表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/16

字の練習

 草世から筆を渡された真珠は、好奇心で顔を輝かせた。

 勢いのままに、筆を半紙に置く。


「あれ? 書けない」

「墨をつけないと」

「そうなんだ!」


 真珠は、筆にどっぷりと墨を吸わせた。筆先からポタポタと墨汁が垂れる。


「わわっ!」


 真珠は慌てて、半紙に筆を置いた。たっぷりと含んだ墨が、半紙に広がっていく。


「わぁ! 楽しい! 書けたよ!」

「そうだね。でもこれは、字じゃない。まずは、拝啓と書いてくれるかい?」

「ハイケイね。いいよ!」


 真珠は狐文字で、ハイケイと書いた。しかし草世には、歪な線の集合体にしか見えない。


「あとは、なんて書く?」

「えぇと、立春とは名ばかりの厳しい残寒が続いておりますが……」


 真珠は草世の言葉の通りに、『えぇと、立春とは名ばかりの厳しい残寒が続いておりますが』と狐文字で書いた。

 草世は引っ込みがつかなくなり、学生時代の友人、室生に宛てて言葉を紡いでいく。

 真珠はそれを、狐文字で書いていく。


「敬具。これで終わり」

「ケイグ。コレデオワリ」


 真珠は筆を置くと、おでこに浮いた汗を拭った。


「緊張した。でも、上手に書けたよ。どう? 役に立つでしょう?」

「う、うん……」


 半紙には、人間の文字とはほど遠い不思議な線で埋め尽くされている。

 

(読めないと言ってやれば、いいんだろうが……)


 筆を運んでいた真珠の顔つきは、遊び半分ではなく、真剣そのものだった。

 真珠は心から、草世の役に立ちたいと思っているのだ。それが伝わってきたのに、読めないと言うのは失礼な話だと、草世は罪悪感を覚えた。


「誰に送るの?」

「あ? あぁ、友人の室生だ。そうだ、名前を書かないと」


 草世は新しい紙に取り替えると、『深広草世』と書いた。


「これが、僕の名前だ」

「これが!? これが、ソウセイの名前なの?」

「そうだよ」


 音で覚えた『ソウセイ』と漢字の『草世』が結びついて、真珠は大興奮。

 ぴょこんと飛び出した狐の耳に、草世は大笑いする。


「マジュは? マジュの字は!?」

「んー……」


 真珠は筆先の流れなど考えずに、思うがままに大胆に筆を動かしていた。だが、草世は違う。

 草世が持つ筆は、鮮やかな線を描いていく。筆の入り、止め、払い。直線と曲線。太さ、細さ。

 細部まで神経が行き届いた芸術的な線に、真珠は見惚れた。


「草世、すごい!」

「さて、いくつか書いてみたが……。マは、真、麻、眞。ジュは、珠、樹、寿。どれかな?」

「これとこれにする!」


 『真』と『珠』を指差すと、つぶらな瞳で草世を見つめる。


「すごいね。字が上手! 私も上手になりたい。教えて!」

「いいよ」


 草世はまず、筆の持ち方を教えた。それから、筆に含ませる墨の量。筆の動かし方と、筆圧。

 草世に教わりながら、真珠は横線を引いた。


「あれ? 掠れている」

「早すぎるんだ。ゆっくりでいいよ」

「うん。……あれ? ぼわぼわになった」

「ゆっくりすぎて、墨が滲んだんだ」

「難しい!」


 真珠は騒ぎながらも、諦めない。集中力を保ったまま、何度も線を引く。

 真珠の真剣な横顔と、いまだに生えたままの狐の耳。

 草世は表情を緩ませながら、感想を述べる。


「立派な線が書けたね。合格だ」

「やったぁ! 草世の名前を書きたい!」

「僕の? 自分の名前から練習しないの?」

「私、草世のお嫁さんだから。旦那様の名前を書けるようになりたい!」


 無邪気に言い放った真珠に、草世は(説得を試みた時間は、なんだったんだ……)と苦笑した。

 真珠が書く線は太すぎて、草がつぶれている。

 草世は真珠の後ろに移動した。背後から、真珠の持つ筆を握る。


「一緒に書いてみよう」


 真珠に触れた、草世の手、腕。背後に感じる、草世の体。

 真珠の心臓が、どきんっと跳ねた。

 真珠は紙に綴られていく文字ではなく、草世の手を見た。

 草世の手は、関節が目立つ。なめらかな真珠の手とは、違う。


「どうかな? 書けそう?」

「……今度は、真珠の名前も」


 大好きな旦那様の気配をもっと感じたくて、真珠は自分の名前をねだった。

 草世は新しい紙に取り替えると、真珠の顔を見た。


「では、もう一回……どうした?」


 真珠の顔は、椿の花のように真っ赤。つぶらな瞳は潤み、唇がうっすらと開いている。

 色気を漂わせている真珠に、草世はしどろもどろになる。


「あ、あ、あー、その、なんだ? 疲れたかい? ちょっと休もう」

「ううん! 書く!」

「だが、顔が赤い。具合が悪いんじゃないのか?」

「ううん。元気だよ。あのね、草世が後ろにいて、どきどきした」

「そうか。どきどき……んんっ!?」


 女心に疎い野暮な草世といえども、真珠の言う『どきどき』が病気によるものでないことぐらいわかる。

 恥じらう真珠の様子に、草世も意識せざるを得ない。


「こ、こんどは一人で書いてみようか」

「ううん。もう一回、後ろから教えて」


 草世は仕方なしに、もう一度、真珠の背後についた。意識してしまったせいで、草世はつい、真珠のうなじに目を留めてしまった。

 ほっそりとした、艶めかしい首筋。

 草世は早くなった心拍数を誤魔化すように、何度も咳払いをした。

 

(しっかりしろ! 相手は神様の使いの白狐だぞ! よからぬ思いを抱いては駄目だ!)


 生徒に書道を教えるような神聖な心持ちで、草世は真珠の背後から筆を持った。

 それなのに、興奮した真珠がぶち壊す。


「きゃあ〜!! 草世の息が顔にかかった! いいねっ!!」

「ぶっ!?」

「あれ? なんで離れるの?」


 草世は気持ちを落ち着かせるために、土間に降りた。


「お昼ご飯を作る。練習していていいよ」

「うん! 頑張るね」 


 昼にはまだ早いが、草世は雑炊を作ることにした。

 囲炉裏でお湯を沸かしながら、熱心に練習している真珠を見る。

 ほっそりとした体つきや、黒々とした髪、柔らかな表情、桃色に染まった頬、綺麗な形の唇。

 すべてが愛らしいと、草世は思う。

 

(これから、どうしたらいいんだ……)


 真珠がいることが、嫌ではない。だから、困る。


 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ