白狐の村
白狐が住む村は異界にある。
異界は、人間世界から遠く離れた彼方の世界にあるのではない。異界は、人間界の隣にある。薄い膜を隔てた、そのすぐ外側に。
村境、橋、坂、峠、辻道──。これらの場所を歩くときは、気をつけなくてはないけない。
特に、黄昏時。人間世界と異界との境界が曖昧になり、異界に入り込んでしまう人間がいるからだ。人はそれを、神隠しと呼ぶ。
真珠は村境まで行くと、変身を解いた。子狐の姿に戻り、異界に入る。
白狐の村に着くと、真珠は両親に丹野風呂屋の話をした。
「助けてもいいでしょう?」
「番となる人間を見つけたと家を出て行ったかと思えば、事件に首を突っ込みおって! 呆れた娘だ! 駄目だ、助けるんじゃない!」
「どうして?」
「人間同士の問題だからだ!」
父親は叱りつけ、母親はおっとりとした口調で説得に当たる。
「助けたいという、あなたの気持ちがわからないでもないのよ。でも、相手が悪いわ。呪詛を作ったのは、力のある僧侶。下手に関わったら、私たちがやられてしまう」
「そうだぞ。人間のいざこざに巻き込まれたら、たまらん!」
真珠は口を閉ざし、うつむいた。
両親の懸念はわかる。風呂屋に充満していた黒い靄は、禍々しかった。悪神の力を借りられるほどの力を持った僧侶が元凶ならば、白狐といえども身の危険がある。
真珠は、すんと鼻を啜った。
「だけど、草世の役に立ちたい。草世のお嫁さんだもん……」
両親は顔を見合わせ、ため息をついた。
「我々は神の使いとして、人間を導くことがある。よって、人間とは何か。どういう生き物なのか。身近で勉強するのは、悪いことではない。だから、その……ソウセイといったか。その人間と関わるのを、止めはしない。だがな、嫁はやめておけ。白狐と人間では、命が長さが違う。つらいだけだぞ」
「そうよ。人間は、すぐに死んでしまうもの」
「わかっている! 草世は、いつかいなくなっちゃう。私より、先に死んじゃう。だから、一分でも一秒でも長く、一緒にいたいの!」
真珠は、大きな黒目から涙をポタポタとこぼした。
人間はどんなに長く生きても、百歳ほど。白狐の平均寿命である、五百歳には遠く及ばない。
草世と一緒にいられる時間よりも、草世が亡くなった後の時間のほうが長い。
両親は、真珠の孤独を心配している。けれど、真珠は覚悟の上で草世と暮らすことを選んだのだ。
「草世が好き。草世の優しい笑顔が、大好き。草世が助けたいと思っている人を、私も助けたい」
「だけどなぁ。あの呪詛は、厄介な代物だ。風呂屋に利益をもたらしていたのがピタリと止まって、今度は不幸が押し寄せた。人間の欲望を吸うことで、悪い力が発動する呪文がかかっていたのだ。人間の欲望には、底がない。恐ろしいものだ」
「綺麗な心を持っていた人間が集まっていたのなら、こんなことにはならなかった。あの風呂屋の人間と、そして風呂屋に集まった客たちの欲望が黒かったから、呪いが発動したのよ」
父親は真面目な顔で、真珠に言い聞かせる。
「母さんの言うとおりだ。黒い靄が充満していたということは、人間たちの欲望がどす黒かったということ。人間を助けたいという真珠の気持ちは、尊いものだ。だが、呪詛を作ったのは人間。それを家に置いたのも、人間。あの家に住む人間が僧侶から呪詛を買い、家に飾ったのだ。そして、身勝手な欲望を募らせた。つまり、自業自得というわけだ」
真珠はシュンとし、うなだれたまま家を出た。とぼとぼと歩く。
両親の話すことはわかる。自業自得、その一言で片付けることができる。
「でも、草世は自業自得じゃないもん。草世が悲しいと、私も悲しい」
柱に縛られていた人間は、草世にとって大切な人なのだろう。その人間を見ていたときの、草世の苦しそうな顔。
「草世が笑顔でいるためなら、私、どんなことでもする!」
草世は笑うと、目尻がふにゃっと垂れる。その優しい笑顔が、真珠は大好きなのだ。
真珠は、風呂屋の人間を助ける覚悟を決めた。
林の中を歩いていると、風が匂いを運んできた。会いたくない者の、匂い。
「逃げなきゃ!!」
真珠は四肢に力を入れ、全力で駆ける。
真珠の両親は文句を言いながらも、真珠に甘い。神の使いである白狐として成長するために、草世の家にいるのを大目に見ている。
だが、真珠の幼馴染は違う。
林の先に、光が見えた。もう少しで、異界から抜ける。人間の世界に入る。あと少しで──……
だが、雷のような鋭い光が真珠を直撃した。
「きゃんっ!!」
電流が体を走り、筋肉が痙攣する。足から力が抜け、真珠は倒れた。
「うう……」
「愚かな女だ」
トンっ──。
軽い足音とともに、真珠より二回り以上も大きい白狐が降り立った。
真珠の幼馴染、白裂である。




