人殺しになる、その前に
風呂屋の奥が自宅になっており、その二階に直志の部屋がある。
「おはようございます」
草世の発した挨拶が、静寂な空間に響く。
返事はない。物音もしない。
まるで人が住んでいないかのような、静けさ。
「まだ寝ているのだろうか?」
直志の看病で、両親は疲れ果てている。近頃は風呂を沸かすこともなく、掃除もせず、埃が溜まっていく一方。
寝ているかもしれない両親を起こすのは悪いと思い、草世は挨拶をするのをやめた。
黙って建物の中を進み、直志の部屋のドアを開けた。
モダンな建物の作りにふさわしい洋室。
直志の姿はなく、ベッドが乱れている。掛け布団が丸まり、枕が床に落ちている。
「直志がいない。どこに……」
「……先生……」
「ひゃあっ!!」
背後から突然かけられた、幽霊のような声。草世は心臓が竦みあがった。
「あ、ああ、お母さんですか。びっくりした!!」
背後にいたのは、直志の母親。
草世が床支村に来た当初。母親は丸々した体つきをしており、髪はカラスの濡羽色のように黒々としていた。
しかし、直志が倒れて約一ヶ月。まだ四十代前半なのに総白髪になり、痩せてしまった。
母親の目のまわりには、赤紫色の痣ができている。
「その顔、どうしたのですか?」
「私たちの願いが通じました。直志が起き上がりました」
「よかったですね! 意識は?」
「殺す、と言っています」
一ヶ月前に、直志は倒れた。それからずっと、寝込んでいた。
当初は、会話ができた。直志は怯えた声で「黒い靄が、この家を覆っている」と、何度も口にしていた。
その後、意識が途絶えた。眠りに入ったまま、目を覚さない。
それがようやく目を覚まし。起き上がったというのに──……。
「殺す、ですか……」
「はい。みんな殺す、と」
「直志は今、どこに?」
「大黒柱に縛りつけています」
「柱に……どうして?」
母親の目に溜まっていた涙が、ほろりと落ちた。
「斧を探しに、外に出て行こうとしたのです! 本当に人を殺すのではと怖くなり……縛るしかなかった。あの子は、悪いものに取り憑かれてしまった!!」
「ご主人は、大丈夫なのですか!?」
「怪我を負って、寝ています。診てもらえないでしょうか?」
「それはもちろん!!」
階段を降りようと動いた草世の着物の袖を、母親が掴んだ。痛々しい痣のある目で、訴える。
「お願いです!!」
「なんでしょう?」
「あの子は、私たちを殴った。一度も手を上げたことのない、心やさしいあの子が、鬼のような顔で私たちを殴った。あの子はもう、直志ではない。悪いものに取り憑かれ、心を失ってしまったのだと、そう思った。それなのに……今朝、様子を見に行ったら、優しい顔に戻っていた」
母親は涙を流しながら、うっすらと笑った。
「直志に戻った。私は喜んで、縄を解こうとした。そうしたら、あの子は言ったのです。『縄を解かないでくれ。俺の中に、得体の知れない黒い者がいる。人を殺そうとしている。完全に乗っ取られる前に、俺を殺してくれ』と……。泣きながら、頼んできた。主人と私は、息子が人殺しの罪を負うぐらいなら、私たちの手で殺そうと決めました……」
「そ、それで、どうしたのですか!?」
残酷な選択に、草世の肝が冷える。
母親は疲れ果てたように、ゆるゆると首を横に振った。目眩を起こしたのか、母親の体がぐらついた。
草世は母親の両腕を掴むと、ゆっくりと座らせた。
「大丈夫ですか?」
馬鹿な質問だと、草世は思った。何ひとつ、大丈夫ではない。
母親は血色の悪い唇を振るわせ、涙ながらに言った。
「私たちには、できなかった……。できないのです。息子を殺すことなど……。包丁を手にしたけれど、できなかった」
母親は泣き濡れた顔を上げると、必死の形相で草世の服を掴んだ。
「先生、お願いです!! あの子を殺してください!! あの子が人殺しになる前に、あの子があの子でなくなってしまう前に、どうか……!! お願いします。直志を殺してやってください。後生の頼みです。先生、お願いします……」
土下座し、額を床につけた母親。
草世は言葉を返すことができなかった。
(直志が人殺しにならないために、僕が直志を殺す……)
医者である自分なら、罪に問われることなく人を殺す手段を持っている。
(僕なら、殺せる)
だがそれは医者としての倫理観にも、人としての道徳心にも反する。
底冷えのする建物。足の感覚がなくなり、何かを感じる心さえもなくなっている。
廊下にある窓が、カタカタと鳴っている。天気が急変し、雪が横殴りに降っている。




