お嫁さんになりに来ました
草世が不思議な女の子に出会った、その翌日。
寒さが緩んだおかげで、軒から下がっている氷柱からポタポタと雫が垂れ落ちる。
草世は薬棚の引き出しを開けて在庫の確認をしながら、昨夜の出来事に思いを馳せていた。
(白狐の女の子に会った。夢じゃないよな? あの子が飲んだ湯呑みが流しにあったし、机に薬代もある)
妖怪や幽霊などには、無縁の人生だと思っていた。それなのに、白狐と話した。しかも、無邪気で可愛らしい女の子。
草世は長いこと心を覆っていた黒雲が晴れていくような、楽しい気分になった。
けれどそれは、一瞬のこと。変わりやすい山の天気のように、心をまた黒雲が覆う。
草世の実家の近くにある、稲荷神社。狐を祀っているその神社の秋祭りに、絹代と行ったことを思い出したのである。
絹代とは、草世の元許嫁。
彼女が告げた別れの言葉は、草世の心を深く抉った。
——草世さんはいい人だわ。でも私、幸せになりたいの。一緒には、なれない。
親が決めた許嫁だった。けれど草世なりに、絹代を大切に思っていた。結婚して、幸せな家庭を築きたいと思っていた。
それなのに絹代は「幸せになりたいから、一緒になれない」と別れを口にした。
絹代は、理由を言わなかった。わがままを許してほしいと泣いた。
後日。両家の話し合いの末に、婚約が解消された。絹代の親が持参した詫び金に、草世の親は目を輝かせた。
しかし、草世は疑問を持った。
絹代の家は、金物屋。決して裕福ではない。誠意を示すにしても、金額が多すぎる。
しばらくして、友人伝えに知った。絹代は身籠っていた。相手は、大地主の長男。
しがない町医者と、大地主。絹代は、金を選んだのだ。
「幸せとは、結局、金なのだ」
縁談を勧める両親に嫌気が差して、草世は家を出た。
しかし家を出た一番の理由は、町中で絹代と会うのが嫌だったから。彼女が赤ん坊を抱く、その幸せな笑顔を見るのがつらかった。
和歌山から離れ、長野にある床支村に流れ着いた。それでも、事あるごとに絹代を思い出す。そんな自分の女々しさに、うんざりする。
「先生、どうかした?」
草世の家を訪ねて来ていた村の娘が、問う。彼女の名前は、春子。十七歳。
白菜の漬物をお裾分けしに来たのだ。
「別になにも」
「そう? 顔色が悪いよ。風邪を引いたんじゃない?」
「いや、大丈夫だ」
「それならいいけれど。具合が悪くなったら、あたしに言って。看病するから」
草世は曖昧に笑うと、期待する眼差しの春子から顔を背けた。
春子は漬物を置いたのに、帰らない。あそこの家の爺様が腰を痛めただの、隣村に行く道中足を滑らせて転んだだの、どうでもいい話を延々としている。
草世が薬棚の在庫確認をしているのは、忙しいから帰ってほしいという無言の圧なのだが、春子には伝わっていない。
「ねぇ、先生。先生がこの村に来てから、半年が過ぎたでしょう? このまま、ここに住むんですか?」
「考えていない」
「どっかに行くってことですか!」
「そうじゃなくて。ここに住むか、それとも他所に移るか。先のことは考えていない」
「そう……」
春子は唇を舐めた。約束を取りつけるために、踏み込む。
「村を出るときは、あたしも行きます! 先生の助手になります!」
「必要ない」
「でも、一人は寂しいでしょう?」
「そんなことない。自由でいい」
「でも、話し相手は必要です! あたし、しゃべるのが得意ですから。どうですか?」
床支村は、風光明媚な山の麓にある。旅人は「ここは、空気と水がおいしい」と表情を緩める。
しかし、春子は綺麗な空気や水では満足できない。
春子は草世の妻になって、華やかな暮らしをするという夢がある。そのためには、草世に都会に出てもらわなくてはいけない。
「ねぇ、先生。東京に出ましょうよ。あたし、ついていきますから!」
「東京には行かない」
「だったら、東京じゃなくても……。人がたくさんいるところの方が、いいですよ。そのほうが、儲かります」
「僕は、村医者でいい。僻地医療に身を捧げる覚悟で、ここに来た」
草世の唇から苦笑が漏れる。
(僻地医療に身を捧げる? 将来のことなど何も考えていないのに、よく言うよ。だがここまではっきり言えば、春子さんは諦めてくれるだろう)
春子は村を出るために、草世の妻の座を狙っている。草世はそれを、噂話が好きな村人から聞いて知っている。
「僻地ですか……」
春子はうつむいて唇を噛んだのち、顔を上げた。勝ち気な顔にあるのは、ふっ切れた意志の強さ。
「わかりました! あたし、どこにでもついていきます!」
「なんでそうなるのか……」
草世は頭を抱えた。
春子は『医者の妻』に関心があるに過ぎない。彼女の夢に付き合うつもりはない。
「悪いが、どこかに行くつもりはない。それに、結婚するつもりも……」
「こんにちは!」
開け放してある玄関戸から、今日の天気のような晴れやかな声がした。
門口に立っているのは、十七、八歳ぐらいの少女。
手入れが行き届いた艶やかな黒髪に、雪のように白い肌。頬は桃色に輝き、唇は紅を差しているように赤い。
美しい容姿だが、特に印象的なのは瞳。形の良いつぶらな瞳には邪気がなく、深く澄んでいる。
また、着物も大変に素晴らしい。
少女が着ているのは、ここいらの女性が着る素朴な木綿の着物ではない。正絹で織られた赤い振袖に、頭には花文様の櫛。
田舎はもちろん、都会でも滅多にお目にかかれないほどの豪華絢爛な美少女。
草世は呆然とし、春子は口をあんぐりと開けた。
草世が声を振り絞る。
「だ、だれかな……?」
「真珠です。ソウセイのお嫁さんになりに来ました!」




