23.満腹
目が覚めたのは、食堂の二階にある自室だった。
鼻先をくすぐる煮込み料理の香りに空腹と倦怠感を抱えながら体を起こせば、椅子に座ったまま腕を組んで目を閉じていた給仕長の目が開いた。
薄暗い部屋の中を見ても、特に変わりがない。このいい匂いは階下からか。
「ふぁぁ……なんだ夜が明けてもいないじゃないか。まぁ、いい。おはよう、調子はどうだ?」
「おはよう、ございます。お腹空いてる以外は、問題ありません」
あくびをしながら伸びをした彼女に挨拶を返すが、なぜ彼女がこの部屋に居るのかわからない。
「ああ、その素っ気無さ、正気に戻ったようだな。下に行こう、オーナーが食事を用意してくれているはずだ」
その言葉に釣られて、彼女と共に部屋を出る。
カウンターに並べられた食事に、思わず喉を鳴らす。
「食えるだけ食えとよ。あの治癒術師からの命令だ」
そう言いながら、スープを器についでワタシの前に出してくれる。
「御代は、昨日の働きでロハにしてやるから、好きなだけ食え」
昨日の働きというのがよくわからないが、ただで食べさせてくれるならありがたく頂戴するだけだ。
すきなだけ食べていいというなら、余計に。
「く……ったなぁ。お前の細っこい腹の何処に入るんだ」
粗方食べ終えたワタシに、オーナーが心底呆れた声を掛ける。
空いた端から皿を洗っていく給仕長の目も、同じように呆れている。
久しぶりにお腹いっぱいになるまで食べたので、凄く満足だ。こんなに食べたのは、いつ以来だろう……もしかしたら、義父と暮らしていた幼い頃以来かもしれない。
腹いっぱいに食べるというのは、こんなにも満たされ幸せな気分になるものだったんだな。
もしかしたら、義父を失ってから――ワタシはずっと空腹だったのだろうか。
手渡された熱いお茶に息を吹きかけながら、カウンター向こうのオーナーとワタシの隣に座る給仕長が会話しているのをぼんやりと見ていると、不意に給仕長がこちらを向いた。
「どうした? ああ、言い忘れていたが、黒騎士はリァ・バグロック国の間者の関係で役所へ行かされたぞ、ノシター殿に」
……そう、か。そういえば、あの大きいのが居ないな。
給仕長に言われて、彼の存在が無い事を意識すると、なんだか胸の温度が少し下がった気がする。
この感覚は覚えがある。義父さんが仕事で何日も家を空けた時のようだ。
給仕長は黙って話を聞くワタシの肩を軽く叩くと、珍しく困ったような笑みを浮かべた。
「大丈夫だ、事が済めばすぐにこっちに来ると言っていたからな、すぐに戻るだろう。因みにノシター殿は二階のもう一つの部屋で寝ている。トーチョクアケのうえキュウカンが山盛りで眠いと零していたが、わかるか?」
給仕長に問われ、聞いたことの無い言葉に首を横に振った。
ああ、それにしてもお腹が満たされたら……なんだか、眠くなってきた。
小さく欠伸をかみ殺したのをオーナーに見咎められ「もう一眠りしてこい。俺たちも、一度休むから」そう言われて、ありがたく二階の自室に引き上げる。
一人で部屋に戻り、ベッドに潜り込んで目を瞑ればすぐに心地よい眠りが訪れた。
『――もう、離さねぇ……一緒に、生きるぞ』
ああ、あの時の、声だ。
義父とは違う低い声に、安堵が湧き上がる。
頬を撫でられ、指が髪を梳いてゆく。
その硬い手がとても心地よい。
唇に、何かが触れる……数度触れては離れ。そしてぴたりと合わさると、唇の隙間を熱を帯びた生暖かいものが這い、歯列をなぞってから離れていく。
濡れてしまった唇を無意識に舌先で舐めれば、それに先程の熱が絡みつく。
「……ん…」
息苦しさに顔を背ければ、絡みついた熱はすぐに離れ、露になった首筋をその熱が這う。
時折、首筋を這う熱に代わり、肌に痛みがさすがそれは一瞬の事で、その後そこを慰撫するように何度も熱が往復する。
鎖骨に至り、きっちりと着付けているはずの胸元に外気を感じ、熱はそこまで肌を這い下りてゆく。
「……ふっ」
吐息が漏れた唇を硬い指先がその隙間を割って差し込まれる。
『早く、名を教えてくれ……お前の、名を呼びたい……』
指の腹が口の中をゆっくりと撫でてゆく。
その感触が気持ちよくて、小さく吸い上げそれに舌を這わせれば、口中から引き抜かれ、すぐさま別の感触に唇を覆われ、熱が荒々しく口の中に押し入ってきた――