハが顔色を変えてハトゥンを小突いた。ハトゥンはハッと気付いて慌てて口を押さえた。

 ハトゥンはコヤの国の出身だ。

 コヤでは生まれるとすぐに、頭をきつく縛って後頭部を尖らせる習慣があるのだ。彼の尖った頭もコヤの民の証だった。

 スーユの支配後、他の地に移住したコヤ人の中から選ばれた幾人かの者は、一族がスーユに従うことの証として、宮殿の召使いや兵士として働きながらクスコに住むことを命じられたのだ。ハトゥンもそのひとりだった。

 しかしクスコでは、自分の故郷のことを語るのは固く禁じられているのだ。それを犯せば厳しく処罰される。いくらクスコから離れているとはいえ、軍を率いる士官の身でその話をするのはご法度だ。スンクハがそのことを注意したのだ。

 しかしカパックは、ハトゥンに思う存分懐かしんでもらいたいと、構わずに話しかけた。


「そうであった。ハトゥンの故郷は南の国だったな。ここがそうなのか。まるで天国のような美しさだな」


 カパックの言葉に、ハトゥンは抑えていた口を離して興奮して話し出した。


「そうでしょうとも! コヤはこの大地の中で一番美しいところでございますよ!

 ほらご覧くださいませ。湖にも青空が映って雲が流れていくのでございますよ。向こうに浮かぶ島は神が生まれる島と言われているのです。こんな素晴らしい景色はほかのどこを探してもございません。

 クスコなど比べようもないほど!」


「ハトゥン!」


 カパックが問いかけたのでは仕方ないと見逃していたスンクハが、調子に乗ったハトゥンの腹に肘鉄を入れていた。


 その後、隊はコリャ・スーユの管理官の屋敷に向かった。管理官の許には、クスコから違う道をたどって早足の伝令が来ており、皇帝から多くの贈り物と新たな土地の譲渡の要請が来ていたので、一行は歓迎を持って迎え入れられた。すでにチャンカ人のために、新しい土地も割り当てられていたのだ。

 管理官はカパックとキータに告げた。


「コリャ・スーユは広大にして肥沃な土地です。この一部となって農耕に従事してくだされば、もっともっと豊かな実りを得ることができるでしょう」


 挨拶を終えると、チャンカの民は湖の畔に建てられている小さな太陽神殿へ赴き、太陽神に誓いを立てた。


「我々は、チャンカの民をここに送り届けるまでが任務だ。斧を振るのは得意だが、足踏み鍬(タクリャ)を踏ませたら子どもより悪い。一足先にクスコに帰っているぞ」


 ワイナ将軍はチャンカ人が無事に南に着いたのを見届けると、軍隊を率いてクスコへと戻っていった。カパックにはまだ、チャンカの新しい(アイユ)を築いて、彼らがこの地に定着したことを見届ける責務がある。そのため、六人の側近とともに残らなければならなかった。




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