教壇までの距離
かつて、
学校という場所には、
教師に逆らわないことが、
当たり前とされる空気が、
ありました。
これは、
当時実際に存在していた、
学校空間の記録です。
とある高校の午後の授業。
教師が名前を呼び、
呼ばれた人から、
プリントを取りに行く。
そんなことから、
授業は始まった。
個人宛ての、
プリント。
教室には、
生徒たちの話し声が残り、
教師の声は小さかった。
聞きそびれて、
取りに行かなかった
あの子。
シーンとした空気の中、
みんなの視線が集まる。
恥ずかしそうに俯き、
混乱したまま、
あの子は固まっていた。
教師は苛立ちながら、
『子どもじゃないんだから、
一人で取りに来なさい』
さらに、
『単位をやらない』
『卒業させない』
大勢の前で、
激しい叱責が続く。
先ほどまで、
少しにぎやかだった教室の話し声が、
消えていく。
教室は、
静まり返っていた。
見かねた別の生徒が、
あの子の席へ近づき、
袖を引こうとした。
『あなたは席に座りなさい』
『そこのあなた、
一人で取りに来なさい』
それでも、
空気は変わらない。
『先生、やりすぎ!』
誰かが声を上げた。
他の生徒からも、
小さな声が聞こえる。
それでも、
叱責は止まらなかった。
『ぴょん吉!』
不意に、
大きな声で、
私のフルネームが呼ばれる。
身体が、
びくりと跳ねた。
教室の視線が、
一斉にこちらへ向く。
『あいつと仲が良いなら、
連れて行ってやれよ!』
私は、
教壇の教師を見る。
後ろの席を振り向く。
すでに泣いている
あの子と目が合う。
教師は、
何も言わずに立っていた。
再び前を向く。
しばらくして、
あの子は席を立ち、
教壇へ歩き、
プリントを受け取った。
泣き声だけが、
静まり返った教室に響いていた。
その日、
私は日直だった。
放課後、
学級日誌を開く。
『今日の出来事を、
書いて欲しい』
そう頼まれていた。
ペンを握ったまま、
少し手が止まる。
「ねぇ、
なんて書いたらいいの?」
『じゃあ、
私が言った言葉を
書いてくれればいいよ』
「うん」
あの子に言われた通りの言葉が、
紙面へ書き込まれていく。
何を書いたのかは、
もう覚えていない。
職員室へ行き、
担任へ日誌を差し出した。
下手なことを言えば、
あの子の立場が、
さらに悪くなる気がした。
何が起きるかわからない。
私は、
一言だけ添える。
「気にしないでください」
そう言って、
私はその場を離れた。
とある放課後。
教室とは別の部屋で、
私と友だち二人だけで、
作業をしていた。
西日が、
部屋へ差し込んでいた。
先生たちの機嫌一つで、
何が起きるかわからない。
そんな話をしていた時だった。
会話が漏れ聞こえたのだろうか。
後ろの扉が開き、
担任は私のところへ来て、
こう言った。
『俺の悪口なら許すが、
他の先生の悪口は許さない』
今振り返ると、
私は、
自分の価値観を強く押し付ける人に対して、
正面から反発するよりも、
距離を取ることを選ぶ人間でした。
当時も、
反発したら、
何が起きるかわからない。
そんな気持ちが、
どこかにあったのかもしれません。
だから私は、
あの時何も言えませんでした。
それが正しかったのかどうかは、
今でもわかりません。




