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南へ(1)

※登場人物一覧を、第7部の後書きに載せています。


 いよいよ、南へチャンカの民を率いて旅する日がやってきた。

 カパックは、チャスカの押し花をミカイからもらったスカーフにそっと包むと、上衣の懐に入れた。


―― ミカイ、必ずここへ。君の元へ帰ってくる ――


 すべての支度を終えたカパックは、ミカイのスカーフを入れた胸に手を押し当て、想いを込めるようにしばしの間、じっと目を閉じていた。そして意を決すると、振り返らずに部屋を後にした。


 外には、百人の兵士、五十人のクスコからの移民となる労働者が待機していた。

 兵士の中には、一度は宮殿の重要職に取り立てられていた、ハトゥン、クッチ、アティパイ、ワラッカ、スンクハも入っていた。そしてカパックの軍の参謀として働くのはアリン・ウマヨックであった。

 カパックは出発の挨拶をするため、宮殿の広間で待機していた。

 やがて皇帝が広間に姿を現し玉座に着いたのを見届けると、恭しく跪き心から感謝の意を伝えた。


「皇帝陛下。このようにたくさんの兵士と労働者を割り当てていただき感謝いたします。陛下のご厚意に報いるため、必ずや南方に新しい豊かなアイユを築いてまいります」


 挨拶を終えて立ち上がったカパックの目は活き活きとして、彼がチャンカの移民を率いることに大きな希望を抱いていることが見て取れた。

 疑うことを知らない若い弟の表情は皇帝をかえって不安にさせたが、どうやっても彼の強い意志を曲げることはできなかったのだ。いまさら何を言っても始まらない。複雑な面持ちのまま皇帝は、おもむろに玉座から立ち上がった。周囲がざわめくなか、まっすぐにカパックの方へ歩み寄ってくると、カパックの肩を片腕でギュッと抱きかかえ、正面を見据えたまま声をかけた。


「立派に役目を果たし、無事に帰還することを願っている」


 短く言うと、すぐに腕を離して玉座に戻っていった。

 いくら弟とはいえ、皇帝が大勢の前で臣下に手を触れることなど有り得ないことだ。ほんの一時の出来事であったが、驚いたカパックも周りの者もしばらく鎮まり返っていた。この場で感情を露にすることは赦されないが、弟の身を案じる気持ちを抑えることもできない。複雑な想いが皇帝をそんな行動に駆り立てたのだろう。

 やがてカパックの目に、自然と涙が溢れ出てきた。


「兄上、必ずや……」


 その先の言葉を呑み込んで深く頭を垂れると、カパックは広間を後にした。


 カパックが宮殿を出たとき、カパックが率いる兵士たちの周りに、さらに多くの兵士たちが輪を作って待機していることに気が付いた。新しく加わった大勢の兵士の前に進み出てきたのは、あのワイナ将軍だった。


「これは(いくさ)ではないがスーユの遠征のひとつなのだ。ふたりの将軍が揃わなくては意味がないのでな」


 判決のあと、ワイナ将軍が自ら皇帝に願い出て、チャンカ族の移民を国をあげての遠征として認知してもらっていたのだった。

 何も知らないカパックは驚き、しばらく呆然と立ち尽くしていたが、言葉の代わりにワイナ将軍の肩にきつく手を回して心からの感謝の意を伝えた。


「出発!」


 先頭の兵士の掛け声で、雄々しく太鼓が打ち鳴らされ、長い隊列がクスコを出発した。

 ハトゥンを大将に先頭を率いる兵士二十人。続いて、クッチ、ワラッカ、アティパイ、スンクハ、それぞれの率いる兵士と、労働者が分かれて並び、その間にチャンカ人たちが入った。カパックは、アリン・ウマヨックと共にこれらの中央を歩く。カパックの率いる一群のあとに、ワイナの率いる隊が続いた。これが谷の部族と合流すればさらに壮大な列になる。それはまさに大移動であった。


 午過ぎに隊は緋の谷のアイユが見下ろせる丘まで来た。アイユでは新芽を出し始めた畑で、豊作を願う歌と共に沢山の村人が活き活きと働いており、周りではリャマたちがゆっくりと草をはむのどかな光景が広がっていた。

 丘の上の隊列に気付くと、村人が一斉に手を止めて跪いた。以前たった七人の戦士の姿に怖れをなした村人だったが、今はアイユの危機を救ってくれた英雄の姿を見て喜び、敬意を払って見送った。

 ひとり、丘の向こうの川から水を運んできた少女が遅れて跪いた。


(ミカイ……)


 カパックは思わず胸に手を当てて、彼女に再び逢える日を願っていた。


 陽が落ちたころ、ようやくチャンカの集落を見下ろす断崖へと到着した。チャンカの集落は、明々と燃えるたくさんのたいまつに照らし出されている。カパックたちの到着を歓迎するために、集落のものたちが一斉に灯していたのだ。

 カパックたちが集落に下りていくと、もう旅立つ準備をすっかり整えていたチャンカ人たちが大歓声で迎え入れてくれた。人だかりから姿を現したキータが、うやうやしく胸に手を当て頭を垂れると、カパックに挨拶した。


『よくぞ約束を守ってくださいました。わが民の準備と心得はすでに出来ております』


「遅くなって申し訳ない。アンコワリョ首領と若い戦士はクスコでお預かりいたしました」


『存じております。あなたの努力には大変感謝しておりまする』


 キータは、クスコでの出来事を占って知っていたようだ。

 あちらこちらで妻や子に再会した戦士たちが泣き叫んで喜んでいる。その様子を目の当たりにしたカパックは、自分の決意は間違っていなかったのだと思い、安堵した。


 その晩、チャンカの集落では、スーユ人たちの歓迎と出発を祝う宴会が開かれた。その席でカパックは、アリン・ウマヨックを介してキータに訊いた。


「先日私を占った時の沈黙は、なんだったのですか?」


 キータはふうっと溜め息をひとつついて、話し始めた。


『人の世には必ず終わりが来ます。その終わりまでに果たす使命は人それぞれ。

 しかし貴方さまの果たす使命は普通の人のそれよりも果てしなく大きい。しかも短いうちに様々なことを見、感じ、そして変えていかれるでしょう。 そのあとに、黒い雲が起ちこめ、嵐のような光景が見えたのです。

 私にはその先を見ることができなかった……。なにか、大きな変化があるのかもしれません』


 キータは話を止めるとじっと目を閉じた。カパックは険しい表情でキータの顔を見つめている。

 しばらくしてキータはふたたび目を開くと、またゆっくりと諭すように話し出した。


『ただ……これだけは言えるでしょう。

 貴方さまの果たすべき使命はとても大きく、それによってこの大地は変わっていく。貴方さまはご自分の信ずる道を進まれるがよろしい。この先何が起ころうとも、ご自分の思いに決して惑うことなどありません』


(大きな運命を担っておられる貴方と……)


 キータの言葉を聞いて不意に緋の谷のアイユの大祖母の言葉が蘇り、カパックは動揺した。カパックの動揺を感じ取ったキータはカパックの膝に皺だらけの手を置いた。


『あくまでも占いでございますよ。ご自分の運命は如何様にも切り拓いていかれるものです』


 キータは黄色い目をまっすぐに向けて頷いた。カパックは平静を装って微笑んでみせたが、どうしてもぎこちない笑顔にならざるを得なかった。


 翌朝、大行列は谷を出発し遠い南の土地を目指した。

 出発の前にカパックは、労働者や兵士に持てる分だけの河原の石を担がせた。そして連れているリャマにも載せられるだけの石を載せた。河原の平たい石は土壌を固めるのに適しているのだ。


 一行は谷を上り、平原を渡り、いよいよ南のコリャ・スーユに続く街道へと出た。

 平原に設けられた街道はよく整備され、平らで幅広く歩きやすい。しかしそんな安全な道はいくらも続かなかった。

 街道は、パチャクティが昔、南方を征服したさいに拓かれ、今も伝達史たちが行き来しているが、道幅は狭く難所も多く、大勢の人間が移動するには適さないのだ。つまり新たに道を切り拓き、足場を固めながら進まなければならない過酷な旅であった。


 やがて街道は突然、絶壁にぶつかった。一人がよじ登れる足場はあるが、老人や女性や子供にはとても無理だ。

 先陣のハトゥンと、石や岩の加工に高い技術をもつワラッカが指揮を執り、労働者たちが広くて奥行きのある階段を断崖に掘っていく。

 その後にも試練は続く。やっとのことで絶壁の中腹まで登ると、今度は絶壁にかろうじて掘られた狭い道が絶壁に筋を引いたようにか細く続いていた。壁の片側は深く落ち込んだ渓谷だ。道は足先がやっと掛かるほどの幅しかなく、老人や子どもはとても渡っていけそうにない。

 先陣の兵士たちが崖にへばりつき、岩肌をさらに深く削って道幅を広げていく。かろうじてひとりが正面を向いて歩けるくらいの幅に広がると、よく踏み固めて平らな石を敷く。崖崩れのため、まったくはじめから崖を削り直さなければならないところもあった。

 足場が固まるまで、民は幾日も同じ場所で待機していなければならない。体の弱いものにはきつい旅である。ようやく進んでも、病人が出てまた足留めとなることもしばしばだ。 

 ゆっくりゆっくり、足許を確かめるように進む旅。しかし彼らが進んだ後には、確実に広く整備された街道が拓けていくのであった。


 数ヶ月かかって一行は、ようやく半分ほどの行程を進んだかに思われた。

 旅が長引くにつれ誰しもが疲れから無表情になっていく。些細なことで争うことも増えていく。体を壊す者、老人は途中で命を落とす者も幾人か出た。そんな不幸に遭うたび徐々にカパックは、この旅をチャンカの民に強いた事に後悔を抱き始めていた。


(神よ、本当にこれで正しいのでしょうか?)


 カパックの中の不安は日ごとに大きくなっていった。



 

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