字の練習
草世から筆を渡された真珠は、好奇心で顔を輝かせた。
勢いのままに、筆を半紙に置く。
「あれ? 書けない」
「墨をつけないと」
「そうなんだ!」
真珠は、筆にどっぷりと墨を吸わせた。筆先からポタポタと墨汁が垂れる。
「わわっ!」
真珠は慌てて、半紙に筆を置いた。たっぷりと含んだ墨が、半紙に広がっていく。
「わぁ! 楽しい! 書けたよ!」
「そうだね。でもこれは、字じゃない。まずは、拝啓と書いてくれるかい?」
「ハイケイね。いいよ!」
真珠は狐文字で、ハイケイと書いた。しかし草世には、歪な線の集合体にしか見えない。
「あとは、なんて書く?」
「えぇと、立春とは名ばかりの厳しい残寒が続いておりますが……」
真珠は草世の言葉の通りに、『えぇと、立春とは名ばかりの厳しい残寒が続いておりますが』と狐文字で書いた。
草世は引っ込みがつかなくなり、学生時代の友人、室生に宛てて言葉を紡いでいく。
真珠はそれを、狐文字で書いていく。
「敬具。これで終わり」
「ケイグ。コレデオワリ」
真珠は筆を置くと、おでこに浮いた汗を拭った。
「緊張した。でも、上手に書けたよ。どう? 役に立つでしょう?」
「う、うん……」
半紙には、人間の文字とはほど遠い不思議な線で埋め尽くされている。
(読めないと言ってやれば、いいんだろうが……)
筆を運んでいた真珠の顔つきは、遊び半分ではなく、真剣そのものだった。
真珠は心から、草世の役に立ちたいと思っているのだ。それが伝わってきたのに、読めないと言うのは失礼な話だと、草世は罪悪感を覚えた。
「誰に送るの?」
「あ? あぁ、友人の室生だ。そうだ、名前を書かないと」
草世は新しい紙に取り替えると、『深広草世』と書いた。
「これが、僕の名前だ」
「これが!? これが、ソウセイの名前なの?」
「そうだよ」
音で覚えた『ソウセイ』と漢字の『草世』が結びついて、真珠は大興奮。
ぴょこんと飛び出した狐の耳に、草世は大笑いする。
「マジュは? マジュの字は!?」
「んー……」
真珠は筆先の流れなど考えずに、思うがままに大胆に筆を動かしていた。だが、草世は違う。
草世が持つ筆は、鮮やかな線を描いていく。筆の入り、止め、払い。直線と曲線。太さ、細さ。
細部まで神経が行き届いた芸術的な線に、真珠は見惚れた。
「草世、すごい!」
「さて、いくつか書いてみたが……。マは、真、麻、眞。ジュは、珠、樹、寿。どれかな?」
「これとこれにする!」
『真』と『珠』を指差すと、つぶらな瞳で草世を見つめる。
「すごいね。字が上手! 私も上手になりたい。教えて!」
「いいよ」
草世はまず、筆の持ち方を教えた。それから、筆に含ませる墨の量。筆の動かし方と、筆圧。
草世に教わりながら、真珠は横線を引いた。
「あれ? 掠れている」
「早すぎるんだ。ゆっくりでいいよ」
「うん。……あれ? ぼわぼわになった」
「ゆっくりすぎて、墨が滲んだんだ」
「難しい!」
真珠は騒ぎながらも、諦めない。集中力を保ったまま、何度も線を引く。
真珠の真剣な横顔と、いまだに生えたままの狐の耳。
草世は表情を緩ませながら、感想を述べる。
「立派な線が書けたね。合格だ」
「やったぁ! 草世の名前を書きたい!」
「僕の? 自分の名前から練習しないの?」
「私、草世のお嫁さんだから。旦那様の名前を書けるようになりたい!」
無邪気に言い放った真珠に、草世は(説得を試みた時間は、なんだったんだ……)と苦笑した。
真珠が書く線は太すぎて、草がつぶれている。
草世は真珠の後ろに移動した。背後から、真珠の持つ筆を握る。
「一緒に書いてみよう」
真珠に触れた、草世の手、腕。背後に感じる、草世の体。
真珠の心臓が、どきんっと跳ねた。
真珠は紙に綴られていく文字ではなく、草世の手を見た。
草世の手は、関節が目立つ。なめらかな真珠の手とは、違う。
「どうかな? 書けそう?」
「……今度は、真珠の名前も」
大好きな旦那様の気配をもっと感じたくて、真珠は自分の名前をねだった。
草世は新しい紙に取り替えると、真珠の顔を見た。
「では、もう一回……どうした?」
真珠の顔は、椿の花のように真っ赤。つぶらな瞳は潤み、唇がうっすらと開いている。
色気を漂わせている真珠に、草世はしどろもどろになる。
「あ、あ、あー、その、なんだ? 疲れたかい? ちょっと休もう」
「ううん! 書く!」
「だが、顔が赤い。具合が悪いんじゃないのか?」
「ううん。元気だよ。あのね、草世が後ろにいて、どきどきした」
「そうか。どきどき……んんっ!?」
女心に疎い野暮な草世といえども、真珠の言う『どきどき』が病気によるものでないことぐらいわかる。
恥じらう真珠の様子に、草世も意識せざるを得ない。
「こ、こんどは一人で書いてみようか」
「ううん。もう一回、後ろから教えて」
草世は仕方なしに、もう一度、真珠の背後についた。意識してしまったせいで、草世はつい、真珠のうなじに目を留めてしまった。
ほっそりとした、艶めかしい首筋。
草世は早くなった心拍数を誤魔化すように、何度も咳払いをした。
(しっかりしろ! 相手は神様の使いの白狐だぞ! よからぬ思いを抱いては駄目だ!)
生徒に書道を教えるような神聖な心持ちで、草世は真珠の背後から筆を持った。
それなのに、興奮した真珠がぶち壊す。
「きゃあ〜!! 草世の息が顔にかかった! いいねっ!!」
「ぶっ!?」
「あれ? なんで離れるの?」
草世は気持ちを落ち着かせるために、土間に降りた。
「お昼ご飯を作る。練習していていいよ」
「うん! 頑張るね」
昼にはまだ早いが、草世は雑炊を作ることにした。
囲炉裏でお湯を沸かしながら、熱心に練習している真珠を見る。
ほっそりとした体つきや、黒々とした髪、柔らかな表情、桃色に染まった頬、綺麗な形の唇。
すべてが愛らしいと、草世は思う。
(これから、どうしたらいいんだ……)
真珠がいることが、嫌ではない。だから、困る。




